一
ひとりのスパルタの旅人が述べてゐた。
「わたしの国では凡ての人が、若しも乱酔者を発見した場合には直ちに彼を捕縛して厳罰に処し、鉄窓のもとにつなぐべき権利を附与されてゐる。更に法律は、犯人に如何なる口実があらうとも裁判に問ふべき余地をも許さず、従令それがデイオニソス酒神の祝祭日であらうとも断じて彼を釈放せしめなかつた。」――と。
僕は、まことに極りもなく野卑であり、破廉恥なる屋根裏の乱酔者であつた。あれからもう既に六十日にちかい月日が経つて、蝉の声はすつかり止絶えて、わづかばかりの赤トンボと秋型の黄蝶がちらほらとしか飛んでゐない頃となつた。僕が、乱酔者たる自身を、自ら捕縛して、この人里離れたる森蔭の小屋に閉ぢ込めて以来、好くも長い孤独の日々に堪へて来たものとさへ思はるるのだ。僕は、まるで犯罪者のやうに兢々として、出遇ふものゝ眼である限りは蜂や蜻蛉のそれでさへも怕れ戦くほどの怯惰なる心を抱いて逃げて来た。僕は、捕虫網と毒瓶と魔酔薬と展翅板と解剖器と標本箱の類ひを槍や楯のやうに抱へ込み、そして一てうのギターを背中につけて逃げ伸びて来た。君にすらハガキも書かなかつた。どうしてしまつたことであらうと、おそらく君は苦い感に打たれてゐるだらうと推察する。
僕がこの田舎にたどり着いた時分は、恰も僕の目指す膜翅類の花々しい活躍期であつた。だが僕は自らすゝんで採集の野へ立ち向ふ程の気力も失せて、稍ともすれば森蔭や水ふちの隠花植物のはびこつた日蔭に蹲つて、果てしもない嘆きの身柄を持ち扱ふばかりであつた。梢を見あぐれば有吻類の鳴き声がかまびすしく蝶のヒカゲ、キマダラ、カラスの類ひがひらひらと踊りまはり、見霞すむ稲田の上に眼を放つと蜻蛉の群がさんさんたる陽りに翅を翻して游泳してゐるのだ。まことに僕は、これらの花々しい虫類の活躍を眺めるさへ、悲しい圧迫を強ひられて、稍ともすれば首垂れがちであつた。腕を曲げて、膝の上に眼を閉ぢるばかりであつた。そして、かすかに眼蓋を開くと、あしもとの小川の水は眼ばゆく照り映えて、空のやうに澄んだ水底には、水カマキリやヤゴが物憂気に逼ひまはり、目高が飛び交ひ、アメンボウが水の表面を長い脚で可笑しく歩いてゐるのだ。産卵の発作に駆られた蜻蛉が舞ひ降りて来て、水の上をほいほいと叩く姿が、影を映じて、恰も二個の虫体が、水の上下で囁きを交してゐるかのやうであつた。やはり僕は圧倒されるのだ。自分の考へや、生活の不自然さが罪多く呪はれて、忽ち胸のうちがもくもくと戦いて来るのだ。生きものゝ姿から暫しの間でも眼を転じたいものだ――とは、この節の僕の屡々なる吐息であるのだ。僕が捕虫網を振りまはす心底は、云ひ得べくば、吾と吾が虚無を撓望する無惨な妄想へのための暴挙に他ならぬのだ。
慌てゝ水際の草の中へ眼を転じ、怕るゝ胸をさすらうとすると、おゝ俺は観た――一個のベツコウバチと一体の脚長蜘蛛とが、今や孔雀歯朶の葉裏で、死もの狂ひの大格闘を演じつゝある惨状を! 蜘蛛は細毛の豊かな八本の脚を縦横無尽に伸び縮め、緋縅の鎧着たる阿修羅の蜂を抱へ込み、触鬚のかぶりを振つて、颯つとばかりに銀色の糸を放出すると、恰も、御用だ/\! と叫ぶ取り手の如くに、掛けたが最後がんぢがらめにせずんば止めぬ妄執をもつて挑みかゝつた。鎧の兵士は見るも鋭い槍の先をもつてこゝを先途と突きまくつてゐた。その槍の先は、ともすればねらひが脱れて、敵の逞ましい脚部の間を滑つて空を突いた。その間に繰り出さるゝ捕縄は無限に伸び来つて、あはや槍兵の身は翅もなく脚もなく徒らに空を突く憐れな槍の先の活動を残したまゝに身動きもならぬ最後に立ち至つたかの観であつた。
勇気は恐怖の中で培養さるべきだ。然して吾等は恐怖の情を涵養すべく屡々絶望の谷をのぞくべきである――俺はそんなことを呟いた。――それは左うと僕は、この大格闘の態は撮影すべきだ! と気付いて、ふところからカメラを取り出して、焦点を合せることのみに必死となつた。だが、もう息の根が止るかと見えるベツコウバチの力は容易に尽きる気合ひもなく、またもや翅に鞭を加へたかと見ると脚の自由を奮ひ返して、巨大な怪物の胸を滅茶苦茶に引つ掻いた。
可成り沈着な態度に据つてゐるつもりなのだが、僕の腕の先は滑稽な位ゐ激しく震へてゐて、断じてシヤツタアを切ることが適はなかつた。いつか僕の体はさかさまに水ふちにのめり、肘の先に触れる流れの冷たさを感じ、麦藁帽子が転落してふわふわと流れてゐたが、僕は草葉の蔭の大格闘にのみ全力を挙げてレンズを合せようと眼を据ゑ込んでゐるのだが――何故かまた眼が据はれば据るほど、度胸! とでも云はうか、それがさつぱり据らないで、写真器を構へる手の先はアル中の如くふるへるばかりなのである。――おゝ、その間に二個の格闘体は(確と観察は出来なかつたが、遂ひにベツコウバチの突き出した槍の先が、アシナガグモの団子のやうな腹部に命中したらしかつた。)歯朶の葉の上から真つさかさまに地上に転落した。
「アツ!」
と僕は思はず後悔の叫びを挙げた。ところが、ハチを胸のうちに深く抱き込んだクモの脚は急激な痛手で一挙に内に向つてかぢかんだために、敵を抱いたまゝ、丸く凝固して、悶絶したので、地に落ちるといつしよに脚場もなくころころと急斜面である歯朶類の「大森林」の中を転げて、あはやといふ予猶もなく、水の上を目がけてもんどりを打つたのである。