五
一月十九日の朝、五時を打つか打たぬに、ベシーは、手燭を私の部屋に持つて來た。私は、もう起きて、殆んど着物を着てしまつたところだつた。私は、彼女が此處へ這入つて來る半時間前に起床して、顏を洗ひ、寢臺の側の狹い窓から流れ込んで來る、ちやうど沈みかゝつてゐる半月の光で着物を着てゐたのだつた。その日、私は午前六時に邸の門前を通る驛馬車でゲィツヘッドを出發することになつてゐた。ベシーだけが起きてゐた。彼女は、子供部屋に火をおこして、私の朝飯をそこで拵へ始めてゐたところだつた。旅行の思ひで昂奮してる時に、御飯の喰べられる子供は、殆んど無い。私もまたその例に洩れなかつた。ベシーは、私の爲めに作つてくれたパンや沸かした牛乳を幾匙か食べるようにとすゝめたが、無駄だつたので、ビスケットを幾らか紙に包んで、私の鞄の中に入れて呉れた。それから、彼女は私に長コートを着せ、ボンネットを冠るのを手傳つて呉れた。さうして、彼女がショールをかけて、私と一緒に子供部屋を出た。私たちが、リード夫人の寢室を通る時に、ベシーは云つた。
「這入つて奧さまにお別れの挨拶をなさらない?」
「しないわ、ベシー。伯母さまは、昨夜あんたがお夕飯に下りていつた時に、私の寢床に來て、私が朝、伯母さまや從兄妹たちを騷がせるには及ばないと云つたんですもの。そして伯母さまは自分がいつも私の一番いゝ味方だつたことを、忘れないように、そしてね、伯母さまのことを話し有難く思ふようにと、仰しやいましたわ。」
「何んて云つて? お孃さん。」
「何んにも云はなかつたの、私は顏に敷布をかぶせて、壁の方を向いてゐたわ。」
「それは、いけなくつてよ。ジエィンさん。」
「あたりまへよ、ベシー、あんたの奧さまは私の味方ぢやなかつたんですもの、私の敵だつたんですもの。」
「まあ、ジエィンさん、そんなことを云ふもんぢやありません。」
「左樣なら、ゲィツヘッド!」私たちが廊下を通つて玄關へ出ていつた時、私は叫んだ。
月は沈んで、大へん暗かつた。ベシーは提灯を持つてゐた。その光りが濡れた階段と、近頃の雪解けでびしよぬれになつた砂利道とを照してゐた。冬の朝は、ひどく寒かつた。私が馬車道へ急いで下りてゆく時に、齒がガタ/\と鳴つた。門番の小屋には灯があつた。私達が門番小屋につくと、門番のお内儀さんは丁度火を熾しかけてゐるところだつた。前の晩運び下しておいた私のトランクは、細引が掛かつて入口のところにあつた。六時までには、ほんの數分しかなかつた。六時が鳴つて、すこしすると、遠くから響いてくる轍の音が、馬車の近づいて來るのを知らせた。私は入口のところへいつて、馬車のランプが疾く近づいて來るのを暗闇を透して見守つてゐた。
「お孃さんは獨りでいらつしやるの?」と門番のお内儀さんは訊ねた。
「えゝ。」
「道程は、どれくらゐ?」
「五十哩。」
「まあ、遠いこと! リード奧さまは、そんな遠くまでひとりで行かして、氣がかりではないんでせうかしら?」
馬車は停つた。四頭の馬と、客を乘せた車蓋とが、門のところにあつた。
車掌と馭者とが、大聲で、急ぐようにとせき立てた。私のトランクは、積み上げられた。接吻をして縋りついてゐたベシーの首から、私は引き放された。
「よく面倒を見て下さいよ。」と、車掌が車内へ私を抱き載せる時に、ベシーは、彼に叫んだ。
「えゝ、えゝ。」といふのが答へであつた。扉がぴちやつと閉つて、「オールライト!」といふ聲が叫んだ。さうして、馬車は、動いていつた。かくして、私は、ベシーやゲィツヘッドから離れた。かくして、私は、未知の、その時、さう思つたのであるが、遠い、神祕の世界へと、運ばれ去つた。
その旅のことは、ほとんどまつたく、記憶してゐない。その日が不思議に長いやうに思つたことゝ、數百哩以上の道程を旅行したやうに思つたことだけ、私は知つてゐる。私たちは、色々の町を通り過ぎた。一つの町――大さう大きな町――で、馬車は停つた。馬が外されて、乘客たちは、晝食のために降りた。私は、旅籠屋へ連れて行かれた。そこで、車掌は、私に食事をすることを薦めた。が、私は、何も食べたくなかつたので、彼は、私を廣い部屋に殘して行つた。その部屋には、兩端に壁爐があり、天井からはシャンデリアが下つて、壁の上の方に樂器が入つてゐる小さな赤い戸棚があつた。誰か這入つて來て、私を拐しはしないかと云ふ、大へん妙な、恐ろしい不安を感じながら、そこで、永い間、歩きつてゐた。ベシーの爐邊の物語の中に、人さらひの手柄話が屡々出て來たので、私は人さらひがゐると信じてゐたから。やつと、車掌が戻つて來た。ふたゝび、私は、馬車に乘せられた。私の保護者は、自分の席にのぼつて、角笛を鳴らした。さうして、私たちは、L町の「石だらけの道路」を、がら/\と通つていつた。
午後になつて、鬱陶しく、やゝ霧がかゝつて來た。暗くなるに從つて、私はゲィツヘッドから、隨分遠く離れつゝあることを感じはじめた。町を通過することはなくなつた。土地が變つたのだ。大きな灰色の丘陵が、地平線に沿うて盛り上つてゐた。夕闇が深くなる頃、樹木で暗い谷間を下つた。夜が風景を蔽ひ隱してから永い間、樹々の間を突進する野風の音を、私は聽いた。
その風音にあやされて、私は、つひに、睡眠に落ちた。大して寢ないうちに、急な停車が、私を目醒めさした。馬車の扉が開いた。召使ひ風の者が、扉のところに立つてゐた。私は、ランプの光で、その顏と服裝を見た。
「ジエィン・エアと云ふ、小さい娘さんは、ゐませんか?」と、彼女が訊ねた。
「はい。」と、私は答へた。さうして、降された。私のトランクは、とり下されて、馬車は、直ぐ動いていつた。
私は、長く坐つてゐたので、硬ばつてゐた。さうして、馬車の騷音と動搖で、混亂してゐた。私は元氣を出して、自分の周圍を見た。雨と風と暗闇とが、大氣に瀰漫してゐた。それにも拘らず、私の前の塀と、その、開いてゐる塀の戸がぼんやり見分けられた。この戸口を、私は、新しい案内人と潜つた。彼女は、背後の戸を閉め、錠をかけた。そこには、多くの窓のある、そして、そのいくつかの窓に灯の點つてる一軒の家、或は數軒の家――何故といへば、その建物は、遠方までつゞいてゐたから――が見えた。私たちは、廣い、水のはねる、濡れた砂利道をのぼつていつた。さうして、玄關を這入つた。それから、召使ひは、廊下を通りぬけて、煖爐のある室へ案内した。さうして、私をひとり殘して去つた。
私は、立つて、かじけた手の指を、火の上に翳して温めた、そのとき周圍を見した。蝋燭はなかつたが、爐からのぼんやりした光が、とき/″\、張り壁や、絨毯や、窓掛や、光つてゐるマホガニの家具を明かにした。それは、ゲィツヘッドの應接間ほどの廣さも、壯麗さもない居間であつたが、十分居心地がよかつた。私は、壁に掛つてる繪の趣題を考へ出さうと困つてゐた。その時、扉が開いて、ともし火を持つた人が這入つて來た。その人の直ぐ背後にも一人つゞいてゐた。
最初の人は、黒い髮と、黒い眼と、蒼白い廣い額とを持つた、背の高い婦人であつた。彼女の體は、半ば肩掛に包まれてゐた。彼女の風貌は重々しく、姿勢は、すつきりしてゐた。
「こんな小さい子を獨り旅させるなんて。」と、蝋燭を卓子の上に置きながら云つた。彼女は、一二分の間、私を注意深く觀察して、更に云ひ加へた。
「この子は、直ぐ寢ませた方がいゝでせう! 疲れてるやうですから。くたびれて?」と彼女は、私の肩に手を置いて訊いた。
「少し疲れました。」
「そして、ひもじいでせう、きつと。寢る前に何か御飯を食べさせておやりなさい。ミラアさん。御兩親を離れて、學校へ來たのは、最初なの、お孃さん?」
私は、彼女に兩親が無いと云ふことを述べた。彼女は兩親が亡くなつてから何年になるかと訊いた。それから、幾歳になるか、名は何んと云ふのか、讀んだり、書いたり、お裁縫が少しは出來るかと訊いた。それからまた、彼女は、私の頬をやさしく、人差指で觸つて、「いゝ子におなりなさい。」と云つて、私をミラア先生と一緒にひきさがらせた。
私が今別れた、その婦人は、二十九歳ぐらゐだつたらう。私と一緒に去つた婦人は、二つ三つ若いやうに見えた。最初の婦人は、聲と顏付と容子で、私に印象を與へた。ミラア先生は、ずつと平凡だつた。苦勞のため窶れてはゐたが赤味を帶びた顏色をしてゐた。歩きつきや動作は、まるで仕事をいつもどつさり抱へこんでる人のやうに、せか/\してゐた。實際、彼女は、後になつて事實さうだとわかつたのだが、助教師のやうに見えた。私は、彼女に連れられて、大きな不規則な建物の室から室へ、廊下から廊下へと通り拔けた。私達が通つて來た建物のその部分に漲つてゐるやゝ物凄い靜寂から出ると、人の騷ぎ聲のするところへ來た。さうして、たゞちに、その廣い、長い部屋へ這入つた。その部屋には、兩端に、大きな松の卓子が二つづゝあり、その卓子のひとつ、ひとつに一對の蝋燭が燃えてゐ、九歳または十歳から二十歳になるまでの年齡ごろの女の子の群が、卓子をとりまいて腰掛けてゐた。脂蝋燭のほのかな光で見るとその人數は數へ切れない程に見えた。然し實際のところ八十名は超えてはゐなかつたのだけれど、皆は一樣に、見慣れない型の褐色の毛織の服を着、長い和蘭風の前掛をかけてゐた。丁度自習の時間であつた。明日の學課を諳記してゐるのである。そして私が聞いたガヤ/\した聲は、彼等が小聲で云ふ諳誦が一緒になつたものであつた。
ミラア先生は戸口の近くの腰掛に坐るやうに合圖をしてから、その長い部屋の上席の方へ歩んで行つて、大きな聲で叫んだ――
「級長、教科書を集めて片附けなさい。」
四人の背の高い女の子が各自の卓子から立ち上つて、卓子をりながら本を集めて片附けた。ミラア先生はまた命令をした。
「級長、夕食のお盆を持つておいでなさい。」
背の高い女の子は出て行つて、めい/\、私には何だかわからないが何人前もの食物を載せた、そしてそれ/″\のお盆のまん中に、水差と湯呑が載つてゐるのを持つて直ぐに戻つて來た。食物はぐるりにそれ/″\渡された。水を飮みたい者は、湯呑がみんなに共通であつたから一口づゝ飮んだ。私の順番になつた時、私は喉が渇いてゐたから水は飮んだけれども、昂奮と疲勞とで食べる氣がしなかつたので、食物には、手を觸れなかつた。だがやがて、それは小さく割つた薄い燕麥の菓子なのだと知つた。
食事が濟み、ミラア先生がお祈祷をすますと、級の生徒は列を作つて、二人づゝ二階へと昇つて行つた。この時はもう私は疲勞で打ちのめされてゐたので、寢室は教室とおなじやうに大さう長い室だといふ事以外にはどんな風なのだか殆んど氣が附かなかつた。その夜、私はミラア先生が添ひ寢して呉れるやうになつてゐた。彼女は私に手傳つて着物を脱がしてくれた。私が横になつたとき、寢臺の長い列があつて、それ/″\の寢臺が二人の占有者でさつさと占められたのを見た。十分後にたつた一つの燈が消された。そして私は沈默と眞暗闇の中で寢入つた。
その夜は直ぐと經つてしまつた。私は甚しく疲れてゐたので夢さへ見なかつた。ほんの一度目が醒めて、烈しい音を立てゝ俄かに風が暴れ、雨が瀧のやうに降り注いでゐるのを聞き、ミラア先生が私の側に寢てゐるといふことを感じただけであつた。二度目に目を開けた時には、大きな音の呼鈴が鳴つてゐた。娘達は起きて着物を着てゐた。まだ夜は明け初めてはゐなかつた。部屋の中には一つ二つ微かな燈がついてゐた。私も嫌々ながら起きた。甚い寒さであつた。ぶる/\身體が慄へるのでどうにか着物をきて、金盥が空くのを待つて顏を洗つた。この金盥は、六人の子供に一つしかないので、部屋のまん中近くの臺の上に直ぐに載せられるやうなことはなかつた。また呼鈴が鳴つた。全生徒は二人づゝ列を作つて、その順序のまゝ階段を下り、寒いぼんやりした燈の點つた教室へ這入つた。此處で、ミラア先生がお祈りを誦んで、それから彼女は叫んだ――
「組に分れなさい!」
大變な騷々しさが數分間つゞいた。その間ぢう、ミラア先生は、「靜かに!」や「きちんと!」を繰返して叫んだ。靜かになつた時私は全生徒が四つの卓子の前に置いてある四つの椅子の前に、四つの半圓を作つたのを見た。一人殘らず手には本を持つてゐた。聖書のやうに大きな本が空席の前のそれ/″\の卓子の上に載つてゐた。生徒達の低いとりとめのない私語で充ちた幾分かゞ續いた。ミラア先生はこの不分明な音を鎭めに組から組を歩いてつた。
遠くの呼鈴が鳴つた。間もなく三人の婦人がこの室に這入つて來た。銘々卓子について座を占め、ミラア先生は四番目の空席に腰を下した。その椅子は戸口に一等近く、まはりには最年少の子供たちが集つてゐた。私はこの下級に加へられて、その末席に坐らせられた。
授業が始まつた。その日の短祷の諳誦、聖書のある節の講話、それに續いて聖書の句節の間の間伸のした朗讀が一時間位行はれた。學課が終つた時にはもうすつかり夜は明けはなれた。四度目に、根氣のいゝ呼鈴が鳴つた。全級の生徒は整列して朝食の爲めに別の室へと進んで行つた。何か食べられるといふ見込で、私はどんなに嬉しかつたことだらう。前の日に殆んど何も食べてゐなかつたから空腹で殆んど病氣になる程だつたのだ。
食堂は大きな、天井の低い薄暗い室であつた。二個の長い食卓には、何かしら温い物の入つてゐる鉢から煙が出てゐた。ところが、面喰つたことには、食慾を起させるどころか、大變な臭氣を發してゐた。この食物の香りが、これを吸ふべく運命づけられてゐる、子供らの鼻に入つたとき、明かに凡ての生徒には不滿の色が現はれた。列の先頭の上級生の大きい生徒は低い聲で云つた――
「胸が惡くなる! お粥をまた焦がしたんだわ。」
「靜かに!」といふ聲がした。ミラア先生ではなく、上席の先生の一人で背の低い髮の毛の黒い人で、きちんとした服裝をしてゐたが、氣むづかしい顏付で、一つの食卓の上座に坐つてゐた。別にこの先生よりずつと肉付のよい婦人が他の食卓の上座を占めてゐた。私は前の晩にはじめて會つたひとを探したけれど、見當らなかつた。彼女は姿を現はさなかつたのであつた。ミラア先生は私の坐つた食卓の下座に就いた。そして一人の見慣れない、外國人らしい年をとつた婦人――あとで佛蘭西語の先生だとわかつた――は別の食卓のおなじやうな下座についた。長い食前の祈りがあり、讃美歌が唱はれた。それから召使ひが先生の爲めにお茶を少しばかり持つて來た。そして食事が初まつた。
お腹が減つてもう氣が遠くなつた私は、味なんぞ考へないで、私の分を一匙二匙貪り食べたが空腹のせつない苦痛が和らいで見ると、實に不味い食物を手に持つてゐることがはつきりして來た。焦げたお粥は腐つた馬鈴薯とおなじ位ひどいものだつた。餓死しさうな人でもそれを食べればすぐにむか/\してしまふだらう。みんなの匙ものろ/\と動いた。どの子を見ても、自分の食物を口に入れて、努めて呑み込んでゐたが、その努力は間もなく斷念されるのが多かつた。朝食は終つたが誰も朝食を濟ましたものはなかつた。この食べなかつたものに感謝の祈りが捧げられまた第二の讃美歌が歌はれてから、私たちは食堂を出て教室へと行つた。私は出てゆく最後の生徒の一人だつた。食卓を通り過ぎる時、一人の先生がお粥の鉢を手にとつて味はつてゐるのを見た。その先生は他の先生の方を見た。先生の顏にはみんな不快な色が浮んだ。中で、頑丈な身體つきの先生が呟いた――
「ひどい御馳走だ! こんなものを出すなんて!」
授業が始まる前に十五分あつたが、その間中教室は大騷ぎだつた。この時間は大聲で、そしてずつと自由に話してもよいことになつてゐるらしかつた。それで生徒らは(自分達のこの特權を使用した)。みんなの會話は朝食のことでもちきりだつた。一人殘らず甚く口汚く罵つてゐた。可哀さうな子供たち! それが彼等の所有する唯一の慰安だつたのだ。ミラア先生は、その時この室にゐたたつた一人の先生で、彼女をとりまいて立つてゐる大きい生徒の群は、眞面目な險しい顏付で喋舌つてゐた。私は或る生徒がブロクルハースト先生といふ名前を口にしたのを聞いた。それを聞くと、ミラアさんは非難するやうに頭を振つたが、彼女はみんなの怒を抑へるために、それほど努力もしなかつた――きつと彼女も一緒に怒つてゐたのだ。
教室の時計が九時を打つた。ミラア先生は自分の仲間を離れて、教室のまん中に立ちながら叫んだ――
「靜かに! 着席!」
規律が守られた。五分の後に、今までゴタ/\になつてゐた群が整然となり、バベルの塔のお喋り(喧騷)が止んで比較的靜肅になつた。上席の先生が、その時を違へずキチンとそれ/″\の受持に就いた。けれども、依然として、みんなは待つてゐるやうだつた。教室の兩側にある腰掛にそつて、八十名の生徒は身動きもせず姿勢よく坐つてゐた。妙な集りに見えた。一人殘らず額から無造作に髮の毛をすき上げてゐて、捲毛を縮らしてゐるものは見當らなかつた。喉もとまできちんとつまつた狹い襟のついた褐色の着物を着て、上着の前の方にお針袋に使ふことになつてゐる麻布の小さい袋(スコットランド人の財布のやうな型のもの)を結びつけてゐた。また一人殘らず羊毛製の長靴下と、眞鍮のびぢやう止になつてゐる田舍出來の靴を履いて居た。こんな着物を身につけてゐる生徒の内約二十名以上は、十分生長した女の子であつた。と言ふよりむしろ若い婦人であつた。この人たちには、この着物は似合はなかつたし、大變綺麗な娘にさへ妙な風采を與へた。私はその娘たちをずつと見てゐた。また時々先生の方を吟味してゐたが――誰もまつたく私には氣に入らなかつた。何故なら頑丈な先生は少し下卑てゐたし、黒い毛の先生はひどく恐ろしかつたし、外國人の先生はガラ/\で變挺であつたし、ミラア先生は、可愛想に! 紫色でやつれ果てゝ、過勞で打ちのめされたやうな顏をしてゐたから。――すると、私が顏から顏へと眼を轉じてゐた時、全部の者が、共通のバネで、はじかれたやうに、一齊に起立した。
何が起つたのか。私は命令なんか聞かなかつた。私は當惑した。私が氣をとりなほし、級の生徒が再び着席しない内に、しかし今や全生徒の眼が一點に向けられた時に、私の眼も、みんなの眼の方向のあとをつけて、前夜、私を應接してくれた例の人に止まつた。この婦人は長い教室の爐の側の末席の方に立つて――兩側に煖爐があつたから――默つて、まじめな顏をして、二列の生徒を見渡してゐた。ミラア先生は近寄つて行つて、この婦人になにかたづねて、その返辭を得てから、自分の位置に戻つて、大きな聲で言つた。
「上級生の級長、地球儀を持つて來なさい。」
命令が行はれてゐる間に、相談をうけた婦人は靜かに教室の上席の方へ歩いて行つた。私は生來餘程尊敬器官を持つてゐるやうに想へる。何故なら私の眼が畏敬の念を持つて彼女の歩みの跡をつけたその時の氣持を未だ持ちつゞけてゐるからである。今一面に擴がつて居る太陽の光りで見ると、彼女は背が高く、色白の、恰好のよい樣子をしてゐた。虹彩の内に優しい光りをたゝへてゐる茶色の目と、それを圍んでゐる長いまつ毛が描いたやうに揃つてゐることが、彼女の大きな額の白さを殊更きは立たせてゐた。兩方の顳には、暗い褐色の髮がその時の流行のやうに、――當時は撫でつけて捲いたのや、長い捲毛は流行してゐなかつた――丸みをつけた捲毛で房になつてゐた。着物はまたこの當時の型によつて、紫色の服地で出來てゐて、黒天鵞絨のスペイン風の飾りが目立つてゐた。金時計(時計はその當時現在ほど一般的ではなかつた)は彼女の帶の所で光つてゐた。この叙述をはつきりさせる爲めに上品な容貌、蒼白くはあつたがしみ一つない綺麗な顏、威嚴のある樣子態度を讀者に附言するならば、讀者は少くとも言葉の及ぶ限り精確に、テムプル先生――マァリヤ・テムプルと云ふこの名は、私がその時彼女から教會へ祈祷書を持つて行くやうに頼まれた時、その本に書いてあつたので知つたのであるが――の外觀が正しく解るだらう。
そのローウッドの監督(この婦人は監督であつたが)は一つの卓子の上に置かれた一組の地球儀の前に坐つてから、自分の周りに上級生を集めて、地理の授業をし始めた。下級の生徒たちは先生に呼ばれて、歴史や文法その他の諳誦が一時間程行はれ、その次に習字と算術が續けられた。テムプル先生は數人の年長の生徒に音樂を教へた。各の學課の時間は時計で計られてゐた。とう/\十二時が鳴つた。監督は立ち上つた。「私は皆さんにお話したいことがあります。」と口を切つた。
授業が終つたので、既に騷々しくなりかけてゐたのであつたが、彼女の聲で靜まつた。彼女は續けて云つた。
「あなた方は今朝朝食が食べられなかつたのでせう。お腹が空いてゐるに相違ありません。それでチイズ附のパンを晝食に皆さんに御馳走するように私は云つておきました。」
先生たちは一種の驚きを以て彼女を見た。
「これは私の責任ですることなのです。」と彼女は先生たちに説明するやうな口吻で附加へてから、早速教室を去つてしまつた。
チーズ附のパンが早速運び込まれて、分配せられた。これは間もなく全生徒を大層よろこばせ、彼等に大層元氣を與へた。その時「校庭へ!」といふ命令が與へられた。どの生徒も染めたキャラコの紐のついた、粗末な麥稈帽子と灰色の粗羅紗の外套を着てゐた。私も同じ服裝をして、列について戸外に出た。校庭は、一目の遠望をも許されない程の高さの壁で圍まれた、廣い一區劃であつた。屋根のあるヴェランダが一方に續き、幅の廣い歩道に沿うて、中央の地面が幾つもの小さな花壇に仕切られてあつた。この花壇は、生徒たちが栽培する庭園として割當てられてゐるのであつた。花が一杯咲き亂れてゐる時は、勿論綺麗に見えることであらうが、一月の終りに近い今では、すつかり霜で凋んで、褐色に枯れてゐた。立ちながら、周りを見たときに私は身慄ひした。戸外體操には、險惡な日であつた。雨が降つてゐるといふのではなかつたが、しと/\した黄色の霧で暗くなつてゐた。地面はすつかり、まだ昨日の大雨でジメ/\してゐた。生徒の中の丈夫さうな娘たちは走りつて活溌な遊戲をしてゐたが、五六人の蒼い顏をした痩せた生徒達は、一緒に集つて、ヴェランダに身を寄せ、寒さを凌いでゐた。そして濃霧がこの娘たちの震へてゐる身體に應へて行くので、彼等のうちに屡々力のない咳の音を聞いた。まだ私は、誰にも話もしなければ、また誰も私に注意するでもなかつたから、全く獨りぽつちで立つてゐた。しかし可成り孤獨のこのわびしさには慣れてゐた。――それはもう、大して苦痛ではなかつた。私はヴェランダの柱に寄りかゝつて、灰色の外套をしつかりと身に引き寄せ、外で私を苦しめる寒氣と、内で私を惱ます滿されない空腹とを忘れようと努めて、視察と、もの思ひに耽つた。私の囘想はとりとめなく、斷片的であつたから、こゝに書き立てることは出來ない。私は未だ自分が何處にゐるのかはつきり知らなかつた。ゲィツヘッドと私の過去の生活は、ずつと遠い彼方へ流れ去つたやうに思へた。現在は漠然として異樣なものであつた。そして將來について、私は何も想像出來なかつた。私は修道院に似た庭をずつと家の方まで見した。その家は大きな建物で、その半分は灰色で古く見えた。そして殘りの半分はまつたく新らしかつた。――教室と寄宿舍のある新らしい方は、壁に仕切があり、格子のある窓が光つてゐて、それはこの建物に、教會風の樣子を想はせてゐた。入口の上にある石の額面に、次のやうな彫刻があつた。
『ローウッド學院――この校舍は基督紀元××年――當地ブロクルハースト・ホオルのネイオミ・ブロクルハーストに依りて再建せられたり。』
『斯くの如く汝等の光りを人の前にかゞやかせ、これ人の汝等が善き行爲を見て、天にゐます汝等の父を崇んためなり、マタイ傳五章十六節』私はこの言葉を何度も何度も繰返へして讀んだ。これは説明してもらふ必要があると思つた。私はその言葉の意味に十分通ずることが出來なかつた。「學院」といふ字の意味を考へながら、最初の言葉と聖書の句との間の關係を知らうと努めてゐる時に、私の直ぐ背後で咳拂ひがしたので頭を向けた。見ると近くの石の腰掛に一人の少女が坐つて、本の上に身を屈めてゐた。この少女は全くその本に夢中になつてゐるやうに見えた。私が立つてゐる場所から、その本の表題を讀むことが出來た。それは『ラシラス』(Rasselas)といふ私に聞馴れない、從つて私の心を引附ける名であつた。頁をめくりながら彼女は偶然に顏を上げたので、私は直ぐ彼女に話しかけた。――
「あなたが讀んでゐらつしやる御本は面白いの?」
私は、もうその時、數日後それを貸してもらふつもりであつた。
「私は好きです。」と彼女は、チラと一瞥して答へた。
「どんなことが書いてあつて?」と私は續けて言つた。私がこのやうに見知らぬ人に、どうして斯う厚かましく話しかけるやうになれたか、自分にもよく分らなかつた。――この行動は私の性質と習慣に反してゐた。――がしかしこの少女のしてゐることには、何んだか共鳴出來るやうな氣がした。と云ふのは、とりとめの無い、子供らしい讀者にしても、私はそれが好きだつたから。私には眞摯な、しつかりした本は讀みこなすことも、理解することも未だ出來なかつた。
「あなた、御覽になつてもいゝわ。」と、娘は私に本を渡しながら云つた。
私はその本を讀んで見た。一度目を通すと何んだか内容は表題よりも心を惹かないやうに思へた。『ラシラス』は私のくだらない趣味には退屈のやうに思へた。小妖精や魔神のことは何んにも見當らなかつた。素晴らしい變化が、この細かく刷られた頁には漲つてゐるやうに思へなかつた。私は本を彼女に返した。彼女は靜かに受取つて、何も云はず元通りに只管讀み耽らうとした。私は又思ひ切つて彼女の邪魔をした――
「あの入口の上にある石に書いてあるのは何のことだか教へて下さらない? ローウッド學院て何のこと?」
「あなたが住みにいらしたこの家のことです。」
「では何故學院といふのでせう。他の學校と何か違つてゐるの?」
「半分慈善學校なのです。あなたも私もその他私たちはみんな慈善學校の子供なのよ。あなたは孤兒なんだと思ひます。お父さんかお母さんが亡いのでせう。」
「二人とも私の物心づかないうちに亡くなつてしまつたのよ。」
「さうですか。此處にゐる者はみんな親が片一方か、でなければ兩方ないかなのですよ。それで、こゝのことを親なし子を教育する學校と云はれてゐるのです。」
「私たちはお金を支拂はないの? 無料で置いて貰つてゐるの。」
「一人に一年十五磅だけ私たちか私たちのお友だちかゞ支拂ふのよ。」
「ぢや何故私たちのことを慈善學校の生徒なんて云ふんでせう。」
「何故つて十五磅では寄宿代や授業料には足りないんですもの。そして不足額は寄附で補ふのよ。」
「誰方が寄附してくれるの?」
「この近くや、倫敦の色々な惠み深い婦人や紳士方が。」
「ネイオミ・ブロクルハーストつて誰?」
「あの額に書かれてゐるやうに、この新らしい校舍を建てた方よ。その方の令息が、此處の萬事を管理して指揮していらつしやるの。」
「なぜ?」
「その方がこの學校の會計係で管理者なんですもの。」
「それではこの家はチイズ附のパンを食べるやうに仰しやつた、時計をつけた、あの背の高い婦人ぢやないの。」
「テムプル先生のですつて? いえ、いえ、さうぢやないの。さうならいゝけれど。あの方は御自分のなさることには何んでも、ブロクルハーストさんに對して責任を持たなければならないの。ブロクルハーストさんは私たちの食物や着物をすつかりお買ひになるのよ。」
「その方は此處に住んでいらつしやるの?」
「いゝえ――二哩離れた大きなお邸に住んでいらつしやるの。」
「いゝ方?」
「牧師さんだから良いことをいろ/\となさると云はれてゐるわ。」
「あの背の高い人はテムプル先生ですつて?」
「えゝ。」
「ぢや、他の先生方は何んといふ名前なの?」
「赤い頬をした方はスミス先生。裁縫を教へて下さるの。そして裁ちものもね。――何故つて衣類や上着や外套やその他色んなものを私たちは作るんですから。髮の毛の黒い小さい方は、スキャチャード先生で、この先生は歴史と文法を教へて、第二級の諳誦を聞いて下さる方です。そしてショールを着てゐる、黄色のリボンでハンカチを腰に結んでゐる先生はピエロさんです。この先生は佛蘭西のリールから入らしつたので、フランス語を教へていらつしやるの。」
「あなた、どの先生もお好き?」
「えゝ、大好きよ。」
「小さい髮の毛の黒い先生もお好きなの? それからマダム・ピエ――私、あなたみたいにその人の名を云ふこと出來ないわ。」
「スキャチャード先生は短氣なのよ。――怒らせないように氣をお附けなさい。マダム・ピエロは惡い方ぢやないのよ。」
「だけど、テムプル先生が一番好い方なんでせうね。」
「テムプル先生はとても好い方で頭もいゝの。先生は他の先生より優れてゐらつしやるわ。だつて他の先生よりもずつといろ/\なことを知つてゐらつしやるんですもの。」
「あなたは、もう永いこと、こゝにゐらつしやるの。」
「二年。」
「あなたもみなし子なの?」
「お母さんが亡くなつたの。」
「こゝに來て、あなた、お仕合せ?」
「あなたは少しいろんなことを聞き過ぎるわ。私もこれで十分お答へしたことよ。もう私は御本が讀みたいの。」
しかし、その瞬間に、夕食を告げる呼鈴が聞えた。皆は再び家に這入つた。その時食堂にみちてゐた香は、朝食の時私達の鼻についた、それと大して變りのない食慾を感じさせた。夕食は、二個の、大きな錫張りの器で出された。その器からは惡臭のある脂のつよい白い湯氣が立つてゐた。見ると、この食物は、平凡な馬鈴薯と古くさい肉の變な切屑とを一緒に煮てあつた。料理は、可成り盛り澤山で、一人々々に分けられた。私は食べられるだけ食べた。毎日の御飯がこんなのかしら? と心の中で案じられた。
夕食が濟んでから、私たちは直ちに教室に集つた。それから授業が始まつて、五時まで續けられた。
午後にたつた一つ注意すべき出來事があつた。それは、ヴェランダでお話した少女がスキャチャード先生に叱られて、不面目にも歴史のクラスから追ひ出されて、大きな教室の眞中に立つやうに連れて行かれたことであつた。この罰は非常に不名譽に思はれた。特に、こんなに大きな少女に對しては――彼女は十三歳か、または、それ以上に見えた――。私は、彼女が困惑と羞恥で色を失ふだらうと豫期してゐたが、驚いたことには、泣きもしなければ、顏を赧らめもしなかつた。眞摯ではあつたが、落ちついて立つてゐた。さうして、凡ての者の注視の的になつてゐた。「どうしてかう靜かに――かう確りと――耐へてゐられるのだらうか?」私は自分に問うて見た。「若し假りに、私があの女の立場にあつたなら、地面が割れて私を嚥みこんでくれゝばよいと思つたことだらうに。彼女は、恰も自分の處罰以外の――自分の立場以外の、何か身邊を離れたことを考へてゐるやうに見えた。私は白晝夢に就いて聞いたことがある――彼女は今白晝夢に耽つてゐるのだらうか。眼をぢつと床上に注いではゐるが、それを見てゐないことは確かである。彼女の眼は内に向つてゐて、彼女の心の中へ入り込んでゐるかのやうに見えた。彼女は、今思ひ出せるものを考へてそれを見てゐるのだ。現在の現實を見てゐるのではないのだ。彼女は、どういふ風な少女なのかしら――いゝ人なのだらうか、横着な人なのだらうか。」
午後五時が過るとすぐ、私たちは、珈琲を小さい茶碗に一杯と、黒パン半切れの食事をした。私は、パンを貪り食ひ、珈琲を美味しく飮んだ。もうこれ位あれば、私は嬉しかつたらうが――私はなほもお腹が空いてゐた。それから半時間の休息があつて、勉強時間となつた。次に、水一杯と一切れの燕麥の菓子、祈祷があつて床に就いた。これがローウッドに於ける私の第一日であつた。