第二 上京
一 故郷を捨つ
政府が人権を蹂躙し、抑圧を逞しうして憚らざるはこれにても明らけし。さては、平常先輩の説く処、洵にその所以ありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処にかあらん、この身は女子なれども、如何でこの弊制悪法を除かずして止むべきやと、妾は怒りに怒り、りにりて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出でて有志の士に謀らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距る三里ばかりなる親友山田小竹女の許より、明日村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切なる招待の状来れり。そのまま東都に奔らんにいと序でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣で、暫く黙祷して妾が志を祖先に告げぬ。初秋のいと爽やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背き、恩愛厚き父母の膝下を離れんとする苦しさは、偲ぶとすれど胸に余りて、外貌にや表われけん、帰るさの途上も、母上は妾の挙動を怪しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許しこそなけれ母は御身を片田舎の埋木となすを惜しむ者、如何で折角の志を沮むべき、安んじて仔細を語れよと、さりとは慈愛深き御仰せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容なきを知ればなり。かくて先ず志士仁人に謀りて学資の輔助を乞い、しかる上にて遊学の途に上らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和の豪農土倉庄三郎氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃かに出立の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸すべからずとて、遂に母上までも欺き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕いて、一週間ばかりの暇を乞い、翌日家の軒端を立ち出でぬ。実に明治十七年の初秋なりき。
二 板垣伯に謁す
友人の家に著くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼ての決心なり、明くれば友人の懇ろに引き止むるをも聴かず、暇乞いして大阪に向かいぬ。しかるに妾と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻りに妾の生地を尋ねつつ此方の顔のみ注視する体なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非ざる乎と、一旦は少なからず危ぶめるものから、もと妾の郷を出づるは不束ながら日頃の志望を遂げんとてなり、かの墻を越えて奔るなどの猥りがましき類ならねば、将た何をか包み秘さんとて、頓て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩らしけるに、さらばその親戚は誰れ町名番地は如何になど、執拗ねく問わるることの蒼蝿くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇起って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾の何人なるかを問い究むる暇もなく、その人に牽れて来り見れば、何ぞ図らん従妹の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体にて、何故の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳みかけて問い出でぬ。固より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺ける答えなりしが、果ては質問の箭の堪えがたなく、最とど苦しき胸を押さえ額を擦りて、眩暈に托言せ、委しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓び迎え、しかも妾の新来を訝しうも思えるなるべし。その夕妾は遂に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力せんと誓いぬ。
その翌日直ちに土倉氏を銀水楼に訪れけるに、氏はいまだ出阪しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所に訪れしに、葉石氏は妾が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇ろなる教訓を垂れ給いき。されど妾の一念翻すべくもあらずと見てか、強いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳べよとあるに、妾は諾いて遂に伯に謁し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家のため、人道のために勉めよとの御言葉なり。世にも有難くて感涙に咽べるその日、図らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰にてありしかば、天にも昇る心地して従弟にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依りて学資をさえ給せらるるの幸福を無視するは勿体なしとて、終に公然東上の希望を容れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。
三 書窓の警報
それより数日を経て、板伯よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身と同伴の事を頼み置きたり、直ぐに来よ紹介せんとの事に、取り敢えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹氏にてありければ、妾はいよいよ安心して、翌日神戸出帆の船に同乗し、船の初旅も恙なく将た横浜よりの汽車の初旅も障りなく東京に着して、兼ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈新聞』記者坂崎斌氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地なる新栄女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍ら坂崎氏に就きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端なくも妾の書窓を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱を賭して、偏に一時の栄華を衒い、百年の患いを遺して、ただ一身の苟安を冀うに汲々たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔るの癖ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂に巾幗の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民の眠りを覚しくれでは已むまじの心となりしこそ端たなき限りなりしか。
四 当時の所感
ああかくの如くにして妾は断然書を擲つの不幸を来せるなりけり。当時妾の感情を洩らせる一片の文あり、素より狂者の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左に抜萃することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲を憂うると共に、また昔時死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵るまでも已まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸くかの私欲私利に汲々たる帝国主義者の云為を厭わしめぬ。
ああ学識なくして、徒に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世愛国の女志士として、人も容されき、妾も許しき。姑らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来儂は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習に慣れ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已、豈事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家の休戚をや。いまだかつて念頭に懸けざるは、滔々たる日本婦女皆これにして、あたかも度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競いて国政に参し、決して国の危急を余所に見るなく、己れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘い、能く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして政に参せしめざる時は、憂国の余情溢れて、如何なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風たる而已ならず憂国の志士仁人が、誤って法網に触れしを、無情にも長く獄窓に坤吟せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙に遑あらず。就中儂の、最も感情を惹起せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦の三大自由権を剥奪し、剰え儂らの生来かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅云々の語を付し、畏れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩の余り、暫し数行の血涙滾々たるを覚え、寒からざるに、肌に粟粒を覚ゆる事数なり。須臾にして、惟らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛の酷なるを怨み、如何の感を惹起せん、恐るべくも、積怨の余情溢れて終に惨酷比類なき仏国革命の際の如く、あるいは露国虚無党の謀図する如き、惨憺悲愴の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌に削除せざるを得ずと、即ち曩日に政府に向かって忠告したる所以なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固より現当路者の旧蹟あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖り、剰え日清談判の如く、国辱を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧みるの遑なし、我が国の危急を如何せんと、益政府の改良に熱心したる所以なり。儂熟考うるに、今や外交日に開け、表に相親睦するの状態なりといえども、腹中各針を蓄え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強の欲を逞しうし、頻りに東洋を蚕食するの兆あり、しかして、内我が国外交の状態につき、近く儂の感ずる処を拳ぐれば、曩日に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙淋漓、鉄腸寸断、石心分裂の思い、愛国の情、転た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎、ああこの国辱を雪がんと欲するの烈士、三千七百万中一人も非ざる乎、条約改正なき、また宜なる哉と、内を思い、外を想うて、悲哀転輾、懊悩に堪えず。ああ如何して可ならん、仮令女子たりといえども、固より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独り愁然、苦悶に沈みたりき。何となれば、他に謀るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂は修業中なるを以て、小林の寓所を訪う事も甚だ稀なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲ちたり。また小林は予ての持論に、仮令如何に親密なる間柄たるも、決して、人の意を枉げしめて、己れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔の思想を、陳述する者なりと、何事においても、総てかくの如くなりし。しかるに、忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂は曩日に述べし如く、我が国の安危旦夕に迫れり、豈読書の時ならんやと、奮然書を擲ち、先ず小林の処に至り、この際如何の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言を尽して、数その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸く、今回事件の計画中、その端緒を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已との言に儂は大いに感奮する所あり、如何にもして、幾分の金を調え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯会社を設立するを名とし、相模地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充つる能わず、ただ有志士の奔走費位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨すといえども、悲しい哉、処女の身、如何ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂の如きは、金員を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀れり。しかる処、偶日清も平和に談判調いたりとの報あり。この報たる実に儂らのために頗る凶報なるを以て、やや失望すといえども、何ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨なるなからん乎、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如かずと、ここにおいて檄文を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力して、辮髪奴を国外に放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已ならず、一は以て内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速やかにこの挙あらん事を渇望し、かつ種々心胆を砕くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫くして、大井は中途にして帰京し、小林独り止まりしが、漸くその尽力により、金額成就せしを以て、いよいよ磯山らは渡行の事に決定し、その発足前に当り、磯山儂に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾す。もっとも儂は、曩日に東京を出立するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥出立というその前日逃奔し、更にその潜所を知る能わず。故を以て已むなく新井代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂し、新井と共に渡航の途に就き、崎陽に至り、仁川行の出帆を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜を生じ、渡航を拒むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺うに、堂々たる男子にして、私情を挟み、公事を抛たんとするの意あり、しかして君の代任を忌むの風あり、誠に邦家のために歎ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止まる方好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟一身を抛擲して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事は総て大井、小林の任ずる所なれば、敢えて関せず、我は啻その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全うする者と、暫し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行決死せざれば、到底充分平常希望する処の目的を達する能わず。かつ儂今回の同行、偏に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂今仮令異国の鬼となるも、事幸いに成就せば、儂平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲らんや。かつ惟らく、儂は固より無智無識なり、しかるに今回の行は、実に大任にして、内は政府の改良を図るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲するの栄を受く、ああ何ぞ万死を惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽において、小林に贈るの書中にも、仮令国土を異にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近東洋に、自由の新境域を勃興せんと、暗に永別の書を贈りし所以なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子を棄てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他なし、啻愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能わず。空しく獄裏に呻吟するの不幸に遭遇し、国の安危を余所に見る悲しさを、儂固より愛国の丹心万死を軽んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨むの意なしといえども、啻国恩に報酬する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転た潸然たるのみ。ああいずれの日か儂が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において大阪府警部補 広沢鉄郎 印
かく冗長なる述懐書を獄吏に呈して、廻らぬ筆に仕たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔る青春の人々は、くれぐれも妾に観て、警むる所あれかし、と願うもまた端たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪に弄ばれて、深く深く不遇の淵底に沈み、果ては運命の測るべからざる恨みに泣きて、煩悶遂に死の安慰を得べく覚悟したりしその後の妾に比して、人格の上の差異如何ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙の禁めがたきを奈何せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲たんとしたりしは、一は名誉の念に駆られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作あり、
愛国丹心万死軽 剣華弾雨亦何驚
誰言巾幗不成事 曾記神功赫々名
五 不恤緯会社
これより先妾は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍ら、何とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟女史と謀りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。
六 於菟女史
富井於菟女史は播州竜野の人、醤油屋に生れ、一人の兄と一人の妹とあり。幼より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精して同所の中学校に入れ、やがて業を卒えて後、その地の碩儒に就きて漢学を修め、また岸田俊子女史の名を聞きて、一度その家の学婢たりしかど、同女史より漢学の益を受くる能わざるを知ると共に、女史が中島信行氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入自由燈新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟女史を以て嚆矢とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万秘密を厭い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何で空しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨き、心私かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興さんとて、坂崎氏には一片の謝状を遺して、妾と共に神奈川地方に奔りぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野町に着し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金して重井(変名)、葉石等志士の運動を助けんと企てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途に就きぬ、旅費は両人の衣類を典して調えしなりけり。
七 髪結洗濯
女史と相別れし後、妾は土倉氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤なし、均しく皆神聖なり、身には襤褸を纏うとも心に錦の美を飾りつつ、姑らく自活の道を立て、やがて霹靂一声、世を轟かす事業を遂げて見せばやと、ある時は髪結となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都に知る人なき心易さは、なかなかに自活の業の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩いつつ、居て待たんよりは、むしろ行きて見るに若かずと、これを葉石氏に議りしに、心変りならば行くも詮なし、さなくばおるも消息のなからんやという。実にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認めたる一封の書は来りぬ。見れば怨めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶に陥りたり今日はもはや曩日の富井にあらず妹は一死以て君に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能く尽す処にあらずただただ二階の一隅に推しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺め悲哀に胸を焦すのみ余は記する能わず幸いに諒せよ」とあり。言は簡なれども、事情の大方は推せられつ。さて何とか救済の道もがなと千々に心を砕きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕い来りける門弟のありしを対手として日々髪結洗濯の業をいそしみ、僅かに糊口を凌ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。
八 暁夢を破る
しかるにその年の九月初旬妾が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明に二階下より妾を呼びて、景山さん景山さんといと慌ただし。暁の夢のいまだ覚めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現の中に問い反せしに、女のお客さんがありますという。何という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有いますと答う。なに富井さん! 妾は床を蹶りて飛び起きたるなり。階段を奔り下りるも夢心地なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱きつき、暫しは無言の涙なりき。懐かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦しき空を、汗臭く無下に汚れたる浴衣を着して、妙齢の処女のさすがに人目羞かしげなる風情にて、茫然と庭に佇めるなりけり。さてあるべきに非ざれば、二階に扶け上げて先ず無事を祝し、別れし後の事ども何くれと尋ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身に別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹の恙なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最と感じ入りたる体にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂に調金の事を申し出でしに、図らざりき感嘆の体と見えしは妾の胆太さを呆れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐かに沈みたる底気味わるき調子もて、かかる大それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌に防がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣る瀬なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯にも警察に告訴して有志の士を傷つけんとは、何たる怖ろしき人非人ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭によりて悔悟したれ、以後は仰せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉じ籠めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優りて、御身のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸う妹を賺して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委しき有様を書き記すべき暇もなかりき。定めて心変りよと爪弾きせらるるならんと口惜しさ悲しさに胸は張り裂くる思いにて、夜もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐ろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔の期を得たるなり。そは両三日前妹が中元の祝いにと、他より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費として、夜半寝巻のままに家を脱け出で、これより耶蘇教に身を委ね神に事えて妾が志を貫かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背くの不義を咎むることなく長く交誼を許してよという。その情義の篤き志を知りては、妾も如何で感泣の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地ぞや。妾が敬慕の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊を以て任ずる妾の寓所にて種々と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨みてお互いに尽す道は異なれども、必ず初志を貫きて早晩自由の新天地に握手せんと言い交わし、またの会合を約してさらばとばかり袂を分ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由なかりき。