眼鏡
或日、趣味に関して人に問はれた。
稍暫く私は、堅く首を傾けて忠実に沈思した――結局、酒なのか? と訊ねられた。それも私は、烏耶無耶に、否定するほどの気力もなく、何となくかぶりを振るだけのことだつた。私は困つて、私のこの殺風景な居室を見ながら、どうして貴君はそのやうな質問を、然も熱心に訊ねる気になつたのですか? と云はずには居られなかつた。客は、それが今日の自分の仕事なのだと云つた。私は、恐縮した。そして彼の仕事が水泡に帰するのであらうことを慮つて、気の毒な気がした。――他人の趣味を訊ねに行くことはちよつと面白いだらうな、その仕事こそ私には趣味が感じられさうだ、と私は心から羨望した。
「そこの机の上に双眼鏡が二つ載つてゐるが、一つは、それはプリズムぢやないんですか?」
「はア、さうです。つい此間友達に貰つたんです。此処では展望が利きませんので今日私はこれをふところにして散歩に行つて来たところなんです。これは相当に遠見が利くらしいんです。眼鏡に映る景色が――ですね、どちらかといふと、何となく薄暗く沈んで、沈むに伴れて反つて輪廓は、はつきりする、口ではちよつと云ひ憎いんだが、その薄暗く沈み方の感度で――ですな、レンズの好悪は一応解る……」
「ほう、仲々詳しいな! それから……?」
「いゝえ、これを呉れた友達が得意さうにそんなことを云つてゐたんですよ、僕はもう知らない。」
「此方のは、それはオペラ・グラス?」
「ボロだ。たゞ、永年使ひ慣れてゐるだけの……」
「芝居へは行きますか?」
「この頃は滅多に出かけません。」
「芝居に行かないで、何にそれを使つてゐるんですか? どうしてまた、今日は机の上になど並べてあるんですか?」
「たゞ――」と私は、横を向いて慌てゝ呟いだ。「たゞ――ちよつと、その……」
「どうしたんですか。何となく挙動が怪しいぞ! まさか、自宅では芝居はないでせうに。」
「はい。」と私は点頭いた。実は今日これから新劇の見物に行かうと思つてゐる矢先きなのだと、暗に客の帰参を促したのであるが、あまり声が低かつたので相手にその意は通じなかつた。
客は仕事に熱心だつた。