Chapter 1 of 3

四郎は、つい此の間から、何時といふことなしに口笛が吹けるようになつた。どうしてそれが吹けるようになつたか? 自分にも気がつかなかつた。

「またお前は口笛を吹いてゐる。勉強しながら口笛なんて吹くものぢやありません。」と、四郎は母から叱られた。

なる程四郎は、机の前に坐つて、宿題の算術をやつてゐるところだつた。――四郎は、母の声を耳にすると同時に、ハツと気づいて、思はず手の平で口をおさへた。

「アツ、しまつた。」と、彼は思つた。問題を考へてゐるうちに、うつかり吹いてしまつたのだつた。――もう吹かないぞ――と、四郎は自分を叱るやうに呟いて、再び鉛筆を走らせた。

「甲乙二人の旅人あり。甲は一日に十二里、乙は一日に……」と、問題を読んで行くうちに、四郎の眼の前には、真直ぐな街道が浮んだ。片方は鬱蒼たる木々が茂つてゐる。片方は崖で、崖の下にはさらさらと音をたてゝ小川が流れてゐた。一人の旅人が木々を見あげたり、小川を見下したりしながら、その一筋道をコツ/\と歩いてゐた。――四郎の頭に、ふつとそんな光景が浮んだのである。云ふまでもなく算術の問題の「旅人」といふ言葉に引かされて、思ひついた想像だつた。

四郎はこの光景を想ひながら、旅人の歩みに伴れて、だんだんに回転して来る風景や、旅人の心持などを想像した。

四郎にはいつもさうした悪い癖があつた。それからそれへ、いろいろと絵のやうな空想をたくましうするといふ――悪い癖だつた。だから四郎は算術が一番不得意だつた。「数」といふことを染々と考へるといふことが出来なかつた。その代り絵は好きだつた。そして得意だつた。――算術の場合には悪い癖でも絵の場合には、好い癖になるわけだ。そこまでは四郎にも考へることが出来たが、ではこの癖は、一体ほんとうに悪いのかしら、それとも好いのかしらと考へると、分らなくなるのだつた。

今四郎は、机に向つて算術の問題を考へてゐるところだつた。それなのに、考はいつの間にか、とんでもないところへ走つてゐた。

「これは確かに好くない。算術の場合には算術だけを考へなければならないんだ、そんなことは分りきつたことぢやないか。」――と、四郎は自分で強く自分を叱つた。――何だか笑ひ出したいやうな気持になつた。すると、またうつかり口笛を吹きさうになつた。

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