Chapter 1 of 6

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敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルのヴェランダや霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。

それは輝くばかりの美しい白髪をいただき鶴のように清く痩せた、老年のゲエテ、リスト、パデレウスキなどの Phenotype(顕型)に属する壮厳な容貌をもった、六十歳ばかりの老人だが、このような霊性を帯びた深い表情が日本人の顔に発顕するのはごくまれなので、いったいどういう高い精神生活を送ったひとなのだろうと眼を見張らせずにはおかなかった。

服装も非常に印象的で、生地はいまから二十年ほど前、手織木綿のような手固さと渋さを愛された英国のウォーステッドという古風なもの、フォルムも大正のよほど早いころの流行でそれはともかく、着方にどこがどうとはっきりと指摘できぬ何ともいえぬもどかしい感じがある。アフリカの土人に洋服を着せると、どんなにきちんと着付けてやってもいつの間にか微妙に着崩してしまうということだが、この老人の着方にも、ややそれに近い、なんとなくぴったりしないところがあった。

この老人は、東京の空襲で一家爆死した阪井有高の別荘に、祖父江という見るからに沈鬱な青年と二人で住んでいて、ゴルフ場のそばの落葉松の林や愛宕山の下の薄原の道を散歩するのを日課にし、いっさい避暑地の社交に加わらなかった。

阪井有高というのは華族の中でも有数な資産家で、健康も知恵もありあまるのに、どんな会社にも事業にも関係せず、どのような趣味も特技も持たず、完全な安逸と無為のうちに生涯の幕を閉じたオブロモフ式の徹底的な遊民だったが、その最後はちょっと前例のないほど異変的なものだった。

細君の琴子は京都の西洞院家から来たひとで、小松顕正の許嫁だったのが、どういうわけか小松の叔父の阪井と結婚し、鮎子という美しいがどこか狂信的なところのある娘といっしょに毎夏軽井沢へ来ていたが、阪井の近親にこんな秀抜な老人がいることはだれも聞かず、少なくともこの二十年阪井へ出入するのを見たものがなかった。

ホテルなどでは、たぶん長らく外国にいて、この四月の欧州最後の引揚船で帰ってきたひとなのだろうというところへ意見が落ちつきかけたが、それにしてはあの大正式のスタイルとみょうな着ざまはどうしたものだと一人がいいだしたので、この推測もあやしくなってきた。

外廊や炉辺でそういう噂が焦げつくようになったある日の午後、老人がめずらしく一人でホテルのグリルへやってきて、給仕に、Spiter というむずかしい英語で昼食を命じた。なるほど昼食という意味ではあるが、それは五百年ぐらい前に使われ、いまはまったく死語になっている言葉であった。

もちろん給仕は死語など了解しようわけはなく、だいたい察してランチを持って行くと、その老人は十六世紀の欧羅巴人がそうしたように鹹豚肉を右手の人差指に巻きつけて食うというふしぎな局面を演じたが、奇をてらっているのでも錯乱しているのでもない証拠に、その作法がいかにも家常的でぴったりと身につき、フォークやナイフを使っていることが気はずかしくなったほど魅力のあるものだったので、見ていただけの人間にメランコリックな戸惑いを感じさせた。

それでグリルにいた一人がすばやくすり寄って行って会話のきっかけをつかんだ。

言語は非常に明晰でニュアンスに富み、頭脳のみだれも思考の障害も感じさせないが、最近二十年間ぐらいの日本の社会事情に触れると当惑の色をあらわしてしどろもどろになってしまう。満州事変も上海事変もまるで知らず、太平洋戦にいたっては、そんなことがあったそうだという程度の薄弱な認識ぶりだった。やはりこれは外国の、それも思いきった辺境に長らく住んでいた人なのだと察してたずねてみると、ずっと日本にいて、いちども外国へなど行ったことがないという意味の返事だった。

それ以来その老人はけっして一人で出歩かないようになった。ときたまバアへアペリチフを飲みにくるが、いつも青年がいっしょで、だれか老人に話しかけると、なんとなく割ってはいって返事をみなひきうけてしまう。その青年が老人に同伴しているのは、老人に話しかけられるのを防ぐためだということがわかった。

そういう不分明な、どこか漠とした事情がそれからもいろいろと重なったので、その老人は避暑地の前景の中で一種の超人的な存在になった。もっとも同伴者のほうはまもなく素性がわかった。祖父江光という有名な建築家の長男で、ながらくロンドンにおり、郡虎彦などのあとで演劇に関係し、早川雪洲の弟子になったとか、巴里のパチエ・ナタンの映画のエキストラをしていたとか、そういう噂がきこえていたが、太平洋戦がはじまる年の春、飄然と日本へ帰ってきたのだとある一人がつたえた。

八月も末に近い霧の深い夕方、二人はいつものようにホテルのバアへやってきたが、老人はバルザックを一杯飲んで先に帰り、祖父江が煙草を吸いながらヴェランダへ掛けにきた。そのときいつもの連中が五人ばかり残っていたが、こういうこともあろうかと待ちかまえていたところだったので、そのうちのひとりが辞令ぬきで祖父江にたずねた。

「祖父江さん、いつもあなたといっしょにいられる、あの立派なご老人はどういうかたなのですか。お差つかえなかったら、われわれにもご紹介ねがいたいですね」

祖父江は薄闇の籐椅子に掛け、もう赤く光りはじめた煙草の火を見つめていたが、まもなく顔をあげるとこんなことをいった。

「たぶんみなさんは、あのあやしげな老人はいったいなにものだと、おたずねになっていられるのだと思いますが、あなたがたのご満足を得るようにするには、あの老人の再生のお話をするのがいちばん手っとり早いようです」

「なるほど、あの老人はこんど公民権を回復した一人だったのですね」

「いや、わたしの再生というのは、墓の下から出て来たという意味です」

「墓というと」

「人を葬る、あの墓のことです」

なんともいいようのない不快な感じに襲われ、みないちように身ぶるいした。ホテルの芝生に霧が川のように流れ、たしかにうすら寒い夕方でもあった。

「黒岩涙香の『白髪鬼』という小説がありましたが、あなたのお話もなにかそんなふうなロマネスクな匂いがしますね」

「あの復讐綺談はわたしも少年のころに読みました。あの話にはこしらえものにつきもののこじつけや矛盾があって、それが一種の救いになっていますが、あのひとの過去には、残念ながらそういうものは一つもありませんでした」

「それで、あの人はいま幸福なのですか」

「たしかに幸福だともいえるのでしょうが、かすかな灯明がいっそう闇を暗くし、伐木丁々山さらに幽なりで、再生したことがかえって真の悲劇という感じを深くしているようにわたしには思われるのです。わたしは非常に話下手なので、三日ばかり猶予をくだされば、メモをとってきて、それを読みながらくわしくお話しましょう」

と約束して帰って行った。

それから三日後、祖父江は、細かく書きこんだノートを持ってやってきた。それでみなはヴェランダからJ子爵の別荘へ移り、炉辺の安楽椅子に沈みこんでこころゆくまでその話をきいた。祖父江がノートに書きつけてきたのは、次のような数奇な物語であった。

わたしが阪井有高とつきあうようになったのは、今年から数えるとちょうど二十九年前の大正六年の夏のことでした。

まだみなさんのご記憶にありましょうが、左団次の自由劇場以来、われわれの仲間で翻訳劇の私演会を催すことが流行し、近衛秀麿や三島章道や土方与志などの「芽生座」がまずトップを切りましたが、大正の終りごろになると、フランスのアヴァン・ギャルド運動に刺戟されてまた新しく勢いをもりかえしてきました。

阪井などはその一方の旗頭で、坪内さんの講義をきくために帝大の法科と早稲田の文科をかけもちしたくらいでしたが、大正六年の夏「ハムレット」の新演出で、日本の前衛運動の最初ののろしをあげようということになり、三カ月の暑中休暇を利用し阪井の別荘に合宿して猛練習をはじめましたが、ハムレットは小松顕正、クローデアス王が阪井、オフィーリヤが後で阪井の細君となった小松の許嫁の西洞院琴子、わたしがハムレットの親友ホレーショーと、まあ大体こういう配役でした。

小松というのはちょっとめずらしい生真面目な男で、じぶんがハムレットをやるときまると、死んだおやじの書庫からエリザベス朝に関する文献をありたけひきずりだし、建築から服飾、工芸品、装身具、食器、料理、作法、狩猟、遊戯というぐあいに、当時の風俗と日常生活の一般を細大洩らさずしらべあげ、そのうえマンツァーメスの「牧詩」「獅子と狐」などというそのころの寓話まで眼をとおすといううちこみかたでした。小松の父は外交官として長らく英国におり、落合の邸は日本でただ一つの純粋なアングロ・ロマネスクの建築で、その書庫は大英図書館と綽名されたほど有名なものでしたので、こういうディレッタンティスムを満足させるにはまず十分以上だったのです。

「ハムレット」が書かれた時代のようすが一通り頭へはいると、こんどはハムレットの生国のデンマークの研究にかかり、デンマーク公使館の、ヌルデンシェルトから参考書を借りだし、十六世紀頃の法律、制度、文化、国民的気質、日常生活と、やすむひまなく追求をつづけ、ようやくのことでそのほうが一段落つくと、いよいよ本腰をすえて脚本の解釈にかかり、ダイトンやカッセルの注釈本を参考にして、So とか Such とか That とか、そんな簡単な言葉についてもいちいちアクションをかんがえる。そういうあいだにもウィリアム・アーヴィングをはじめ、ダヴィット・ギァーリック、フォーブス・ロバートソン、ジョン・バリモア、セイッシイとあらゆる名優のハムレットの舞台写真を集め、扮装とメイキャップの工夫をするというふうにハムレットになりきるために異常な努力をつづけていました。

さっきもお話しましたように、落合の小松の邸はいくつも破風をもったエリザベス朝式の建築で、ポーチには白い柱がならび、バルコンには獅子の紋章を浮き出しにした古風な金具がつき、ダイヤモンド格子の明層窓には彩色硝子が嵌っているというぐあいですが、舞踏室といっている二階の広間はくすんだ色の樫の格天井と黒樫の高い腰板をもった、十六世紀の郷士や護法武士の饗宴場を模倣したものなので、背景とか書割とかいうものをいっさい使わず、そういう様式を生のままむきだしにし、ミッドル・テムプル・ホールの大広間で、シェークスピアがエリザベス女王のために御前演芸をやった、一六〇〇年ごろそのままの幕無しの演出をやり、普通の劇場では出せないクラシックな舞台効果をあげようというのがねらいだったのです。

いよいよ私演会の当日になると、この新演出が評判になって有名な劇評家や一流新聞の記者までつめかけ、予想以上の大成功のうちにたいした穴をあけずに進行しましたが、いよいよ最後の「城内大広間」の場にかかるとまもなく思いがけない事件が起りました。

大詰の五幕二場はご承知のように、「オフィーリヤの兄レーヤーチーズと、ハムレットの決闘、並びにデンマークの王家の絶滅」という悲劇のクライマックスに達するのですが、この場面の装置は舞台正面は樫の腰板をそのままむきだしにし、その両端に対照的についてる大きな窓を隠すために、デンマーク王家の金の摺箔の紋章をつけた、オールドローズの天鵞絨の幕をゆったりと垂らしてあるという凝ったもので、下手の幕に寄せて王座をつくり、ここで王と王妃と廷臣らが決闘の見物をするというのです。

クローデアス王はこの決闘にかこつけてハムレットを殺してしまうつもりで、レーヤーチーズにひそかに毒を塗った剣を渡してあるがハムレットはそんなことは知らない。

一回、二回ともレーヤーチーズがかすり傷を受け、第三回目、いよいよはげしい接戦になり、ハムレットがだんだん上手へさがる。レーヤーチーズがつけ廻し、つづけざまに長手の突きをやる。ハムレットは切先であしらい、幕に背を擦りながら上手から正面へ廻るということになっていました。

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