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この論者が、知らず知らずに自分の意向と反対なことを論じている例は、この問題のこの部分だけでも、これ一つだけじゃない。彼の目標は、僕がさっき言ったように、明らかにマリーの失踪から死体発見までのあいだの期間をできるだけ縮めることにあるのだ。それだのに彼は、あの娘が母親の家を出てからのち誰も彼女を見た者がいないという点を言い張っているね。『マリー・ロジェエが六月二十二日、日曜日の九時以後にこの世に生きていたという証拠はなに一つない』と言っているのさ。彼の議論なるものが明らかに偏ったものなんだから、いっそのこと、こんな問題はほうっておくべきだったんだ。なぜかと言えば、もし誰かが月曜日とか火曜日とかにマリーを見たということがわかっているなら、問題になっている期間がよほど縮められるし、彼の推理の仕方によれば、死体があの女売子のであるという見込みがよほど少なくなるだろうからね。それなのに『レトワール紙』が、全体の議論を促進するつもりで、あの点を主張しているのは、ずいぶん滑稽だね。
今度は、この議論のなかの、ボーヴェエのした死体の身元鑑定に関する部分を、もう一度読んでみたまえ。腕の毛のことについては、『レトワール紙』は明らかに誠意のないやり方をしている。ボーヴェエ氏は馬鹿じゃないんだから、死体の身元鑑定をするのにただ腕に毛があるというだけのことを言い張るはずはない。毛のない腕なんてありやしないよ。『レトワール紙』のざっとした書き方は、証人の言葉づかいをわざと曲解しただけのものだ。おそらく証人はこの毛のなにかの特殊性について話したのにちがいない。たぶん色とか、量とか、長さとか、場所とかの特殊性であったにちがいないのだ。
また、この新聞には、こんなことが書いてあるんだよ。『彼女の足は小さかった――というが小さい足はいくつもある。彼女の靴下留めはなんの証拠にもならない。靴も同様である。靴や靴下留めは揃いで売っているからだ。彼女の帽子の花についても同じことが言われよう。ボーヴェエ氏が強く主張している一つのことは、靴下留めを縮めるためにその釦金がずらしてあったということである。これはなんにもならぬ。なぜならば、たいていの婦人は靴下留めを家へ持って帰ってから自分たちの足の大きさに合わせるもので、買った店でそんなことをしようとはしないからである』とね。これでは、論者が真面目に言っているものとはどうにも思えないな。ボーヴェエ氏がマリーの死体を捜しているうちに、体の大きさや顔つきがその行方不明の娘に似ている死体を発見したなら、(服装の問題にはぜんぜんふれないでも)これこそ彼女だ、と思いこんでもまあ仕方ないだろうよ。もしこの大きさや体つきの点のほかに、その腕に生前のマリーに見ていた特殊な毛の生え方を見つけたなら、彼のその考えが強められたのは当りまえのことで、その確実性は毛の特殊性、あるいは並はずれな点に比例して増したにちがいない。もしマリーの足が小さくて、その死体の足もやはり小さかったなら、その死体がマリーの死体であるという公算性の増加は、単に算術的な比率の増加ではなく、実に幾何学的あるいは累積的な比率の増加だったろう。しかもそのうえに、彼女の失踪した日に穿いていたような靴を加えてみたまえ。そうすれば、たとえその靴が『揃いで売っている』ものとしても、その公算性はほとんど確実といえるくらいにまで増大するだろうよ。それだけでは身元鑑定の証拠にはならぬものでも、確証するような地位に置かれると、ごく確実な証拠になるものだ。それにまた、あの行方不明の娘のつけていたのと似ている帽子の花があれば、我々はそのうえもうなにも求めはしない。たった一つの花があっても、我々はそのうえもうなにも求めはしない。――とすると、二つ、三つ、あるいはそれ以上あったらどうかね? 次々の一つ一つは倍の証拠だ。――前の証拠に加えられた証拠ではなくて、何百倍にも何千倍にも倍加された証拠なんだ。今度は生きていたときに使っていたような靴下留めをその死者がつけているのを発見したとするなら、このうえ詮索をつづけるのはほとんどばかげきったことだ。しかもこの靴下留めは、マリーが家を出る少し前に彼女がしていたのと同じようなぐあいに、釦金をずらして引き締めてあるんだぜ。これでもまだ疑うというのは狂人か嘘つきだよ。靴下留めをこんなふうに縮めるのは普通よくあることだと『レトワール紙』が言っているのは、同紙の救いがたい思い違いを示す以上のものじゃない。釦金つきの靴下留めが伸縮自在の弾性を持っていることは、縮めるなんてことの普通ないことをおのずから明示している。ひとりで調節するようにできているものは、なにもわざわざべつに調節する必要などめったにない。マリーの靴下留めがいま言ったように引き締める必要のあったのは、もっとも厳密な意味で、よほど偶然なことであったにちがいないね。これ一つだけでも、彼女の身元を決定するに十分だったろう。しかも肝心なことは、あの死体が行方不明になった娘の靴下留めをつけていたということではなく、あるいは彼女の靴を穿いていたとうことでもなく、彼女の帽子をかぶっていたということでもなく、その帽子に花をつけていたということでもなく、足が似ていたということでもなく、腕に特別なしるしがあったということでもなく、大体の大きさや顔つきが似ていたということでもなくて、――この死体がそのどれもこれも、みんな一緒にそなえていたということなんだ。『レトワール紙』の記者がこういった事情にあってなお、ほんとうに疑いをいだいていた、ということが確かめられるなら、彼の病症は精神鑑定をするまでもないくらいさ。彼は弁護士たちの無駄話を口まねすることをもって、聡明と心得ているんだよ。その弁護士なるものは大部分、法廷の四角ばった命令書の口まねをして満足しているものなんだがね。僕はここでついでに言うが、法廷が証拠にならないものとして却下するもののなかには、知者にとって最上の証拠になるものがずいぶんたくさんある。なぜかというと、法廷というものは、証拠の一般の原則――承認された、書物に書いてある原則に従って動くので、特殊な例に出会ってもそれから逸れることを嫌うからなんだ。そんなふうに原則を頑固にまもって、それに出会わない例外をさっさと無視するということは、長いあいだには、獲得できる最大限の真理を獲得する一つの確かな方法だ。だから裁判のやり方は全体としては理論的ではある。が、それにもかかわらず個々の誤りを無数に生ずることもやはり確かなのだ。(原注一五)
ボーヴェエにあてこすりを言っていることなんぞは、君はひと言で受けながしてしまうだろう。この善良な紳士の真の性格は君にはもうわかっているからね。彼はロマンティックなところの多分にある、分別の足りない、世話好きなんだ。こんな気質の人間は誰でも、ほんとうに興奮している場合には、鋭敏すぎる人や悪意のある人には嫌疑をかけられやすい振舞いをしがちなものだ。ボーヴェエ氏は(君の覚え書で見たところでは)『レトワール紙』の記者と直接に会って、あの死体は記者の説がどうであろうとマリーの死体である、と主張して、その記者を怒らせたようだね。その新聞は『彼はあくまであの死体がマリーの死体であると主張するが、記者が論じた点のほかには、他人を信じさせるような事がらは一つも挙げることができないのである』と書いている。ところで、『他人を信じさせる』ような、あれ以上に有力な証拠など決して挙げられるはずのなかったことはべつに言わないことにしても、人というものは、こんなときには相手を信じさせる理由を一つも提出することができなくても、自分では十分に信じていることがある、ということは注意しなければならん。個人の見覚えの印象ほど漠然としているものはないのだ。誰でも自分の隣人を見知ってはいるが、すぐにその見知っている理由を挙げられる場合は少ない。『レトワール紙』の記者にはボーヴェエ氏が理由なくして信じているのを怒る権利はなかったのだ。
あの男を包んでいる疑わしい事情は、有罪だとするこの論者の提言よりも、ロマンティックな世話好きだとする僕の仮定のほうに、ずっとよく符合していることがわかるだろう。一度もっと寛大な解釈をすれば、あの鍵穴の薔薇の花だって、石板に『マリー』と書いてあったことだって、『男の親戚の者を遠ざけた』ことだって、『彼らに死体を見せることを嫌った』ことだって、B――夫人に彼が(ボーヴェエが)帰って来るまでは憲兵と話をしてはいけないという警告を与えたことだって、また最後に、彼が『自分以外の誰にもその処置にかかわり合せまい』と決心しているらしいことだって、みんなたやすく理解できるだろう。僕には、ボーヴェエもマリーに言いよっていた男の一人であったことや、彼女のほうでも彼に色っぽい素振りを見せたことや、彼が彼女から十分に親しまれ信頼されていると思われたがっていたことは、疑いのないことのように思われるな。この点についてはこれ以上は言うまい。それから、母親やその他の親類の者たちが冷淡であったということ――彼らがその死体をあの香水売子の死体だと信じていたと仮定するとどうもこの冷淡は矛盾しているということ――についての『レトワール紙』の主張は、もはや完全に反証が挙がっているんだから、我々はもう身元鑑定の問題は十分満足に決定したということにして話を進めるとしよう」
「じゃあね」と、ここで私は尋ねた。「君は『ル・コメルシエル紙』の意見をどう考えるかね?」
「あの意見は、本質においては、この問題について発表されたどの意見よりもずっと注意に価するものだよ。前提から演繹してゆくところは理論的だし鋭敏だ。けれども、その前提が、少なくとも二つの点で、不完全な観察をもとにしているんでね。『ル・コメルシエル紙』は、マリーが母親の家からあまり遠くないところで下等な悪漢どもにつかまったということを知らせようとしている。『この若い婦人のように多くの人に知られている人間が、三つの街区を通りすぎるあいだに、誰にも見られないということはありえない』と論じているね。これは長年パリに住んでいる人――しかも公人で――この市中で歩きまわるところが主として役所のあたりに限られている人――の考えだよ。そういう人は自分が役所から十くらいの街区を通るあいだに、誰かに会ったり挨拶されたりしないことが滅多にないことを知っている。で、彼は、自分が他人を知っている範囲と、他人が自分を知っている範囲とを知っているので、自分の有名さとあの香水売子の有名さとを比べてみて、その間に大した違いのないことを認め、それからすぐに、彼女は街を歩いているうちに自分と同じくらいの顔見知りの人に会うだろうという結論に来るのだね。これは、彼女の外出が、彼の外出と同じように、いつもちゃんと決っていて、また、同じ限られた区域のなかである場合にだけ、そうなるだろう。彼は職業が似たりよったりなので、自然に関心をもって自分の姿に注目しがちな人々のたくさんいる、一定の地域を、一定の時に、行ったり来たりしているのだ。しかし、マリーの歩くのはまず漫然としたものと考えてもいいね。ことに今度のような場合には、彼女は通り慣れた道すじよりも、よほど違った路を通って行ったということがいかにもありそうだということはわかるだろう。『ル・コメルシエル紙』が心のなかで考えていたと我々の想像するあの比較は、その二人がパリ全市を通りすぎる場合だけ、正当と認められるにすぎない。その場合には、知合いの数が等しいとすれば、出会うチャンスもまた等しくなるわけだからね。僕としては、マリーが何時ごろかに、彼女の家と叔母の家とのあいだのたくさんの道すじのどれか一つを通って行って、彼女が知っている人や、彼女を知っている人に一人も会わなかったとうことは、単にありうることだけではなく、ほとんど確実なことだと思うな。この問題を十分正しく判断するには、パリでもっとも有名な人たりともその個人的な知人の数と、パリの全人口とのあいだには、まるで比較にならぬ大きな差がある、ということをしっかり心に持っていなければならないのだ。