一
彼の昨日の今日である、樽野の――。
今朝はまた昨日にも増した麗かな日和で、長閑で、あんなに遥かの沖合を走つてゐる漁船の快い発動機の音までが斯んなに円かに手にとるかのやうに聞えるほどの、明るい凪は珍らしい。だから云ふまでもなく、海原は青鏡で、ただ、波を蹴たてて滑つて行く舟の舳先で砕ける飛沫が鮮やかに白く光るより他に目を射るものもないのだ。――樽野は、醒めきらない微かな眠さが反つて快かつた。
心忙しい筈の樽野は、眠気を醒すつもりであるかのやうに大股で道を急いでゐるのだつたが、もう少し歩を速めるか(それはもう駈足になる。)伴れを探して、酒にでも酔つた時のやうな饒舌家にでもならないと、何か斯う目に見えぬものに対して気まりが悪過ぎるとでもいふ風な心地だつた。
樽野は晴れた日だけを朝起きして、半年前までは皆で住んでゐたのだが今は彼の書斎だけが残つてゐるN村の家へ出かけるのだつた。――競売にされるといふ話を聞いて、吃驚りして逃げ出したのだつたが、また当分はそんな話も有耶無耶になつたと見へて、其処の門柱には彼の知らぬ間に、彼の名前の誌された新しい表札が出てゐた。現在住んでゐる町はづれの傾きかかつて彼方此方に支柱がかつてある家には、樽野の部屋がなかつたし、加けに、いろいろな悲しい事情を持つて東京からその身を寄せて来た妻の兄妹達が居た。悲しい、困つた境遇に追ひつめられた彼等であるから樽野は屹度、溜息でもつきながら静かに引き籠つてでもゐることだらう、可哀想なことだが――と思つたのだつたが、好いあんばいに彼等の元気好さと云つたらない、決して事に屈托を持たぬ朗らかな楽天家ぞろひだつた。
彼の妻は彼等のことを、少々体が弱いので転地傍々の保養に来てゐるのだ、と吹聴してゐるが、おそらく誰の目にも彼等が病弱な身であるとは映るまい。此頃、もう余程前から樽野家の酒樽は空になつたまゝで、酒を口にしない主は、自分ながら不気味な程悪おとなしくて彼こそ体でも悪くて引き籠つてゐる者のやうでさへあつた。何んなに家の中が騒々しくても決してその騒音の中に樽野の声が混ることはなかつた。
――兄妹達は、人に好かれる質だと見へて遥々と会ひに来る友達が何時も絶えなかつた。いつもズボンのポケツトに両手を入れたままで、その微かな身振りで、歩いてゐる時も、談笑してゐる時も、頭の中ではダンスのことばかり考へてゐるに違ひないことが誰の目にも窺はれる二十二三歳の伊達者、稍ともすれば流行歌を口にして一句毎に「……てえんだらう」といふ呟きが口癖の何々フアン、とかいふ仇名の青年、これはまた酷く気軽で拭掃除でも、常に飯盒で飯を炊いてゐるこの家の飯焚きでも進んで引きうけ、そして食物のうまいまづいを決して云はない水泳選手だといふ学生、口だけは怖ろしく達者だが稍低脳であるらしい高慢鼻の二十歳の妹に恋してゐるといふギタアを携へて来た憂鬱気な洋画青年……次々に左様な人達が、滞在したが、樽野と口を利いた者は殆どなかつた。顔を合せれば何となく微笑を浮べるが、酒を口にしない樽野は真に在れども無きが如き存在だつた。
勿論、樽野は滞在者のあるなしに関はらず、行ける間はN村の家を使はずには居られなかつた。浜辺を廻つたり、田圃を寄切つたり、滑り易い坂を降つたりして、それからまた十銭の切符だが汽車にも乗る程の遠さだつたから、雨だと樽野は必ずN村行きを休むのであつた。
昨日も好い天気だから出掛けたのであるが、途中で、海辺の宿にゐる大酒飲みの義父につかまつて夜になつてしまひ、頭だけが厭に白々しい怪し気な足どりで引き返したのだつた。帰りついた時分にはすつかり醒めてしまつた上に、眠らうとするとギターの青年が何時までも憂鬱気な曲を奏でながら恋人の気嫌をとつてゐるのが耳について樽野は一層眠れなかつたのだ。
いつそ独りで朝から飲み直しをして眠らうかと思つたのであるが、一寸考へた後に彼は思ひ直して、故意に颯爽として、N村を目的に綺麗な海辺へ飛び出して来たのだつたが、二日酔ともつかない胸苦しさが蟠つてゐてならなかつた。
半ば駆けるやうな速さで渚ちかくを進んで行くと、先の方で、今や出帆の準備で勇みたつてゐる小舟が、友達の鴎丸だつたので、
「お早う、鴎丸!」と樽野は、こゝぞと云はんばかりの号令のやうな大声を挙げて、帽子を振つた。浜の人々は、浪の音に逆つて、生れながらに喧嘩をしてゐるかのやうな喚き合ひの会話を取り交すのが習慣だが、今朝はあのやうに静かな浜辺だつたから樽野の筒抜けた声が帰船の合図に吹き鳴らされる法螺貝の音のやうに響いた。
樽野はそんな自分の声にたぢろいだが、恰度この朝に、今後以何なる場合でも雄弁を旨としよう、酒を口にすることなしに――といふ厳しい掟を定めてから、最初に出遇つた鴎丸だつたので妙に胸が鳴り、勢ひをつけて言葉を続けるのであつた。
「今日は、あまり好い天気だから僕を途中まで送つておいでと命じたのに、吾家の宵張りの連中は誰一人寝言でさへも返答しないよ、僕は飯も喰はずに出かけて来たので途中で君の家に寄つてパンを一片とビールを一本と……」
「鯵があつたらう、今朝の――」
鴎丸に寄つたのは事実だつたが、途中まで送つておいで! とか、命じた! などゝいふのは樽野の空想だつた。妻か、妻の妹にでも送らせて来れば、部屋の窓を細目にあけて、好天気ならば必ず通るに違ひない樽野の来かゝるのを窺つてゐるあの親父に若しやつかまつても、云ひ逃れの代弁はして呉れるだらうが! と思つたのであるが、彼女等の気嫌を慮つて口には出さなかつたのである。あの頭頂部が台のやうに平たく頤にかけて三角的につぼんでゐる栗のやうに小さい顔の親父が喋舌り出したら堪らない、半ばまでは親父の言葉の意味は解らないのである、猛烈に勢ひの滑らかな彼特殊な東北弁で、樽野は三十分も対談してゐると、此方の頭が鑵になつて、無闇に叩かれてゐるだけのやうなカーツとした気分になつて全く意味のない騒音の中に昏倒しさうになるのであつた。そして樽野は何も彼も意味が解らぬまゝでボツとして、一切力量もない癖につまらぬことを引きうけたことになつたりしてしまふのであつた。彼は、あの親父の業々な漁色癖と、山国育ちの無抵抗的な悪度胸と、非人情性とに義憤を持ち続けてゐるのであつた。若し会つたら今後こそは此方こそ思惑通りの饒舌家に変つて、向方が油蝉なら此方はクツワ虫の勢ひで攻め寄せてやらう、などゝ決心した。
「何といふ好い天気だらうね、秋だか春だか、夏だか、解らないぢやないか。」樽野は浜人を真似た怒鳴るやうな声で鴎丸に呼びかけるのであつた。彼は秘かに声量の試験をしてゐるかのやうな力を奮つた。
「おゝ、俺達もこれで漸く吻つとしたわけだよ。」と鴎丸は滑らかに鳴り返した。樽野も気分だけは吻つとしたが、何故か一散にN村まで行き着き損ひさうな焦立ちをもつてゐた。――だが、まあ、これ位ひの大声で、怒鳴つてゐれば、何も彼も吹き飛んでしまつて清々としよう、焦立ちも気分もあつたものぢやない――
「昨日の天気でも、折角出かけたんだが僕はついやり損つてしまつたんだが、君の方は何うだつたア?」
「米代だけはとれたアよウ、あれでよウ、昨日今日とあと二日も雨が続いたら俺も、いよいよ釜を質屋へ持つて行かなければならなかつたところだつたよウ――」
「おお、おととひは雨だつたなア!」樽野は思はず不思議さうに空を見あげて、水々しい空気を呑んだ。
雨ならば樽野のN村行と同じやうに休みの鴎丸(日野)達なのであるが、此頃は雨の日には樽野が彼をその家に誘ふことが多かつた。樽野の家だと、鴎丸の波に慣れた音声が割れ鐘のやうで、それに伴れて酔ふ樽野の音声も五体に不釣合に高まり、恰で聾者同志が相会したやうだと云つて笑ふ者があつて鴎丸がテレたのと、酒樽が空続きであつたからとである。鴎丸は小学、中学からの樽野の同級生で、帝国水産学校を恋のために中途で止めて以来はその美しい細君ひとりに留守をさせて、己れは伝来の鴎丸の舵を専念に操つてゐるのである。
一帯にここらあたりの海は波が荒くて、今朝のやうな静けさは数える程もないのだ。だから、ここの海辺で働く人達の言葉は背中合せの町の人達とさへ恰で違つて、何よりも特異なのは語調の抑揚が夥しく緩漫であるのに引きかへて、音声は悉く絶叫のかたちなのである。思想もそれに準じてゐたからこの一廓では一切のたくらみごとが計られることはなく、そして名誉心や不平心や貯蓄心を持つ者がなく、天に向つては屡々不平の舌打ちをするが、政ごとに対して不満を持つ者はなかつた。あの持前の大声では秘密の相談や近隣の悪評などは試みたくも、つかみ合の喧嘩で叫ぶより他には喉が許すまい。彼等同志で、今宵はひとつ遊廓へ繰り込まうではないか? といふ類ひの相談をしてゐるのでも蔭で聞いてゐてさへメガホンを執つて呼ばれてゐる声の如く空太く響き渡り、賛同の返事などは虎が吠えるかのやうに物凄いのだ。
彼等は云ひたいことを堪えるといふ必要もなかつた。思つたこと感じたことは何時もその場その場で喧嘩のやうに口外してしまふのである。彼等は悉く稍風変りな多弁家だが、ボケブユラリに貧しい代りに、瞬時々々に口をついて出る擬物的の形容語を発する才に長けてゐた。――一度彼等と相会すると屹度樽野の喉は翌朝、かすれるか潰れるのが慣ひだつた。
樽野は鴎丸の漁屋で、雨の日には夫々天に向つて舌を鳴らしながら酒宴を催しに集つて来る老若の、七郎丸、大々丸、鱗丸、三郎兵衛丸、潮吹丸、づくにゆう丸、鯖子丸、般若丸、サイトウ丸、源太郎兵衛丸などといふ連中と相知つたが、その酒宴の騒々しいことと云つたら素晴しい! こん畜生奴! とか、間抜け面! とか、ぶんなぐるぞウ! などと、叫ばれる罵声が主なので、余程注意して判別しないと、それで彼等は相互ひに親しみを抱いて愉快に仕事の話を取り換してゐるのだ! といふことは解らない。
「おととひは失敬したね。」鴎丸は、舳先におしたてた公園の瓦斯灯のやうに巨大な新しい誘魚灯の手入れをしながら、あの日に、あまりの永雨で気をくさらせてゐる連中が誰を憎むといふわけでもなしに(つまり天を憾んで――)あられもない大立廻りの喧嘩が始まり、樽野が奇妙な仲裁役になつてしまつたことを云ふのであつた。「あれぢや、驚いたらう! つまり誰も彼も翌日が若し雨だつたら? といふことを考へると、怖ろし過ぎて、ひとりでに興奮したわけなんだよ。あゝして、互ひに、意地悪る野郎! 大馬鹿奴! などと怒鳴り合つて、果てはり合ひだ、拳固が飛ぶ、あれから君、七郎丸は鼻柱を衝かれて目を廻はし、鯖子丸は頬つぺたを喰ひつかれて泣き出す騒ぎさ、だけど君、あれが皆々相手に憾みがあつての争ひぢやないんだからね、癪に触つてゐるのは天の黒雲なんだが、もう我慢が出来なくなつて最も手近かに居る生物に向つて鬱憤の拳を振ふわけなんだから、馬鹿々々しい話さ。現に潮吹丸が沁々と述懐してゐたが、あゝした日にあゝした酒盛りを続けて、あんな風に酔つてくると、実際に、其処に集つてゐるドテラを着たり祝着の古を羽織つたりしてゐる連中が、人間に化けてゐる黒雲の子分のやうに見えて来るんだつてさ。一寸斯う雨を降らせてやつたゞけで彼等の弱り具合は何うだ、好い態だ、その間に俺達はゆつくりと酒でも楽しまうぢやないか……そんな太平楽を並べながら悦に入つてゐる雲奴に見えて来る! といふんだから堪らない、そして自分ひとりがクヨクヨとした陰気な心を持つた人間であるかのやうな得体の知れないひがみが起つて来て、何かのハズミにカツ! と疳癪玉が破裂すると、この雲奴! がとばかりに逆上していきなり相手の胸倉に飛びついてしまふといふんだ、飛びかゝつて見ると案外手応へのある雲奴だ! そこで大格闘だ! ――皆な皆、夫々同じ人の心で悪雲退治のチヤムピオンになつてゐるんだから、必死のわけさ。潮吹丸は、もつと手短かな言葉で説明したが、――見方に依れば人間の顔なんて誰のでも種々様々に、雲奴の子分に似てゐるぢやないか! だつてさ――」