Chapter 1 of 6

彼が、単独で清友亭を訪れたのはそれが始めてだつた。――五月の昼日仲だつた。

「先に断つておくがね、僕今日は用事で来たんぢやないよ。……芸者をよんで、そして僕を遊ばせて呉れ。」

彼は、玄関に突ツ立つて、仏頂面でそんな言訳をした。彼の姿を見ると、女将は眼を伏せて、黙つて頭をさげた。それで彼は、一寸胸が迫つたので、慌てゝそんな気分をごまかす為に、決して云ひたくはなかつたのだが、強ひて晴々と笑つて、

「僕だつて、斯うなれば時には独りの遊びをしたいからなア!」などゝ妙な声を張りあげて呟いだ。――斯うなれば……その言葉がもう胸にセンチメンタルな響きを残した。

清友亭は、彼には慣れた家だつた。地震で潰れたり焼けたりしない前の半年位の間、続けて来た日もあつたのだから、殆ど一晩おき位ひに此処へ来たのだつた、と云つても誇張にはなるまい。父親がお蝶といふ女と親しくなり、そして父親の事業の相談が忙しく東京などからお客が多かつたのだ。母が嫉妬深くて夜十二時近くなると、屹と彼を清友亭に差し向けた。母と彼と一処に乗り込んで、父の顔を赤くさせたことも度々あつた。

「旦那の百ヶ日は、もうあさつてなんですつてね。早いこと……」

女将は、何となく手持ぶさたらしく、窓に腰かけた彼を手をとるやうにして正座に落つかせた。

「よくあさつてだなんて知つてるね。僕はおとゝひ迄そんなことを忘れてゐた。」

いくら慣れてゐる清友亭だつたにしろ、彼は自分が主になつて然も独りで斯ういふ処に来たことはなかつたので、眼の据え処にさへ迷つた。彼は、食卓を前にして、痩躯を延して、かしこまつてゐた。

「忘れる人はありません。――それに昨日お宅から通知がありました。」

「何の通知?」

「御招待――」

「こゝに、はゝア! 阿母かしら?」

問ひ返すまでもなく彼は、心にその通りに思つたのだが、軽く空とぼけた。彼はそんな風に、わざとらしい淡々さを装ふのが癖だつた。そして、

「奥様は仲々気のつくお方ですよ。」などゝ女将の口からカラお世辞を云はせたのは、寧ろ彼の猿智慧だつた。そんな馬鹿な心を動かせてゐるうちに、彼は、はつきり親身の者の姿が個立して描けるやうな気がするのだつた。

憐れな母親だ――彼は、さう思つて、如何にも自分には冷い観照眼があるものゝやうに思ひ違へて、イヽ気な迷想に耽つた。

「うちの阿母は、随分可笑しな人だね。道徳を説くのは好いが、悲しい哉、彼女は嫉妬心が強い、悴――即ち吾輩の前に馬脚を現し……」

「もう済んだことです。」女将は彼を、叱るやうにさへぎつた。女将は、彼の心根の安ツぽさを見極めてゐた。

「僕、今日は独りでのうのうと酔ふんだ。」

「これからは、あなたが当主なんですからね、しつかりしなければいけませんよ、少しはお母さんの心にもなつてあげなくては……」

「さういふ評判だつてね、親父が亡くなつて以来、家が益々傾いて来たんだつてね? 長男が何となく見得を切るのが悪いさうなんだよ。」

「悪い/\、お母さんがしつかりしてゐらつしやるうちは……」

お世辞かな! と彼は邪推した。何としても彼には、この女将が彼の母をそんなに好く思つてゐるとは考へられなかつた。

「僕はね、この間君が阿母の見舞に来てゐたところを傍で見てゐた時、可笑しくつて仕様がなかつた……」

うつかり彼は、そんなことを云つて取り返しのつかぬ思ひをした。家庭のボロを好い気になつて喋つてゐる自分の姿を考へて、救はれぬ思ひをした。それにしても、若し何処かに自分のやうな男があつて、傍からさんざんに其奴を煽てて、聞手になつて、その破境を眺めてゐたら、さぞ面白いだらう――などゝ思つた。

「家の阿母は何処がしつかりしてゐるかね?」

彼は、微笑を含みながらさう云つた。

「通つてゐますよ――」

「だつて君は、さうは思はないだらう、……通つてゐるんなら有り難いが、少くとも君の眼に映じた彼女の印象はどうだ?」

「もうお酔ひになりましたね。」

彼は、未だそんなに酔つてはゐなかつた。ほんとうに彼は、この女将の見た自分の母親は、いゝ加減彼の軽蔑観と一致するだらうと思つてゐるのだつた。

彼は、父の在世当時の幾つかの場面を追想した。それは皆な、低級な新派劇に見受ける光景と大した差違はなかつた。

……事業熱に浮されてゐるお調子者の父親、母親はうわべでは旧家の格式を重んじ、夫や悴を古風な教育に屈服させようと努めるのだが、夫は彼女を軽蔑してゐた。

「十何年も外国で暮して来た男だ、妻を棄て子を棄て、家財を蕩尽して――。家柄もへつたくれもあるものか、家の方が一級下の身分なんだつてよ、そんなことを鼻にかけてる阿母なんだ。」彼女の夫は悴に、酔つてそんなことを云つたこともあつた。「やきもちやきなんだよ、/\、いゝ年をして……」

そんなことを父が喋ると、面白がつて笑ふ彼だつた。そして独りの心で、憂鬱になる彼だつた。彼は、既に嫁を娶つてゐる年輩の不良青年で、頭にも腕にも何の覚えもなく、漫然と父母の膝下に生きてゐた彼だつたから、父が妾を持つて家庭に風波が起つても、母の命令で父を迎へに遊里へ赴くことを、内心寧ろ花やかに思つてゐた。

こんなこともあつた。

「随分遅いなア! また迎へに行つて来ませうか。」母思ひらしい口振りで彼は云つたが、肚はあの賑やかな父の居るところへ行つて一処になつて遊びたいのだ。彼は、友達とは何回かさういふ処へ行つたことがあるが、父と一処に酒に酔ふのが好きだつた。それに、父の席だと、芸者達が好い具合に彼をもてはやして呉れるので、彼はそれが嬉しくて仕様がなかつた。

「私も一処に行かう、伴れてツておくれ。」と彼の母は云つた。

「それは好くないでせう。」彼は機嫌の悪い顔をした。「僕だつて実に迷惑なんですよ。清友亭なんぞへ行くのは――」

「だから……」と母は一寸笑つた。「私も一処に行かうよ。今夜こそは、満座の中で阿父さんにきつぱり意見してやる――」

彼は、ゾツと身震ひした。……定めし阿母は、やることだらうな――と思つた。

「お止めなさい/\。柔かく当らなければ駄目ですよ。……阿父さんに気の毒だ。」

母と彼は、俥を連ねて清友亭へ駆けつけた。

「私は一寸買物をして行くから、お前は先へ行つてゐてお呉れ。」

母は途中でさう云つた。

彼は廊下でお蝶と出遇つた。彼は堪らない気遅れを感じた。一寸挨拶が出来なかつた。

お蝶は嬉しさうに笑つて云つた。「今お宅へお電話を掛けるところ――。お迎ひの催促、トン子さんもゐますわよ。」

「大変だ/\、阿母が来る/\!」

「えツ!」とお蝶はたぢろいだ。

彼は慌てゝ父の座敷へ走つた。そして同じことを叫んだ。父は、尻をまくつて、出たらめな奴さんを踊つてゐる最中だつた。

「私はあつちへ行つてゐます。」とお蝶が云つた。

「いゝよ/\。阿母が納得するやうに話してやらう。みつともねえ! 五十代の夫婦だ。」

「…………」

彼は黙つて、正面の父の席に坐つた。この前の時彼は、父とお蝶の前でトン子といふ若い芸者を推賞したら、或はその為かも知れない、座敷の隅にちやんとトン子が坐つてゐた。彼は、惜しいことになつたと思ひ、トン子と父の顔を意味あり気に一寸眺めた。

「馬鹿奴!」父は笑つて、彼に云つた。

「来た/\。」と彼は小声で囁いだ。廊下に、妙に冴へた足音がしたのだ。お蝶は逃げ出した。父は、彼の方を向いて大きく口をあけて見せた。

女将に案内されて、母が仕方がなく来たやうなしなをつくつて入つて来た。女将と初対面の挨拶などした。

「いろ/\御厄介になります。お騒がせして申しわけありません。」

女将は返答に困つて、お辞儀ばかりしてゐた。父と彼は、交互に盃のやりとりをした。

「皆な帰らないでもいゝよ。今日は家内中での遊びだ。」と父は云つた。母さへその気になれば、それは一寸面白い――と彼は思つた。

「シンイチに気の毒です。」と母は開き直つて云つた。「勉強が出来ないと云つて、毎日これは滾してゐます。これは夜でなければ勉強が出来ない質です。」

「さうか?」父は彼を振り返つた。彼はにや/\と笑つて、盃を重ねた。

「私にばかり滾さないで、お父さんにはつきり断つたらいゝでせう。」

「…………」

「親がこの態では、子供のしつけなんて出来る筈がありません。」母は、醜くゝ落つき払つてそんなことを云つた。

「御免/\、親父が馬鹿なら阿母が賢夫人だから、丁度いゝぢやないか。親父のやり損ひは愛嬌としてしまへ。――」

彼は、自分が玩具にされてるやうな不快を感じた。だが斯うなると彼は、上ツ面ばかりが安ツぽく狡猾になつて、

「いゝですよ、阿母さん。」とワザと調子の低いしんみりとした声を出して、

「私だつてもう小供ぢやないんだから……」と云ひかけて、残りは万事胸に心得てゐるといふ風に、笑顔をもつて点頭いて見せた。何を心得てゐるんだか、さつぱり心に何の目当も無いのに――。その芝居は、愚かな母をうまく煽動した。

母は、お前の可憐な心持は好く解つた――といふつもりらしく唇に力を込めて、微かに点頭いた。そして夫の顔を凝と視詰めた。

そこで彼は、父の立場を気の毒に思つて、

「それで……」と母に向つて云つたが、何と云つていゝか何んな言葉も続かなかつたので、たゞ如何にも物解り好さ気にニヤ/\しながら、隣家から駆けつけたお座なりの仲裁人の気持で、好い加減に口のうちで

「まアまア!」と呟いだ。

何とかして母の気分を紛らせて、父と母とお蝶と芸者達と、そして自分とが皆な有頂天になつて笑ひさんざめいたらさぞさぞ面白いことだらう――彼はそんなことを考へた。さう思ふと彼は、四角張つて自分の前に端座してゐる母の格構を打ちくつろがせるやうに計ることが、難題であればある程興味深く思はれた。遊女は凡て汚らはしき者と思ひ切つてゐる母である。彼が嘗て、遊里を讚賞する詩をつくつたのを母に発見された時には、

「腹を切る度胸があるか?」母は斯う叫んで拳を震はせた。

「ある一瞬間の心のかたちを、詩に代へたまでのことだ。」と彼は答へた。たしか彼が二十歳の時だつた。

「そんな子供は、私は生まない。」

「生まないと云つたつて、私は此処に斯うしてちやんと坐つて、息をしてゐる。」

「この親不孝者奴!」

母は夢中になつて、納戸へ駆け込んだ。間もなく母は、古ぼけたつゞれの袋に入つた懐剣を携へて来て、彼が絵草紙で覚えのある桜井の駅の楠公の腕の如く、ぬツと彼の鼻先へ突きつけて、

「さア!」と云つた。人間の心持が高潮に達した時は、芝居的になるものだ。演劇のワザとらしさを笑ふのは不自然な業かも知れない――この時そんなことを思つたのを彼は今でも記憶してゐる。

「これは私がこゝの家に嫁に来る時持つて来た岡村家の女の魂だ。」

「女の魂?」彼は思はず慄然として問ひ返した。

「こゝの家はどうか知らないが、女だつて貴様のやうな腰抜にヒケを取るやうな女は、岡村の家にはゐないぞ。」

自分の里のことは何から何まで立派なものと据えておいて「こゝの家/\。」と此方の一味ばかりを、何の場合にでも弱虫の例証にしたがる母の愚が、グツと彼の胸に醜くゝ迫つた。

「私はこゝの家の長男だ、――口が過ぎる。」

「腰抜ざむらひの子か!」

「何だと……」

彼はカツとして、いきなり母の手から懐剣をもぎ取ると、キヤツと云つて、鞘で空をはらつた。すると母は非常に慌てゝ、

「もういゝ/\。」と云ひながら彼の腕を確りとおさへて離さなかつた。彼は湯殿へ駆け込んで泣いた。

その時のことを思ふと彼は、自分に皮肉な嘲笑を浴せずには居れなかつた。「この愚かな損けン気は母の系統だ。」

何年か経つた或る時酔つたまぎれの戯談に彼はそのことを父に話した。父は、膝を叩いて笑つた。――尤も彼は、父が嬉しがるやうに、出来るだけその時の母の言語や動作に尾鰭をつけて芝居もどきに喋つたのだ。そしてその時の自分のことは毛程も洩さぬのみか、返つて自分はその時も笑ひながら傍観してゐたのだといふやうに白々しく仄めかしたのだ。

「斯んなところでは話が出来ないから、兎も角私達の顔をたてゝ家へ帰つて貰ひませう。」

母は更に切り口上で父に詰ると、彼に同意を求めて、

「ね、シンイチ。」と云つた。彼は仕方なく、

「それが好い、それが好い。」と親切ごかしの讚同をした。そして尚も母に逆に阿る為に、見るからに苦々し気な表情をして一座を眺め回した。彼が密かに想ひを寄せてゐる若いトン子は、部屋の隅に縮こまつて、この不気味な光景をぎよつとして眺めてゐた。彼は、彼女に大変気恥しい思ひをした。……「ひとつこゝで非常に凜々しい親孝行振りを発揮して律気者と見せて彼女の心に印象せしめてやらうかな?」彼は、うつかりそんな馬鹿な想ひに走つてゐた。そして彼は、あまりに小さく利己的にこだわるわが心を省みて、気持が悪くなつた。「腰抜けさむらひ!」胸のうちで、彼はそつと自分を叱ツた。

「シンイチだつてあゝ云つてゐるぢやありませんか。さア帰りませう。」

いやに俺の名前を引ツ張り出すな! ――彼はそんなに思つて迷惑した。

その時まで黙つてゐた父は突然、

「煩せエなア! 俺ア斯うなれば何と云つたつて今晩は帰らねえよ。」と怒鳴つた。それと同時に、さつきからむしやくしやしてゐた彼の心はポンと晴れやかに割れた。――親父! 無理もない/\、これから家へ帰つて大ツ平に意見されちや誰だつて堪るものか、居直れ/\――彼は心でそんな風にけしかけた。普段母の前では、何の口答へもせず我儘放題にさせておく父の態度を、彼は歯がゆく思つてゐるのだ。

母は唖然として、彼の方を向いた。彼は母の味方だと云はんばかりに、物々しく腕組をして何となく点頭くやうに母の視線をうけた。

「帰つてくれ/\、手前えの顔を見るのも厭だア!」父の声は上づツてゐた。母に乱暴なことを云つたことのない父だつたから、余程の決心の上で無気になつたらしい、言葉が止絶れるとその厚い唇が性急に震えてゐた。自家でなら、もつと/\さんざんにやられても黙つてゐる父なのに、やつぱり周囲の眼を慮つて斯んなに逆せたのか! 彼はそんなに思つて一寸父を軽蔑した。

「お黙りなさい。」母は落ついて口を切つた。「私はあなたに罵られるやうな悪いことはしません。自分勝手なことばかしゝてゐて人を馬鹿呼ばゝりをするとは何事です。云ふことがあるんなら、第一あたり前の言葉で話して下さい。」

「ぶん殴るぞツ!」

「言語道断だ!」さう云つて母はセヽラ笑つた。

「面を見るのも厭だア、あゝ厭だ/\。」父はさう叫んでドンと卓を叩いた。

「大旦那! 何を云つてゐらつしやるの!」見るに見兼ねて初めて女将が口を切つた。「そりや奥さんが斯ういふ処へいらつしやるのは悪いでせうが……」

その声を耳にすると母は直ぐに、眼眦を鋭くした。女将はいくらか亢奮して、頓着なく続けた。おそらく父の味方だつたに違ひない。「奥さんや若旦那の心持にもなつてあげなさい。――」

彼は思はず首を縮めた。そして、怖ろしい顰ツ面をしてゐるものゝ何となく間の抜けてゐる父の横顔を、そつと偸み見た。――「阿父さんは芸者などに大旦那/\なんて煽てられてイヽ気になつてゐるんですよ。」いつか彼は母にそんな告げ口をして、母を厭がらせてやつたこともあつた。

女将にさう云はれると、さすがに父も吾に返つて気拙さうに苦笑した。で一寸静かな調子になつて、

「貴様が斯んなところに出しやばるといふ法がないんだ。――折角の賢夫人も笑はれ者になつてしまふぞ。」

「僕が悪かつたんだ。僕が阿母さんを無理に此処に伴れて来たんだ。」と彼は云つた。

「この年になつて何が楽しみで斯んなところへ遊びになんて来るものか。」父は彼には見向かず、母に稍々ねんごろに話した。その種のことは折々父が沁々といふことで、それは彼には嘘とは思はれなかつた。尤も父の喋ることは、どんな馬鹿/\しいことでも、それはそれなりに感情を、彼の如く偽つたりすることはないらしい――彼は常々父をさう思つてゐた。が、彼は、露悪家ではない(それ程気の利いた心の働きを持つてゐる彼ではない。)けれど、父のそんな性質を好きがつたり、尊敬したりする程の孝行な悴ではなかつた。父が若少し続けようとすると、

「そんなことは、もう聞きたくもありません。」

母は、語尾に傍から見ると、実に異様な力を込めて云ひ放つた。……「どうせ親がろくでもないんだから、子供だつて……」

彼は、アツと思つた。――ひとり自分はいゝ子になつて、具合よく母を瞞著してゐたつもりだつたら、やつぱり母にはこの俺の心根が見へ透いてゐたのか!

さうは気附いたものゝ浅猿しい彼は、憤ツとして口をとがらせた。父は、その彼の心の動きを悟つたらしく、寂しさうな苦笑を浮べて、貴様がこゝで阿母に逆ふのは浅はかの至りだ――といふ困惑の色を現した。

「帰ると仕ようかね。」父はさう云つて、冷くなつた盃をグツと飲みほした。

彼は、後架にたつた。袂で顔を圧へたお蝶が、廊下の、庭に面した薄暗い窓の隅に凝ツとたゞずんでゐた。

Chapter 1 of 6