Chapter 1 of 3

Chapter 1

或る朝、私が朝飯を済ませて煙草を喫してゐるとAが来て、あがらないで、

「君、直ぐ散歩へ行かう、早く早く、直ぐ仕度をして呉れ。君は斯ういふ服装は持つてゐないか? あゝ、さうか、無ければたゞの洋服でよろしい、大急ぎで着換へないか。」と、大変勢急に口走ると私の返事も待たずに玄関を出て、そこの露路を気忙し気に口笛を吹きながらあちこちと往復してゐるのです。見るとAは、鳥打帽子、バンドつきの上着、乗馬ズボン、さう云つたやうな服装で、肩からは大型のマホー罎をぶらさげ、手には葦のステツキを持つてゐます。

野道を歩き出してから私は、随分しばらく会はなかつたね! と云ひましたが、どうしたのかAの挙動には少しも落つきがありません。尤もAは時々突飛な行動をするので私は今更別段に怪しみもしませんでした。Aは、酒に酔ひでもしない限り殆ど口数を利かない男なのですのに(この点だけが彼と私と似てゐます。)、この日は私の顔色などには頓着なく私には恰で興味のない煙りのやうなことを独りでのべつに喋舌りたてるのです。殆ど息をつく間もありません。そして、俺は今日は妙に亢奮してゐるんだ! と一言説明しました。私も何の質問もしませんでした。

「俺は今小説を書いてゐるんだ。はじめこの第二節から書き出したんだ、幼年篇から。幼年時代のそれに関する環境を様々な叙事に依つて述べてから、三十一歳になつた私がいよ/\その未知の国に向つて出発するといふまでのおそろしく長い物語を計画したんだ。だがこの第二節である幼年篇を先づ書き起して、未だ一歩も本題に入らないうちに突然俺はハタと行き詰つた、場面の選び方も悪かつたのかも知れない、一体俺は筆を執るにあたつて成りゆきのことなどはあまり意に介しない放縦に慣れてゐるのだがそんなに脆く行き詰るとは夢にも思はなかつたのさ。疳癪を起して俺は、いきなり最後に飛込んだ、そしてこれを第一節とした、が、またこれがハタと行き詰つた。」

Aは何の前説明もなくそんなことを熱のある調子で語ります。これとかあれとか云つても少しも私には解りませんが、Aも頓着しないので私も勝手に彼に喋舌らせておきました。私は碌々聞いてもゐません。ハタと、ハタと、とAが云つたのが聞き慣れない言葉なので面白く響いたゞけです。

「どうして好いか解らなくなつた。昨夜も一昨夜もその前の晩も俺は、まんじりともしないで二つの未定稿を繰り返し/\読んだが、あゝ、駄目だ!」

「へえ! 随分熱心なんだね! 何だか。」

「駄目ではいけないんだ、何んとしても駄目ではいけないんだ、俺は斯うしてはゐられない……行くんだ、行くんだ。」

「何処へ?」

「君、俺に勝手なことを喋舌らせてくれ。実はね、喋舌つてゐないと俺は眠くなつてしまふんだよ、斯うして快活に歩いてゐないと眠くて倒れてしまひさうなんだ。今日で俺は、永い間の昼夜転換を取り戻すんだ、夕方まで何んな苦しみを犯しても辛棒したいんだ。」

「なあんだ、それで、そんなわけのわからないことを喋舌つてゐたのか、出放題なのか。」

「まあ、さうだ。――君、少し駆け歩をしないか。」

「……うむ。」

「随分好いお天気だね、珍らしいお天気だね、こんなおだやかな朝は滅多にないだらう。」

「この頃は毎日斯うだよ。」

「チヨツ! 馬鹿/\しい。夜は矢ツ張りいけないのかね、君。こんな日に机に向つてゐれば、どうしたつて頭が不健全になりつこはないね。」

「俺は、生れて二三度しか徹夜はしたことがないから夜のことは知らないが……君、もう少し歩をゆるめてくれないか。」

「――静かな冬から春へかけての夜更けであつた。私は、水底の魚のやうに毎晩凝つと机に向ひ通した。私は追憶の巻から取りかゝつたのであるが、どんなに無選択にその頁を繰り拡げて見ても何れもが自分にとつては思ひ出の気分にならない、あの心の小さな蔭のやうなものが何らの変りもなく今日の心に因果と通じてゐる、そして私は回想に疲れて、惧れを抱いた。」

「おうい! もつと、ゆつくり歩いて呉れと云ふのに――」

「君は、何年何月生れだ?」

「俺か? ――眠気醒しの出たら目に返事をするのも馬鹿/\しいな。」

「俺は明治二十九年十一月だぜ。だから今年は三十一だ。」

「十一月か君は……」

「うむ、秋生れだ。――あゝ、今日は何といふ奇麗な天気だらう、空は実に好く澄んでゐるね。空気は水のやうだ、君、口をあけて一寸と駆けて見ろ、それあ好い気持だぜ。」

「眠気はどうだ?」

「大分好さゝうだ。だが喋舌る種が切れると困るだらう……この頃は君、月が出るのは何時頃だか知つてる? 十一時から十二時の間だ、好い朧夜だよ、たしか見事なハーフ・ムーンだつた。それから……」

Aは、独白の種がなくなると、第一節がどうの、第二節がどうのと切りに呟きました。今日は別ですが、小説の話になると私は受け答へが出来ません。だからAだつて私の前で滅多にそれを口にしたこともありません。Aと私は子供の時からの友達です。Aも私も同じ学校の文科を出たのですが、専門が恰で違ふので仕事の話は殆ど取り換したことはありませんけれど二人とも他に親しい友達がないので昔のまゝに往来してゐるのです。Aは小説や戯曲を書いてゐるのですが、私は彼の作品を読んだことがありません。他意はないのです、機会もないし、また彼は私にさういふ類のものを味ふ頭がないことを知つてゐるので一切求めないのです。さうだ! 私は、たつた一篇彼の処女作とか云ふものを読んだ覚えがあります、たしか私達が二十一二の時です。何故覚えてゐるかと云ふと彼がそのノート・ブツクに書いてある小説を私に贈つたのです。第一頁に麗々と「余の第一作を幼児よりの友B兄へ捧ぐ。」と書いてゐるのを私が見た時、何だかかーツとして顔のあかくなる思ひに打たれたのです。「仮面の下で泣いた子」といふ題でした。

子供である「自分」が毎日のやうに友達を集めて芝居ごつこをやります。女の子の見物を主にして集めます。彼の家庭の雰囲気についても種々書いてありましたが、こんな部分が主でした。彼は、春ちやんといふ女の子に秘かに心を惑かれてゐるらしく、その子の注目を惹くためにあらゆる努力をします。「役者は一様に強い大将ばかりだつたから芝居は関ヶ原の合戦ばかりが二慕も三幕も続いたが戦死する者などは決してなかつた。私は、なるべく乱暴な立廻りをして春ちやんをハラ/\させてやり度く、楽屋で秘かに三平をつかまへて「僕に殺される役目を引きうけて呉れないか」と頼んだ。――」

常々から彼は、隣家の一人息子の玄吉を好かないで仲間に入れません。玄吉は泣き喚きながら母親を引つ張つて、母親の口から仲間入りを頼みます。誰も相手にしません。自分達より幼い癖に仲間入りをしたがるなんて生意気だと思ひます。玄吉が母親の髪の毛に武者振りついて喚いてゐるのを彼等は、態ア見ろと云はんばかりに冷たく見返りました。――、合戦は次第に激しくなり、彼はわざと春ちやんの目の前で花々しく大太刀を振ひました。見物は胆を寒くしながらも、勇敢な役者達に拍手を惜みません。

「この時突然、見物席に割れるやうな笑声が起つた。

「アラ、面白いわ/\」と云つて春ちやんも夢中で立ちあがつた。自分もそつとスサノヲの尊の面の下でそつと其方に横目を放つて見ると、素晴しい合戦の間を誰もが厭がつて手にしなかつたひよつとこ面をかむつた小坊主が、ふらふらと迷ひ込んで来るのであつた。玄吉である。役者達は内心驚いたが、眼もくれぬ態で益々激しく戦ひを続けた。自分は、ヤア/\とあらん限りの掛声を放つて、大槍を打ちふるつた。切つて切つて切りまくつた。ところが小坊主ばかりが見物の視線の的になつてゐるので、武士の面々は余程テレてしまつた。

「大将のお面でなければ厭だと云つて承知しなかつたのですが合憎あれが一つしか残つてゐませんで、やつと騙したんです。」

「まアまア、でもまア何てまア玄坊は剽軽な子でせう、それに巧いこと!」

母達も出て来て切りに玄吉を賞讚した。自分達はムツとしたが、止めるわけにも行かずに戦ひを続けてゐた。玄吉は調子づいて踊つた。見物達は腹を抱へて笑ひ転げ、可憐な道化者の為に精一杯の拍手を放つた。」

間もなく彼の、うつかり――彼の槍の尻がゴツンと玄吉の頭にひどく当りました。玄吉が悲鳴を挙げます。玄吉は、面を脱ぐ気力もなくその儘ワーワーと泣きました。見物人は大変玄吉に同情しましたが、それでも失笑を洩すものもあります。玄吉の滑稽で悲惨な姿に人気が集中します。

「舞台では三平等の合戦が尚も続いてゐたが私は、玄吉にかまつた方が多少でも見物の注意を引くので親切ごかしに彼をなだめた。玄吉は両手でしつかりと面をおさへて、ワーワーと泣いた。こいつ甘えてワザと泣きあがると私は憎々しく思つたが、やさし気になだめた。

一寸と手荒な行動で私は玄吉の面をもぎとつた。彼の顔中は涙だらけだつた。やはりほんとうに泣いてゐたのかと私は思つて軽い好意を持つた。人気役者の素顔に接した見物は好奇の目を視張つてざわめいた。と玄吉は「アーイ」と最後の涙声を振り絞つて、見物の同情に報ゆるやうにニヤリと笑つた。」――。

「安心して帰つた母親が迎へに来て玄吉が帰ると、

「新ちやん、また遊ばう。」と、春ちやんが真ツ先きに駆け出した。それに続いて、

「これから、いよいよ真剣勝負の大合戦になりまあす。」と三平が立て続けに述べたてゝゐるにも係はらず大方の見物人は散り散りに逃げ去つて耳も借さなかつた。

「お春を捕へろ! 帰つた奴は酷い目に合はすぞ!」さう云つて三平が一目散に追ひかけると役者達もワツと云つて続いた。

「新公の奴はお春に惚れてゐるもんで来ねえのかあ!」

遠くで敵意を含んだ三平の声がした。私は、ドキリとした。悪いことは直ぐに感じられるのか――そんな気がした。」――。

「私は、あたりをはゞかつた。幸ひ誰もゐなかつた。それでも自分は、とても明るい場所では泣けない気がした。こんな子供のくせにして俺は、女に惚れたのかしら? と思ふと私は怖ろしかつた。莚の上に独りしよんぼりと残された自分は、眼眦の熱くなるのに敵はなかつた。」――。

「ふと自分は足下に落ちてゐる面を拾ひあげた。私は、慌てゝそれを顔におしあてた。痛いほどおしつけた。――そして、泣いても好いと思つたら私は、急に馬鹿/\しくなつて、面を棄てゝしまつた。

自分は、莚の上にどつかりと膝を組んで、たゞぼんやりしてゐた。――チクリとしたので手の甲を見ると蚊がとまつてゐた。私は、下唇を噛んで徐ろに片方の手の平をひろげて打ち降さうとした時、ふと、静かに、だんだん腹のふくれて行くところを見てゐたい気がして、その儘凝つと、専念に蚊のいとなみを視詰めた。」――。

まだ/\長いのです、彼が青年になつてからのことまで書いてあります。Aは、その後間もなくこれを改作して何かの雑誌に出したと云つたことがありましたが私はそれは見ません。私は、つまらなくも面白くもありませんでしたが、そんな記憶はないが、若しや玄吉といふのが私の片影ではないかといふ気がしたのでAに訊ねたら、あれは空想の人物だと答へたのでホツとしました。うん……と答へたら私は、絶交するつもりでした。

オギクボ、西オギクボなどといふ小駅を通過して私達は、大きな沼のあるイノカシラといふ処まで半ば駆歩で到達しました。少しベンチに休まうと私が云ひましたがAは、拒んで切りに喋舌り続けながらも、首を振つたり、腕の体操をしたりして、少しも体を休ませません。私は水の上の鵞鳥を眺めながら歩きました。Aは、斯うしてゐないと危いと云つて、主に空に眼を放つてゐます。

「眠気を辛へてゐるといふことも斯う極度に逢すると一種の快感だぜ。……最後に到達するところがないと如何してもあれは結べない、空想の上でも自殺は厭だし、泣き笑ひになるんぢや何だか古くさいし、それに俺の心にぴつたりしない……かと云つて、絶望状態や痴呆、放心、そこへ行き着くのは吾ながら残念なのだ……あゝ、やつぱり行くかな。」

Aは、たゞ眠気醒しのためにあらゆる努力をしながら、眠気に向つて叱咤の声を浴せてゐるのです、たゞ力を込めて休まずに喋舌つてさへゐれば何んな文句でも関はないのです、だからAはそんな出たら目な独白でもが止絶れると、徒らにオーオーなどと、動物のやうなうめき声をあげたり、拳固を堅めて己れの頭を思ひきり強く擲つたりしてゐます。そんなに酷い徹夜をして、その儘起きてしまふのではそれ位ひに過激な動作をせずには居られないのだらうと私は、自分には覚えのないことだが深く同情してゐました。

「取りつき場がない/\! 放縦に祟られたんだ、何しろ俺は何んな場合にも結果を予想しないんだからな。馬鹿ア!」などとAは、号令したやうに叫びます。耳を貸したつて仕様がないし、たわ言に意味があるわけでもないし、だから私は、AはAでそんなことは叫びながらも深い苦し味があるものではなく眠気にさへ打ち勝てば好かつたのだから――私達は、勉強の余暇に散歩に出た学生のやうに呑気なのです。暗記物を口吟んでゐる者のやうでもありました、Aは。

「生活の単なる結果でも好いわけなのだが、その思索と生活があまりに貧しく――」

「おや、あの小さい茶色の鳥は何だらう? おツ、またもぐつた! ホツ! また、あんなとこに浮びあがりやがつた!」

「生活の変化を事更に求めるにも当るまい、若し五感が円満であつたならば……」

「おツ、一羽ぢやない、あんなところからまた頭を出したぞ、随分息が長いんだな!」

「徒らに己れを卑下したがるのは一種の神経衰弱の状態か? だが俺にとつては、徒らでもなく……」

「二羽! 三羽! 随分沢山居るんだな! おやツまた皆な居なくなつた!」

「止めた/\/\――当分! 行くと決めよう/\、無神経な妄想に走つてゐられる場合でないのだ。」

「妙な鳥だね、あれは!」

私は、はぢめて見た消えたり現れたりする水の上の小鳥を面白く見ました。

池を一周して私達は帰途に就くべく街へ出ました。街へ来るとAは、もう非常識な放言も出来ないし、それにもう話材もなくなつて、大分弱つたらしく見えました。

「どうだ?」

「頭がガーンとしてゐるだけだ。」

「これからどうする? その君に終日つき合ふのも……君だつて……」と私が、いくらか逃げ腰しになつて訊ねるとAは、街角の乗合ひ自働車を指差して、

「俺は、あれに乗るつもりだつたんだ。此処まで来ればもう一人で好い!」と云ひます。その自働車には天文台行といふ札が掛つてゐました。Aは、或る人から紹介状が貰つてあるので、これから天文台見物に行くのだと云ひました。そして彼は、好い話材に出遇つたかのやうに、今度の天文台の様子を詳しく語りました。野原の真ン中に椀をふせたやうな大きな半球がある、スヰツチを切るとその球は中央が徐ろに割れるのである、すると天に向つた大望遠鏡が煙突のやうに現れる、この目鏡で天を覗くのには、その下に寝台があつて人がそれに上向けに寝ると、丁度顔のところに目鏡の口がある、さうしなければ覗けない位、素晴しい大砲のやうな望遠鏡である――それを冒頭に彼は、そこの詳しい叙景をぺらぺらと述べました。で私も、興味を覚えて同行を申し出ると彼は、妙にあたふたとして紹介状の都合でそれは出来ないと拒みました。

「この次の時に――」

「では、その時頼む。」

「ぢや、さよなら!」と云つてAは、私の手を握りました。彼にはそんな癖があつて私は、普段からAとさようならをする時のそれが厭で、つい/\延ばすのでしたが、この日はまた馬鹿に仰山に握手をして私の顔を赧くさせました。――未だ見たこともない其処の話をAは、調子づいて面白く語り過ぎたのではなからうか? それで俺の同行を聞いて急に困つたのかも知れない、一体Aには愚かな誇張癖がある。さうだ、眠さを紛らす例の苦し紛れに不図自動車を見た時に話材にありついて、出たら目を云つたのかも知れない、彼奴があんなことに興味を持つてゐる話は何時にも聞いたことがない……よしツ、今度来やがつたら飽くまでも空とぼけて、同行のことを熱心に追求してやらう――と私は思ひました。(彼奴、屹度途中で自働車を降りて秘かに引き返したに相違ない、それにしても独りになつたら何んな風にあの眠気と戦つたらう、あんなに酷く眠がつてた人間を、俺は未だ嘗て見たことがない。望遠鏡の下に寝台があると自分で云つた時なんか、彼奴! 思はずふらふらとよろけやあがつた!)――(可哀想に、それ位ならもつと池のまはりをつき合つてゐてやれば好かつた、あそこで独白を呟いでゐたら、困つて自働車に乗るやうな破目にもならなかつたらうに!)

私は、Aの来るのを心待ちにしてゐるのですがそれ以来もう二タ月あまりにもなるのに未だ姿を現しません。

Aの細君は、Bのところへ行つて来ると云つて夫が出かけてから三日にもなるのにまだ帰らないので、Bを訪れた。

Aの机の周囲は、書き散らしの原稿で埋つてゐた。

その中で、割合にまとまつてゐる現実的なものを一つ二つ抜萃する。(他の断片は、悉く夢のやうな甘いお伽噺とか、池の囲はりで彼が呟いた放言の延長見たいな実感は怪しまれる訳のわからない感想風のものばかりである。)

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