一
ふつと、軽い夢が消えると、窓先を白い花が散つてゐた。何かにギクリと悸された鼓動の余韻が、同じやうに静かに、心から散つて行くのを、私は感じた。
「桜の花だつたか。」、私はさう思つた。
ガジガジと、インク壺の中へペン先を突き込む音がする、慌しく「ノート」の頁をめくる音がする。
「……即ち、ヘラクライトスは常住の実体を根底より否定し、世界の真相は生成を以てなさるべきものとなしたる為に、クセノフアネースの思想を継いだエレア学派との激しい論争を醸すに至つたのであるが、飽くまでも万物流転の説に立脚して……」
重い抑揚のあるH教授の声量が、快く私の鼓膜を打つた。同時に私の注意が教授の言葉に注がれようとした時、突然に、今迄蛙のやうにペつたりとテーブルにへばりついてゐた無数の頭が、ニヨキニヨキと浮動し始めた。教室全体が大きな吐息を一つ衝いて、さうして喧ましい咳払ひや、テーブルの下で蠢く下駄や靴の音が雑然として鳴り初めたので、未だH教授は口を動かせてゐるらしく見へたが、末席に腰掛けてゐる私の耳には、もうその声は伝はらなかつた。
講義が、一区切り終つたところだつたのである。H教授は、これから、この時間の題目であるところのヘラクライトスの「ロゴス」に就いての講義に取り掛る前の一段落を済したところだつた。
ハンカチーフで、顔を拭いてゐる者もあつた。聴き洩したところを傍の者に訊ねて、大急ぎで書き加へてゐる者もあつた。書きかけた「ノート」を黙読して、訂正を施したり、吸取紙でおさへてゐる者もあつた。
「流転のこう常の、こうといふ字はどう書くんだ。」
私の前に居る男が、その隣りの者にそんなことを囁いてゐた。問はれた方の男は、持つてゐたペンを置くと懐中から鉛筆を取り出して「ノート」の上の方に「恒常」と書いた。
「うん、さうかさうか。」
「こんな字を知らんのか、馬鹿な野郎ぢやな。」
さう云ひながら鉛筆を倒にして、ゴシゴシとその字を消してゐた。
私の「ノート」は、拡げてはあつたが一行も汚れてゐなかつた。H教授の時間は、出来るだけ熱心に傍聴する筈だつたのだが――と、私は思つた。
間もなく、教授は椅子から立ちあがつて、静かな咳私ひをした。さうすると、凡ての頭は一勢に机の上に打ち伏した。さうして、今や突撃の号令の掛るのを待つてゐる兵隊のやうに、ペン先を擬すと、部屋中の空気は、ひとつになつて息を殺してゐた。
徐ろに、教授の微音が唇から洩れ初めると、待ち構へてゐた無数のペン先は、機織機械のやうにサラサラと活動し初めた。
私は、背筋を延して、眼ばたきもしないで、ぼんやりとH教授の顔を眺めてゐた。――一脚に三四人座れる程のベンチであるが、前へ前へと詰め寄せて掛けてゐるので、一番終りの列には、私がたつた独り腰掛けてゐるばかりだつた。私の眼の前は、平坦な西瓜畑のやうなもので、ひとつの頭もはみ出てゐなかつたから、さうしてゐると教壇までがすつかりと見透されるのだつた。
H教授の視線が、ふいと私の顔の上に止つたかのやうに見へたが、私は、
「まさか……」といふ気がしたので、なほもその儘凝と眼を視張つてゐた。私の頭は、何かとりとめのない夢でも追つてゐるかのやうに、無暗と軽いばかりだつた。頭の中心が、微風に靡いて微かに浮遊してゐるやうな心持だつた。「火の根本原理」「流転の恒常」「神の摂理」と、そんな言葉が、止絶れ止絶れに脳裡をかすめたかと思ふ間もなく、直ぐに風のやうに後ろの方へ消へて行つて了つて、あとは一瞬時前と同様茫漠とした白い幻がフワフワと漂ふてゐるばかりで、H教授のおだやかな声が帷の彼方で、私の愚かな夢の伴奏であるかのやうに微かに聞へてゐる。
暫くの間、私はそんな姿勢で呆然としてゐたが、気の為か知らなかつたが、どうもH教授の眼が、責めるやうに此方に注がれるやうな気がしてならなかつたので、私は仕方がなく前の者の背中の影に首を垂らしたのだつた。で、私も少しでも筆記しやうかと思つて、ペンを執つたが、折角の講義の印象が一行も文字となつては残つてゐなかつた。
「何といふ馬鹿気た頭だらう。」私はさう思ふと、妙な焦燥を覚へながら、コツコツと額を叩いてゐた。
「叱ツ!」
前の方で、そんな声がした。
いつか私のペン先は「ノート」の上に、丸を描いたり、三角形の連続を描いたり、ピラミツトを描いてそれに丹念な影をつけたりしてゐた。
「おい! おい! 何してゐるんだい? 馬鹿だな!」
さう云つて、私の腿を突いた者があつたので、私は驚いて首を挙げた。
「此奴、居眠りばかりしてゐやアがるな! 俺、さつきから向方で眺めてゐたんだが、君の居眠りが気になつて堪らないんだ………」
いつの間に来たものか気付かなかつたが、私の傍に来て座つてゐる山村が、憤つたやうな口調で囁いたのだつた。
「出ようか?」と私は云つた。
「まア待てよ、もう少し落着いて聴かうよ。今日のところは非常に面白いんだぜ。」
「ともかく出よう。」
「失敬な奴だな。」と云つて山村は「ノート」を伏せた。「ぢや、行かうよ。」
私達の直ぐ右手が扉だつた。私は、講義の途中で往々凝としてゐられなくなるやうな我儘な発作に備へる為に、大概の場合はこの席を選んで置くのだつた。――そこで、私は教授が黒板に向つたところを見定めて、ソツと扉を忍び出た。私は、廊下の隅にたゞずむで山村の来るのを待つてゐたが、硝子窓から覗いて見ると、H教授は正面を向いて滔々と講義を続けてゐるので、其処にうろついてゐるのも具合が悪くなつたので、校庭の芝生に行つて待たうと思ひながら、靴音を忍ばせて階段を降りて行つた。
芝生には、あちこちに寝転んだり、円くなつて雑談に耽つたりしてゐる学生達が、群がつてゐた。私は、其処に胡座をかいて、たつた今自分が出て来た二階の教室の窓を見あげてゐた。
空は、一点の曇もなく蒼々と晴れ渡つて、やはらかな春の陽の光りが、万遍なく地上のものと溶け合つてゐた。
山村は、容易に来さうもなかつた。私は堪らなくなつて立ちあがると、
「チヨツ!」と、舌を鳴して、歩き出した。――照子の家へ行つて見ようか? それともこの儘ずつと叔父の家へ帰つて了はうか? などゝいふことを考へながら、
「どつちを選ぶだらうか?」と、心に易を立てるやうな気持で、のろのろと学校の門を出て行つた。毎朝、新聞の九星で自分の運勢を見るのが癖だつたが、その日はどうしたものか見るのを忘れてゐたのに気附いた。で、私は早速校門のところで、三枚ばかり新聞を買つた。
五黄は、どの新聞を見ても皆な駄目だつた。諸事控へ目にすべし、とか、金談縁談凶などゝいふものばかりだつた。いつでも私は、好くない運勢の時は、そんなものは軽蔑して顧みないことにした。こんなもので、それ位ひ気を腐らす私だつたから、この時も妙に心が迷つてならなかつた。
私は、直ぐ近所にある山村の下宿の栄進館へ行くことに決めた。そこは帳場とも女中達とも墾意だつたから、独りで山村の部屋へ入つてゐても差支へなかつた。
私は、座蒲団を四ツ折りにして、それを枕にして天井を眺めてゐた。――天井に、巻煙草の吸口が五つ六つ投げつけられたまゝに、くつ付いてゐた。――今迄一度も、そんなものに気が付かなかつたが……と私は思つた。
「退屈な余りに、山村がこんないたづらをしたのかしら?」
さう思ふと、私は可笑しくてならなかつた。――が、私は、煙草を途中まで喫ふと、火を揉み消して、紙の一端を切り開いて、唾で濡らして――垂直に指先で撮むと、勢ひよく天井を眼がけて投げ付けた。
私は、いつの間にか一生懸命になつて、何度も何度も繰り反して、その吸口を投げ付けて見たが、一つとしてうまくは止まらなかつた。
「やつぱり今日は悪い日なのかしら!」
そんな気さへ起つたのだつた。然し私は、尚も切りにポンポンと試みてゐた。たつた一つでいゝからうまく止めたいものだ、と思つた。――「どうしてもうまく行かなければ、踏み台をして天井に貼り付けてやらうか知ら?」などゝいふことさへ考へてゐた。そんなことを思ひながら、工夫を凝すやうなつもりで天井を視詰めてゐるところに、山村が帰つて来たので、私は起きあがつて胡座をかいた。
「H――さんの講義は実に面白い。到々終ひまで聞いてしまつた。」
「何だ、失敬な! 僕はまた、逃げ出す機会がなくつて君がジリジリしてゐるんぢやないか? と思つて、可成り骨を折つて待つてゐたのに……」
私は、さう云つたものゝ、もう少し遅く山村が帰つてくればよかつたのに――といふ気がしてゐた。私の心は未だ大方「煙草の吸ひ口」の方に未練を持つてゐた。
「暫く顔を見せなかつたぢやないか? 一体何してゐたんだ?」
「僕か?」と、私は今更らしく呟いた。何気なく云つた言葉で、案外にも私が居住ひを直したやうな格構をしたので山村は、また何か煩い事件でも引き起したのか? と云はんばかりに不安さうな眼を挙げて、私の顔を見守つた。
「遂に病気になつてしまつたよ。」私は、顔を顰めて、わざと戯けるやうな調子で云つた。
「えツ! ほんとか?」
「すつかり参つてしまつた。」私は、なるべく大胆らしく装ひたかつたが、自分の全身はすつかり汚れて仕舞つたんだといふ弱い心が一杯に胸に張り詰めてゐた。
「さうか。」山村は、こゝでどんな友情を示したらいゝか? といふことを考へてゐる者のやうに黙つた。
「然し、こんなもの直ぐに治るだらう?」
「そりア、治すことはわけはないが――」
私と仝じ「悪い病気」には、山村の方がずつと先に罹つてゐたのである。
「つまり此間のところが――無論、原因なんだらう?」と、山村は続けた。
私は、この二ヶ月ばかり前に初めて山村と一処に、或る場末の遊里へ行つたのだつた。山村は責任を感じて、その後も決して私を誘ふようなことはなかつたが、十日ばかり前、私は大変興奮して、山村に取り縋らんばかりにして漸く二度目を伴れて行つて貰つたのだつた。
「叔母の家は、何とかごまかして、当分深川の叔父の処へ行つてゐることにしたよ。何しろあの照子ツて奴ね、彼奴にでも見つかると煩いからね。」
「あゝ、あの君の従姉か――さうだらう、あの人に見つかつたら弱るね。」
「全く彼奴と来たら煩い奴だよ。無暗に変な虚栄心ばかり強くつて――僕は此頃思つたばかりでもゾツとするぜ。」
私が、つい言葉を荒くしたので、山村は一寸具合が悪さうな顔をした。
「未だ嫁には行かないのか?」
こんな場合に照子の攻撃をしたつて始まらない、とは思ひながらも、
「早く嫁にでも行つて了ふと、ほんとに清々するんだが――おそらく、貰ひ手なんてあるまいよ。彼奴は、つい此間まで帝大の学生とかといふ男があつたらしいんだ。先達ても十日ばかり田舎へ行つてゐたら、近所ではお産に行つたなんて噂をしてゐるんだつて――尤もそれは噂に過ぎなかつたんだが。」などゝ幾らでも口が滑りさうになるのだつた。
「君は、また莫迦に仲が悪いんだね。始終一処に居るとお互ひにアラばかしが見へて、そんな風になるものさ。――ところで君、病気の方はどうする?」
「叔父の家が医者だから、助手の奴にお世辞をつかつて内緒で治して貰はうか、とも思つてゐるんだ。」
「そんなことが出来るか?」
「…………」
私は、山村から薬のことや、食物のことなど細い注意を教はつて、それだけさへ守つてゐれば兎に角治ると云はれたので、それ位いのことならば堅く守らうと決心して、幾分か安心した。
山村と一処に栄進館を出たのは、もう夕暮れ近い頃だつた。
「歩くことは最も好くないんだから、そいつは好く気を附けなければいけないぜ。」
「さうらしいね。今でも何となく大儀だよ、僕の歩き方は少し妙だらう。」
そんなことを話し合ひながら二人りは、運動場を横切つてゐた。運動場では、未だ大勢の学生が汗みどろになつて盛んに運動の練習をしてゐた。虎斑のシヤツを着てまくわ瓜のやうなフツトボールを蹴つてゐる一群もあつた。たつた独りで運動場の周囲を夢中になつて駆けてゐる者もあつた。おそろしく長い竿を持つてスルスルと飛びあがつてゐる者もあつた。向ふの隅では、これもたつた独りで丘のスロープの上に立上つて、大声を張り挙げて切りに何か怒鳴つてゐる者もあつた。
「こんなに歩いても差支へないだらうか。」
「無論よくはないが、あれ位ひ静かに歩いて来たんだから大したことはないさ。」
私達は、いつの間にか神楽坂迄歩いて来て了つた。露店の商人が、そろそろ荷物を拡げてゐた。私達は「お敬ちやん」といふ看板娘の居る小さな洋食屋へ入つて、ビールを飲んだ。私は怖る怖るコツプを口もとへ当てがつて、そつと甜める真似をしてゐた。