Chapter 1 of 4

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何故俺は些う迄性のない愚図なんだらう、これツぱかりの事を何も思ひ惑ふにはあたらない、手取り早く仕度さへすれば二時間も掛らないで出来上る……が、純造は「明日こそは――」と叱るやうに決心した。前々の日に出掛ける筈で既に叔母から旅費はちやんと貰つて大切に机の抽出に蔵つてはあるのだが、つい出遅れて、これも度重なつて具合も悪く、この日は午後から到々頭痛がすると称して二階の室に寝て了つたのである。――眼を瞑ると、渺茫たる青海原が陽春の日の下に凪ぎ渡る……間もなく彼の肉体はその喜びだけで充満する――「一時も早く彼の海辺へ走らう、それだけが今の俺は唯一の心からの希望だ。」と、思つて行先の想像に恍惚として、熱海へ行つてからの細かな処まで様々に想ひを回らす、――丁度望遠鏡か何かで遠くの美しい景色を眺めてでもゐるかのやうな怠惰な悦びを感ずる、――と、今日でなくてよかつたと思ふ、明日迄このしみつたれた予想に耽り得る時間に延び延びとしたルーズさを覚ゆる、――その怠惰さ加減を彼は今強く叱つた筈だつた。で、彼はもう明日迄も待てさうもない気持に焦かれて、突然爪先を整えると怖ろしい勢ひで被着を蹴つた。燐寸の棒を折つた様に胴と脚とが殆ど直角に屹立して、臀を中心にしたそれは弥次郎兵衛の通りに二三回フワフワとぎつこんばつたんをした。「それで腕組をした儘起き上れるか?」「他合もない。」「ならやつて見ろ。」――そんな興味を感ずると、一寸胸を轟かせて一つ勢ひを附けて「ヨイシヨツ」と思つた。見事に起き上れた時子供らしい喜びを、ふいと感じた。

夕暮れで、白い雲が徐ろに動いてゐた。彼は椽端の籐椅子に身を落して空を眺めた。たゞ喟然たる気持のみが不安な程胸に拡がつてゐた。旅先の楽しい幻も稍ともすると「何にも考えてゐない」――白い煙りの彼方へ紛れ込みさうになる、――旅を想ふ余りの幻なのか、それとも単なる無稽な妄想なのか、見境ひが付かなくなる。……彼は難解な顔付をして、烈しく首を振り回した。ガラン胴の鈴でもあるかのやうに、たゞ軽かつた。さうしてピタリとその振動を止めた。――沈丁花の香りが、ふいと香つた。頭の中には、鐘をついた後のやうな微かな余韻だけがフラフラと残つてゐた。純造の意識は、たゞ執拗にその響きを追つてゐるのみだつた。

「明日からのことは先づそれでいゝとしても、今夜はこれからどうしよう。」――さう思つて見たのも、今に限つてはそれが故意に考えてゐるやうにも見えて、その先の手段に迄は想ひを運ぶ気もしなかつた。――切りに煙りを吹いてゐるばかりだつた。吐息の合間合間に丁子の香りがした。小さな庭の隅に咲いてゐる花だつた。……沸々として涌き出づる泉の微温が潺湲と胸に滾れたかと思ふと、愚かな五体は徐ろに無何有の郷に溶けて行つた。で、脳裏は風船玉の如く、洞ろな肢体は春の海に漂ふ舟の如くに軽く、「ひねもすのたりのたり」の海辺に拉し去られた快は、他合もなく幻のうちに微笑まれた。

そんな気持に彼がなつたのは珍らしかつた。嘗て旅など想像したこともないし、一週間ばかり前にそれを思ひ立つた時などは実際情けない気持で仕方がなく決めたやうなものだつた。

「兄さん、電話ですつて、島田さんから。」階段の上り口で従妹の光子が呼ば張つた。――純造は、フヽンと思つた。その癖、同時に、あゝ助かつたと云ふ嬉しさが烈しく胸で踊つた。また別に、斯んな心残りも感じた――折角ヒトが快い落着に浸り得たものを、若少し此儘面白い空想に耽らせて置いて呉れゝばいゝのに、また無惨にも白痴を戯ふ了見でひつかき回しに来たのか。

大体この三つの感情が紛紜して直ぐに立ち上らうともせず、新しい煙草に火を点じて、然し明らかに醜くゝ弱い心だけに急変して、静かに煙りを吹いた。この嫌な自らの心を傍観する病的な快感もあつた。

極めて自然な冷淡を装ふ――結果は相手に焦噪と嫉妬とを強請する寸法なのである。純造の邪推深い悪癖で、自らもそれを効果のある Adulatory method として謀むことが往々あつた。――この気持が起つたのに気が付くと、酷い自己嫌悪に陥るのだつた。全く、照子と云ふ年上の女との長い関係(それは下劣な感情の争闘のみを多く戦はせた。)の後で、至純な恋の心がすつかりひねくれて了つた後で――つい近頃延子(島田)を想ふようになつたのであるが、その延子に対しても変な臆病さと、「一種の虚栄心とも云ふべき感情の戦ひ」を勝手に挑むでは、勝手に自らテレたりするやうな愚を、うつかり繰り返して了ふのであつた。延子の愛を肯定してゐながら、否定の形でそれをチヤカして見る、それで相手の心をグイと引張り寄せやうとする試練を行ふ、涙ツぽろい嬉しさの心ばかりの癖に、それと反対な態度で――つまり媚びて見るのである。照子と彼との関係が、その間男の心が如何に不自然に働いたかは、(それは彼の度し難い性癖かも知れないが)その後彼が延子を恋するやうになつてから、どんなにそのコヂれた感情の為に苦しむでゐるかといふ、たゞ延子との相対関係に反映した情実だけに止めて置く。

愛することの満足――「ロマンテイクな恋」に努めて自惚れを持つてゐる純造は、「あの悪い心」を性質としてあきらめて了ふことは余りに寂しいことだつた。だから彼は「あゝ、俺は照子のやうな女に翻弄された報ひですつかり俺の心はくさつて了つたのだ。」と思つてゐるのであつた。「屹度此の心は取り返して見せる。延子の心はほんとうに正当で純なのだ、俺だけが悪いのだ、俺は自分勝手に低いレベルで極めて下賤な誰も見て呉れない独り芝居を打つて勝手に焦れてゐるのだ。延子に対して俺は全く済まない男だ。」――斯うなると「延子が恋しい」情ばかりがムツと胸につかえる、好きなセンチメンタルの涙が快くもホロホロと胸に溢れる。

接吻が出来たらどんなに嬉しいことだらう、とそれを翹望してゐた間は可成り長かつたが、――彼は忘れもしない、××日の夜、しつかりとそれを果したが、――その時、どうしたものか急に可笑しくなつて「フヽツ」と吹き出して了つたのだつた。延子の桃色の眼瞼には涙が宿つた。

「失敬だわ、あなたは――」

純造はもう一辺接吻がしたくなる。……彼は袂から煙草を出して徐ろに喫した。……勘忍してお呉れ……まさかさうも云えない――と考えた。後悔の念ばかりで、五六間黙つて歩いた。

「……なる程……ウン、さうか。」うつかりと純造はそんなことを呟いた。

「あなたはこれ位ひのことを何ともないものゝやうに思つてゐるんでせう。そりやあなたなんてさうに違ひないわ。だけど……」延子が云ひ続けやうとしたとき、純造は女の自尊心に反感を覚えて、

「或はさうかも知れない。」と吾ながら落着いた憎々しい調子だつた。

「こんなことで感情を悪くするのは莫迦/\しいから――」

「妾が悪かつたわ――」

純造は、さう聞くと意外な気だつたが、それだけにもう何の悪意も持てなかつた。諛ひに慣らされた彼の感情は、こゝで息の根を止めらるゝ程な高びしやな嘲笑を浴せられて、此方もそれに合せてコケテイシユな戯談でヘラヘラと笑つて了ふことの方に多くの肉体的の満足が想像出来た。然し彼は此場合順当な男としての恍惚にも浸り得た。その陶酔の果は、夥しい寂しさに陥つた――少しでも信じられたり尊敬されたりすることは何んな侮蔑よりも苦痛なやうな気がする。これも彼は、照子に依つて慣された悪癖として――逃れることを欲して居た。

「始めてなんだらう。」

「厭、そんなことをきいては――」

勿論純造は疑つて居る筈はなかつた。

「危ねえ/\。何だか解つたもんぢやない。」

「ね、照子さんて方は今でも稀には手紙位ひはやりとりするの?」

「二三遍寄したけれど、つまらないから返事も出さなかつた。」それは夢にも無い嘘なのである。

「悪いわ。」

「仕方がないさ。照子なんて思ひ出しても気持が悪いや。」

「まあ酷い人ね。」

「いや、さう云ふ意味ぢやないんだよ。」純造は、実際の照子が自分に取つて何ういふ風であつたか、と云ふことを一寸説明したかつたが、延子の言葉の様子に何らの嫉妬がましい点をも見出すことが出来ないので不満を覚えたのである。「照子なんて、それでも稀には此方のことを思ひ出すやうなことがあるのかな。」

「そりや人だもの。」

「人とは心細いな。――」

「何だ自分だつて始終思ひ出してゐる癖に。」

「そりや人だもの。」――純造は愉快を覚えた。それにしてもこゝでそんなに照子のことを問題にすることは照子に取つては勿体なさ過ぎる、などゝ思はれた。

「あなたはあゝゆう風なタイプのハイカラな人が好きなのね。」照子の写真を延子は純造から見せられたこともあつた。

「うむ、好きなんだ。ところがすつかり振られて了つてね、――いたく悲観の態さ。」

「照子さんとこへでもいらつしやいよ。」

「アツハツ……。まあ、さう御機嫌を悪くなさるものぢやありませんよ、延子殿。」

「人をバカにしてゐるわ。」

「あゝあゝ、つまらねえ/\。――遊びにでも行き度くなつたつてえ気持だ。」

「勝手に行つたらいゝぢやないの、なあんだ。いゝ加減人をバカにしてゐら。いくらそんなことを云つたつて妾なんかちつとも嫉いたりなんてしやしないわよ。可笑しくなら。」

烏頂天になつて噪いでゐた純造の気持は、これでガツクリとして酷い冷汗を覚えた。余りに安価で見え透いた口先の技巧にイヽ気になつた一刻前の自らに怖ろしい羞恥を覚える。「あゝ俺は何といふ下らない人間なんだらう。」――延子の前にのめのめと顔を曝してゐることが堪らなく苦痛になる。

毎晩、同じやうに彼等はヒドク足労れる迄散歩した。屹度、別れ端になると純造の心はジリジリした。何か延子は、幻滅を感ずる程な悪い感じを此方から享けて――自分と別れてゐる間の方が余程爽々しい気分を感じてゐはしまいか――そんなことが可笑しい程心配だつた。余り純造が薄ツぺらな戯談や下品な調子で喋りたてて或晩の事、到々二人は白けて了つて、珍らしくもさつぱりと別れたことがあつた。――家へ帰ると純造は滅多に手紙は書いたことがなかつたが、強い心細さに追はれながら、こんなことを書いた。――自分の態度が浮々とすればする程自分の心はその時厳粛になつてゐる、此の憐れな性質はどうか理解して貰ひ度い。だから僕が下らないことを喋舌るのは本気で云つてるのではなく一種の愚かな見得なのだ、と思つて貰ひ度い。然し「理解出来ないから振り棄てる。」と云はれても、「それなら仕方がない。」と答えて、その寂しさに自分だけを瞶めて居られる程な強い気には到底なれない。だからこんな手紙も書かない方がいゝことはよく承知してゐる。何といふ図々しい頼みをするイケナイ男なんだらう。

延子の返事には斯う書いてあつた。――そんなことを云はないでも私にはよく解つて居ります。私は嬉しく思ひました。心配なんてしないで下さい。

それを見た時に純造は、うつかり正直過ぎることを書いて了つて損をしたやうな気がした。延子が速断してゐるよりも、もう少し此方の心は複雑なんだといふやうな途方もない自惚れを感じた。さうして、延子自身に安心を与え過ぎて了つた後悔と、イヽ気になつて落着いたらしい延子の高びしやな感情に反感を持つた。実際は手紙に書いた程心配なんてしては居ないんだ、あれはちよつとしたその場限りのセンチメントでね――と、笑つてごまかして了ひたかつた。

「妾は決して夫の世話にならうとは思はない。妾は幸ひ物質的に恵まれてゐるのだから夫の愛さへ変らなければ、普通の形式の結婚なんて成るべくしたくないわ、いよいよとなる迄は――」或時延子はさう云つた。

「いよいよとは何う云ふことなんだ。――それよりも、そんな空想は安ツぽい一時の興味に過ぎないんだ。そんな歯の浮くやうな夢に駆られてイヽ気になつてゐられては此方がやり切れない。」

「さうゆう意味ぢやないのよ。」

「可愛がられることは不愉快だ。」

「――妾だつて厭だ。」と延子が云ふと、もう純造は何だか解らなくなつて了つて不安な気だけに駆られる。

「それはどつちの意味なの?」

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