お春悲恋に哭いて自害する事
根岸の里を物さびしい夜闇が侵しはじめたころ、片里が住居を打立った三挺の駕籠があって、上野山下を飛ぶがごとく、切通しから湯島台へと上ってゆき、天神の辺り、見はらしの良い茶亭にはいりましたが、これが即ち片里をはじめ、露月、呉羽之介の連中でした。
家のものに迎えられて、広やかに物数寄な一間に通り座が定まった時、呉羽之介は仲居に向い、
「此れよ。先程使を遣わし置きしが、音羽へ迎えを出してくれたか」
「はいはい早速仰のままに、迎えの駕籠を差出しました。もう押付けお春どのもお見えになるところでございます」
「しからば此れなるお二方に、それまで酒肴のおもてなしを仕れ」
軈て盃盤が運ばれて三人は杯を挙げます。
片里はあたりを見廻して、
「吉原の豪奢の春の驕りもうれしいが、この物寂びた社の辺りの静かな茶屋も面白い。秋の遊蕩はとかくあまりケバケバしゅうないのがよい。のう、露月どの」
「そうじゃ。拙者などは陰気なせいか、賑わしい座の酒はうもうない。先日旅の路すがら、箱根を越して三島の近辺、とある山寺に一宿なし主僧と汲んだ般若湯などが、まず拙者が飲んだ酒の中での第一じゃ」
ところへ、仲居の案内につれてお春が現れ閾際でしとやかに平伏します。
紅燈の下にきらびやかなお春の姿を眺めるや片里は思わず感嘆しました。
「おお、あでやかあでやか。成程これでは呉羽之介どのが、心ぞ迷われたも無理はない。のう、露月どのそうは思われぬか」
「されば世にも美しい君じゃ」
呉羽之介は両人の口を揃えた讃詞に、我が身を讃えられたよりもよろこばしく、いそいそとしてお春に云うのでした。
「此れなるは我が兄とも頼みまいらす方々、さ、酌などいたしてまいらせえ」
「おそなわって相すみませぬ。いずれも様の御見に入り忝のう存じまする」
お春は三人の側に侍して、零れる愛嬌を見せ乍ら、華奢な手に瓶子を秉るのでした。
軈て片里はうっとりとお春の姿を眺め入り、
「のう、お春どのとやら、其方は大そう舞の上手でおいでじゃそうな。御苦労ながら、何ぞ一つ見せてたも」
「お恥しい鄙びし手振――なれど御所望賜いますれば、一さしお目を汚しましょう」
お春は静かに次の室へと退ったが暫しして、秋の空を思えとや、紫紺に金糸銀糸もて七艸を縫った舞衣を投げかけ金扇を翳して現われました。
下手に座して一礼し、さて立上って舞おうとするお春の姿を呉羽之介は夢見るように瞻め乍ら、とは言え二人の前もあれば、今夜は殊に美しく、巧みに舞うてくれればよいと口には出さねどひたすらに、心の中に念じています。
お春は楚々として艶然たる立姿を紅燈に照させながら、静かに唄い且つ舞うのでした。
賤の身なればいろには出さぬ、ただこころのうちにこがるる立よりむすぶ山の井のあかれずあかぬ中はな、松の二葉よ千年経るまで筆でかくとも絵にうつすとも更らにつきせじ松しまの波はうつらふ月の影しまの数シン知れぬ……。 唄を聴き、舞を眺めていた呉羽之介は、やがて苦しいような顔をして手にしていた盃を下に措き赤面を感じたように怯々と、二人の客を盗み見ました。すると二人の客は、初めのうちこそ熱心に耳を傾け目を欹だてているようであったが、しばしすると興醒めたような顔をして、気の毒そうに莨など吹しはじめました。
実にこの唄はまるで未熟なお稽古娘が口ずさんでいるようで、その舞は何の味いもなく、ただ覚えたままを辿って手足を動かしているにすぎぬように見えるのでした。呉羽之介には何が何やら訳が解らなかった――曩日、それもたった四日前あの明神の境内で、浄瑠璃姫に扮したときの、あの巧みさ神々しさ、見る人をして酔わせずには置かぬような芸の力は、今どこへ行ってしまったであろう……
たんだ人には馴れないものよ馴れての後はるるんるる身がだいじなるものはなるるが憂いほどにかついだ水がゆらゆらたぶつきこぼるるけなものをうつつな殿は都に……。 と舞納めて一礼したお春を眺めて、
「あでやかあでやか」と片里は言いました。
「見ごとな姿じゃ」と露月も言います。
けれどもその詞は唄を賞めたのでも舞を讃えたのでもない。ただ人形の美しさのお春の姿を讃賞したのである――呉羽之介にはそれがよく解かるのでした。そして二人の手前穴へもはいり度いのでした。自分の恋人が、こんな無芸な下流の女役者だということを、此の二人の師友はどんなに心の中で嘲り笑っているだろう――彼れはあの永劫を誓った恋が今一時に冷めてしまったのを感じました。
艶然として微笑みながら、舞衣姿のまま酌をしようとするお春を後目にかけて、呉羽之介は不機嫌に、震える声で言うのでした。
「さあ、そなたは次の室へ退って暫し休むがよかろうぞ」
不興気な呉羽之介の声音をきいて、お春は訝しそうに恋人の顔を眺めたが、然し何の疑いも抱かぬように大人しく座を立ちます。
「さようなれば皆々様、しばらく御免下さりませ」
後見送りもせず呉羽之介は、恥辱と怒りを包んだ声で、詑びるように二人に言いました。
「まことに申訳ありませぬ。あんな拙い芸とは気が付きませずわざわざ見に来ていただいて何とお詑してよろしいやら」
「いやいや舞は拙うても、あのような美しい女子なら、たとえ唖でも千里も通おう……」
片里は戯れ言にまぎらして、呉羽之介を慰めます。
呉羽之介は不愉快を、どうにかして振払おうとするように、
「ほんに拙い手振を見て、私も胸もちが悪うなりました。なんとぞして色直しの酒事でも……」
と考えて思い付いたように、傍の仲居を顧み、
「おう、そうそう。幸い隣の藤茶屋に名代の子供が出たとかいう。これからお二方を彼方へお連れ申し上げて下され……お二方さま、何やら私はこの席が急に厭わしゅうなりました。我ままついでに此の席を、直ぐに移して下さりませ」
「まあそのように不機嫌な顔せずとお春どのをま一度眺めて、此席で酒宴をつづけよう」
片里はなおも慰めて見ました。
けれども若気の一徹に呉羽之介は聴き入れません。
仕方がないので片里露月の両人は仲居に導かれて裏門通いに隣り茶屋へと出て行くことになりました。
「私はちと用事を落してまいりませば、一足お先にお出で下され」
呉羽之介は両人にそう断って、自分は一人後に残り、隣座敷に入って行きます。
どうやら首尾が悪いのに気がついて、しょんぼり一間に頭垂れていたお春は、はいって来た恋人を眺めつつ、はかなくにっこり微笑むのでした。
呉羽之介はにこりともせず、傍に突立ったままジロリながめて、
「お春どの。そなたは今宵はどうした訳じゃ――何という拙ない手振を見せたのじゃ」
と、お春はにわかに元気付いて却って自慢そうに邪気なく、
「私の舞や唄が拙なくなったのは当然でございます」
「なんということを言うぞ」
呉羽之介は睨め下して、
「私はもうそなたのような、拙ない業しか身に持たぬ、浅間しい娘は厭わしゅうなったじゃ。お春どのどうぞこれまでの縁をば此れきり諦めてしまって下され」
「あれ、何という人悪な」
お春は真に受けぬように、
「私の手振が拙なくなったのをば、若殿様あなたは賞めて下さるのが、順当なのでございまする」
呉羽之介は黙ったまま冷たくお春を眺めています。
「まあまあそんな恐ろしいお眼をしてお睨め遊ばさじと、お聴きなされて下さりませ」
お春は呉羽之介に擦り寄って、
「此れまで私の舞や唄に、美しさの巧みさとでも申すものがあったのは、私の心に恋がなかったゆえでござります。私だとてうら若い娘ごころの悩しさに、折ふし人恋しさに燃えながら、心に叶う男もないまま、ただひたすらに芸道にのみ想を浸し、語りものの中の男女の情けの戯れは、おのが想いをのみ込ませて、舞台の恋を真の恋と思い倣して居りましたゆえ、此れ迄の私の舞や唄には恋の歓び、恋の哀しみ、とりどりな真心が流れておりましたろう。それがひと度、その愛らしくお美しいあなたのお姿を見ましてからは、いままで男の代りに恋した、芸道舞曲の百年の恋も冷め果てて、人から言われれば言われるままに、唄うものの舞うものの、私の心はもう何の望みにも燃えもせず、胸の底には片時はなれず、あなたのお姿、お笑顔がちらついておるのでございます……若殿様、此のような心になりました私の、舞の乱れも唄の拙なさも、当然の事ではござりませぬか……」
「言わせて置けば理非もない……兎に角其方の美しさも、其方の芸が巧みであったればこそ、私の心を引いたのじゃ。辻に唄う盲女にも劣る芸しか持たぬ、其方には早要はない。それではこれでおさらばじゃ」
呉羽之介の真面目な怒にお春はようやく気がついて、気も狂わしく取縋り、
「若殿様、なぜに其麼情ないことを……」
「ええ、もう、其処放しゃれ! お蔭で兄とも師とも頼むお方の前で恥をかいたわ!」
と呉羽之介は荒々しくお春の手を振払って、既に部屋を出ようとします。
お春は今は蒼醒めて、
「すりゃ真当に私を、お捨てなさるのでござりまするか……」
「諄いわ!」
呉羽之介は未練気もなくこう言って、急いで部屋を立去りました。あとにお春はしばしが程は、悪夢を見ている人のようにただ茫乎としたまま坐っていたが、やがて前へと身を投げて、よよと哀しく哭き崩れました。
それから半時程経った後であった。お春は我家に近いあたりを送りの駕籠でゆられていたが、ふと泣き湿れた顔を拭いて、垂師をはねて駕籠かきに言いました。
「たしか此処は南海寺、わしは寺内に棲んで居る知人をたずねてゆきたい故、鳥渡下して下さんせ」
「じゃと申してもう夜も大ぶん更けました。明日のことになされては……」
「いやいや急ぎの用事故、わしはついちゃっと用をたしてゆく程に、其方達は此処から戻るがよい」
お春は駕籠を下り立って、いくらかの酒代を二人に遣わし、礼の言葉を後に聴いて、小走りに急ぎ乍ら、物寂しい夜半の寺内へはいってしまうのでした。
やがてお春が辿って来たのは、南海寺の裏地に続いた、凄まじい墓地の辺りでした。秋の夜空は黒く澄んで、月の光は蒼く輝き、苔のひまからこおろぎの哀しい声がきこえていた。
お春は小さな石塔の前に坐って手を合せながら言うのでありました。
「父さん。わしゃ殿御に捨てられて、母さんにも兄さんにも、どうこの顔が向けられよう。こんな悲しい、味気ない浮世にはわしゃもう飽きた……じゃ、すぐお側へゆくぞえ……」
お春は紅のしごきを解いて、堅く膝をくくり合せ、襟を開けて真珠の胸を露わしたが、やがて金簪を乳房の下に突き込んで、そのまま前に倒れ伏しました。一声鋭どい苦悶の声が、噛みしめた歯の間を洩れたが、その声が微に消えると、その後へ限りない静けさが来ました。