一
哄笑の声が一勢に挙つたかと思ふと、罵り合ひが始まつてゐる――鳥のやうな声で絶叫する者がある、女の悲鳴が耳をつんざくばかりに聞えたかと思ふと、男の楽し気な合唱が始まつてゐる――殴れ! とか、つまみ出してしまへ! とか、そんな凄まじい声がして、
「あゝ、痛いツ!」
「御免だ……」
「救けて呉れ!」
そんな悲鳴が挙つたりするので、これは容易ならぬ事件が起つたのか! と思つて誰しもちよいと立止つて様子を窺つたが、同時に軽い苦笑を浮べて行き過ぎてしまふのであつた。
哄笑する、罵倒する、絶叫する! ――が、いづれも遊興の渦巻なのである。――だから、恰も喧嘩のやうな騒ぎに驚いて、ちよいと立ち止つて見ると、そんな騒ぎを他所に、卓子から卓子へ愛嬌を振り撒いてゐる踊り子のタンバリンの鈴の音も聞えるし、陰気な街上詩人が物思ひに耽りながら弾いてゐるらしいギターの眠む気な音も聞える。
酔つ払ひ共が、ふざけ散らしてゐる騒ぎなのだ。
それにしても、不思議な騒がしさを持ち続けてゐる酒場である。朝も昼も真夜中も差別がない。
「おい/\、イダーリアの親爺さん、そんなふくれツ面ばかりを売物にしないで稀には俺達と一処になつて下院議員の改善策でも謀らないかね。」
「あの親爺にそんな気の利いた策略なんて――これはどうも失礼、気の利いた策略、大いにあり、吾々のとは大分趣きが違ふといふ奴さ……」
片々だから解りもしないが、そんな風に他人を嘲弄してゐる見たいな会話が、厭に面白さうに聞えもした。
「親爺の Day-dream が、いざ実現したあかつきには吾々は斯うした地上の法悦を味ふことが出来なくなるかも知れないね。」
「ともかく、彼奴は、有り難い筈の吾々客人に対して、永遠の呪ひ! を持つてゐるといふんだから凄まぢいものだな。」
「Hurrah! Hurrah! 吾等に呪ひを持つイデーリア親爺に祝福あれ!」
「吾等の Day-dreamer が、吾等に対して、第二の反逆を発表したら――」
「いや、吾々がそれを発見して……」
「そいつを一番逆用して俺達の祝祭上のロマノオルム(行事)に加へて、吾等の市の栄ゆる日の限り……」
「叱ツ! 叱ツ! イダーリアのドングリ眼が真に憾めしさうに光つたぞ!」
「サタンよ、そこを退け! とでも呟いてゐるらしいぜ。」
……「踊れ、踊れ! シツダル、生れ故郷のことなんか思ひ出してぼんやりしてゐると、酒の売れ行きに関はるぞ!」
「シツダルは、フローレンスから来てゐる若い学生と好い仲だといふ噂を俺は聞いたが、ほんとうか知ら!」
「シツダル、白状しないと拷問にかけるぞ。」
「その噂は案外ほんとうかも知れないぜ。あの娘が此頃ランプ祭の恋歌を歌ふ時の眼つきに諸君よ、注意して見給へ!」
「ロールツヒとかといふビユウカナン一派のへつぽこ詩人などが作つた恋歌をシツダルに歌はせるのは勿体ないね。」
「大きく出やがつたな、半円劇場の木戸番奴! もう一辺云つて見ろ、シツダルのためにランプ祭の恋歌を作つたロールツヒが此処にゐるのが解らないのか!」
「わざと云つたのだ。貴様は昨日の晩方、ペトラルカの銅像の下で、ロセツチの(夜の会見)に就いて、仇敵を罵るかのやうな態度で罵倒演説を試みてゐたらう。その癖貴様は、聴衆が去つてしまふのを見定めると、ペトラルカの台石に取り縋つてロセツチの歌の埋没個所を教へて呉れと云つて涙を流したぢやないか。ランプ祭の恋歌は、(夜の会見)の草稿から盗んだ……」
一人の男が、此処まで云ひかけると、阿修羅のやうな姿で立ちあがつてゐたロールツヒとかと称ばれた男は、電気に打たれたかのやうにキヤツ! といふ悲鳴を挙げると一緒に、酒場を飛び出すと、灰色のチユニツクの裾を翼のやうに翻へしながら雲を霞と街の彼方へ逃亡した。哄笑が起つた。
「あの詩人は何処の産だらう。未だこの市の様子を知らない旅人らしいね。」
「シツダルの気嫌をとるためにフローレンス生れの抒情詩人だと自称してゐるさうだが、実はつい此頃、ピザの郊外から流れ込んで来た無頼漢だといふ話だぜ。」
「黄金の破片さへ与へればプラトンの弾劾論文でも、キニツク派の礼讚演説でも……自由にやつてのけられるといふ滑達な手腕を持つた議員改善会に新しく雇はれた弁士だといふ説もある。」
「イダーリアのおぢさん、あんまり思案に余つたらロールツヒ先生と相談して……」
「ブラボー! ――シツダル、歌つて呉れ、お前が歌へばロールツヒ先生の作歌であらうと、ホーマーの恋歌であらうと、何の見境へもなく、俺達一同は五月の朝風に撫でられる孔雀歯朶のやうにうつとりとしてしまふよ。」
兎も角、世にも不思議な間断なき騒ぎを含んだ街角の一軒の酒場である。
――往来に面した大理石の棚に、恰度一抱へほどの大きさのある肥つた壺が六つ七つ二段になつて並んでゐる。その間々には稍小さな同じやうな形ちの壺が配してある。
そして、それらの壺の幾つかには夫々色の異る薔薇や鬼薊の花束とか、橄欖やシトロンの杖が盛られてゐるところを見ると、一見花屋の店先か知ら? とも思はれるが、近寄て好く好く眼を凝して見ると、何の壺にも様々な酒の名前が刻んであるのだ。いづれも酒壺なのである。
「イダーリアの灌奠祭」
「フアテイアの夢」
「エロスの賜物」
「ブランブシウムの花鬘」
「…………」
だが、壺の脇腹に花文字で誌してある斯んな文字を読んだゞけでは、見知らぬ者にはそれが酒であるか何うかは解らなかつたが花文字の傍らに小さく誌してある文字を注意して見ると、ヴエネト産、シラキウス産、ロンバルデイ産などといふやうな醸造地名が見出されるので、それらがおそらくキヤンテイ、マルサラ、ベルモ酒などの類ひの商標名であるのが解るのだつた。
その他には、
「野獣の血潮」
「Burning Knight」
「バツカスの王冠」
「ネロの盃」
「キング・オヴ・キングス」
「南方の魔術師」――などゝいふやうな印の壺が並んでゐるが、斯んな風な烈しい名称から想像すると、おそらく火酒系の酒に飾つたニツク・ネームに違ひなからう。
何処の国の、何時の時代のことか知らないが――古い、夢のやうに壮麗な都市の裏町にあるイダーリアといふ小さな憂鬱気な構えの酒場の店先きである。
本来は「ブルウカノ・タバン」といふのがこの店の名前だつたが、酒注台の背後の壁に恭々しく祭つてあるバツカスとイダーリアの肖像画で、イダーリアの容貌が何処とはなしに此処の酒場の親爺に似てゐる! と云ひ出した者があつて、或る物数奇な学生がその肖像画の作者を訪ねて秘かに事情を探つて見ると、次のやうなエピソードを発見したのである。
ブルウカノ親爺は、毎日毎日不遠慮な酒飲客に応対してゐるのが久しい前から沁々と情けなくなつてゐた。饒舌で、悪戯好きで、皮肉家ぞろひの通人連が寄り集まつて、他人の挙足をとつたり他人を不機嫌にさせたり、冗談らしさに事寄せて他人の弱点を発いたりして、面白がつてゐるかのやうな飲んだくれ連中に反感を持つてゐた。彼等から様々な冗談を云はれる度に彼は、自分に堪らない侮蔑を感じてならなかつた。何か彼等に仕返しがして見たくてならなかつた。
彼は、正面の壁に掲げられてあるバツカスの肖像画の下にイダーリアの肖像画を懸けることにした。洛陽の酒徒は酒場に足を踏み入れると、先づ第一にバツカスの肖像画(或ひはイダーリア)に向つて脱帽をした後に、酒卓に就くといふのが古来からの不文律なのであつた。――そこで、ブルウカノの親爺は、イダーリアの肖像画を注文する時に、秘かに画家に謀つて、自分に似せて描いて欲しい――と頼んだのである。
「あれは、イダーリアではなくつて俺の肖像画なのだ。」と彼は自ら深く点頭いてゐたのである。そして、傲慢な酒客達がイダーリアのつもりで「自分の――」肖像画に向つて敬意を払ふ様子を見物して、積り積つてゐる溜飲をさげようといふ魂胆だつたのである。
饒舌な学生が、親爺の斯んな皮肉な意趣返し法を発見して得意になつて酒場の常連に吹聴した時には、親爺は即座に店を畳んで逃亡すべき覚悟を持つたのだつたが、幸か不幸か、このことが返つて町の伊達者達の人気を呼んで、忽ち第一流の流行酒場になつたのだつた。そして、何時の間にか「タバン・イダーリア」といふ名称にさへなつてゐる酒場だつた。
酒場に入つて来る連中は、先づバツカスの額に向つて敬礼をした後に、イダーリアの肖像画に手を差しのべて、故意に恭々しく様々な祈りごとを捧げたりするのであつた。――その度に親爺は顔をあかくしなければならなかつた。親爺は、毎日/\酒壺の番をしながら、今度こそは決して見破られない仕返しを考へてやらうと思案してゐるのであつた。それをまた客達はあのやうに、吾等のデイ・ドリイマア! などゝ称んで、戯れるのであつた。
「おぢさん、今度は一番アピスの半身像か何かをその辺の棚にでも飾つて、あんまり俺達が、お前をからかひ過ぎて煩さくなつたら、蔭の方から、モウ、モウ! といふ具合に鳴る牛の声に似た笛でも鳴らして――皆さん、アピス神がお怒りになつたらしいですぞ、お静かに/\! とでもいふ風にしたら何んなもんだい? 笛が見つからなかつたら、お前さんが自分で唸るんだね、尚更利目は鮮やかだらうよ。」
「牛頭のアピス様に唸られたら、俺達はロールツヒ先生のやうに一目散に逃げ去らずには居られないだらうな。」
「何と云はれても黙々として酒ばかりを売つてゐる親爺の守り本尊は、おそらくアピスに違ひなからうぜ。」
「どうだい、おぢさん! この名案を三杯の灌奠酒で買ひとらないか。」
親爺が厭な顔をすればするほど意地悪な客達は、口々に盛んな弥次を飛ばした。