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一条摂政兼良公の顔は猿によく似ていた。十三歳で元服する時虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子きせけり」と聞えると、公たちまち縁の方へ走り出で「元服は未の時の傾きて」と附けたそうだ。予が本誌へ書き掛けた羊の話も例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申の年が迫るにつき、猴の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切として差し上ぐる。
猴の称えを諸国語でざっと調べると、ヘブリウでコフ、エチオピア語でケフ、ペルシア語でケイビまたクッビ、ギリシア名ケポスまたケフォス、ラテン名ケブス、梵名カピ、誰も知る通り『旧約全書』が出来たパレスチナには猴を産せず。しかしソロモン王が外国から致した商品中に猴ありて、三年に一度タルシシュの船が金銀、象牙、猴、孔雀を齎らすと見ゆ。その象牙以下の名がヘブリウ本来の語でなく象牙はヘブリウでシェン・ハッビム、このハッビム(象)は象の梵名イブハに基づき、孔雀のヘブリウ名トッケイイムは南インドで孔雀をトゲイと呼ぶに出で、猴のヘブリウ名コフは猴の梵名カピをヘブリウ化したので、孔雀は当時インドにのみ産したから推すと、ソロモンが招致した猴も象もアフリカのでなくインドのものと判る。
第1図 アッシリアの口碑彫りたる象と猴
それから古アッシリアのシャルマネセルの黒尖碑(第一図)を見ると、一人一大猴を牽いてインド象の後に随い、次にまた一人同様の猴一疋を牽き、今一疋を肩に乗せて歩む体を彫り付け、その銘文にこの象と猴はアルメニアまたバクトリアからの進貢するところとある。いずれも寒国でとてもこんな物を産出しないから、これはインドより輸入した象や猴を更にアッシリアへ進献したのだ。ギリシアで最初猴を一国民と見做し、わが国でも下人を某丸と呼ぶ例で猴を猴丸と呼んだ。その通りアッシリア人も猴を外国の蛮民と心得たらしく、件の碑に彫った猴は手足人に同じく頬に髯あり、したがってアッシリア人は猴をウズムと名づけた。これはヘブリウ語のアダム(すなわち男)の根本らしい。今もインドで崇拝さるるハヌマン猴とて相好もっとも優美な奴がこの彫像に恰当する由(ハウトン著『古博物学概覧』一九頁已下)。猴のアラブ名キルド、またマイムンまたサダン、ヒンズ名はバンドル、セイロン名はカキ、マレイ名はモニエット、ジャワ名ブデス、英語で十六世紀までは猴類をすべてエープといったが、今は主として尾なく人に近い猴どもの名となり、その他の諸猴を一と括りにモンキーという。モンキーは仏語のモンヌ、伊語のモンナなどに小という意を表わすキーを添えたものだそうな。さてモンヌもモンナもアラブ名マイムンに出づという。ソクラテスの顔はサチルス(羊頭鬼)に酷似したと伝うるが、孔子もそれと互角な不男だったらしく、『荀子』に〈仲尼の状面※を蒙るがごとし〉、※は悪魔払いに蒙る仮面というのが古来の解釈だが、旧知の一英人が、『本草綱目』に蒙頌一名蒙貴は尾長猿の小さくて紫黒色のもの、交趾で畜うて鼠を捕えしむるに猫に勝るとあるを見て蒙※は蒙貴で英語のモンキーだ。孔子の面が猴のようだったのじゃと吹き澄ましいたが、十六世紀に初めて出たモンキーなる英語を西暦紀元前二五五年蘭陵の令と為ったてふ荀子が知るはずなし、得てしてこんな法螺が大流行の世と警告し置く。
猴の今一つの英名エープは、梵名カピから出たギリシア名ケフォス、ラテン名ケブス等のケをエと訛って生じたとも、また古英語で猴をアパ、これ蘭名アープ、古ドイツ名アフォ等と斉しく猴の鳴き声より出たともいう。さて猴はよく真似をするから英語の動詞エープは真似をするの義で、梵語等も猴に基づいた真似する意の動詞がある。『本草啓蒙』に猴の和名を挙げてコノミドリ、ヨブコトリ、イソノタチハキ、イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ、タカ、マシラ、マシコ、マシ、スズミノコ、サルと十二まで列ねた。インドで『十誦律』巻一に、動物を二足四足多足無足と分類して諸鳥猩々および人を二足類とし、巻十九に孔雀、鸚鵡、々、諸鳥と猴を鳥類に入れあり。日本でも二足で歩み得るという点から猴を鳥と見て、木の実を食うからコノミドリ、声高く呼ぶから呼子鳥というたらしい。
昔は公家衆など生活難から歌道の秘事という事を唱え、伝授に托して金を捲き上げた。呼子鳥は秘事中の大秘事で一通りは猴の事と伝えたが、あるいは時鳥とか鶏とか、甚だしきは神武天皇の御事だとか、紛々として帰著する所を知らなんだ。それを嘲った「猿ならば猿にしておけ呼子鳥」と市川白猿の句がある。イソノタチハキとは何の事か知らぬが、『奥羽観跡聞老誌』九に、気仙郡五葉嶽の山王神は猴を使物とす、毎年六月十五日、猴集って登山しその社を拝む、内に三尺ばかりの古猴一刀を佩びて登り、不浄参詣は必ずその刀を振って追う、人これを怪しむと出づ。馬の話の中に書いて置いたごとく、アラビアの名馬は交会して洗浄せぬ者を乗せずといい、モーリシャス島人は猴に果物を与えて受け付けぬを有毒と知るという(一八九一年板ルガーの『航行記』巻二)。惟うに老猴よく人の不浄を嗅ぎ分くる奴を撰び教えて帯刀させ、神前へ不浄のまま出る奴原を追い恥かしめた旧慣が本邦諸処にあったから、猴をイソノタチハキというたので、イソは神祠の前を指す古名だろう。イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ等は古え女の君が巫群を宰った例もあり、巫女が猴を馴らして神前に舞わせたから起った名で、タカは好んで高きに上る故の名と知る。
サルとは何の意か知らぬが巫女の長を女の君と呼んだなどより考うると、本邦固有の古名らしく、朝鮮とアイヌの辞書があいにく座右にないからそれは抜きとして、ワリス氏が南洋で集めた猴の諸名を見るも、わずかにアルカ(モレラ語)、ルア(サパルア語)、ルカ(テルチ語)位がやや邦名サルに近きを知るのみ。マレイ語にルサあるが鹿を意味す。『翻訳名義集』に猴の梵名摩斯あるいは迦とある。予が蔵する二、三の梵語彙を通覧するに、後者は猴の梵名マルカタと分るが摩斯らしい猴の梵名は一向見えぬ。しかるに和歌に猴を詠む時もっとも多く用いるマシラなる名は古来摩斯の音に由ると伝うるはいぶかし。ところが妙な事は十七世紀の仏人タヴェルニエーの『印度紀行』に、シエキセラに塔ありてインド中最大なるものの一なり、これに附属する猴飼い場ありて、この地の猴をも近国より来る猴をも収容し商人輩に供餉す。この塔をマツラと称うと載せ、以前はジュムナ河が塔下を流れ礼拝前身を浄むるに便り善かったから巡礼に来る者極めて多かったが、その後河渓が遠ざかったので往日ほど栄えぬと述べあり。英国学士会員ボール註に、これは四世紀に晋の法顕が参詣した当時、仏教の中心だった摩頭羅国の名を塔の名と心得伝えたので、十七世紀のオーランゼブ王この地に入って多く堂塔を壊ったが、猴は今も市中に充満し住民に供養さるとある。法顕の遺書たる『法顕伝』『仏国記』共にこの地で仏法大繁盛の趣を書せど猴の事を少しも記さず。それより二百余年後れて渡天した唐の玄奘の『西域記』にはマツラを秣莵羅とし、その都の周り二十里あり、仏教盛弘する由を述べ、この国に一の乾いた沼ありてその側に一の卒塔婆立つ、昔如来この辺を経行した時猴が蜜を奉ると仏これに水を和してあまねく大衆に施さしめ、猴大いに喜び躍って坑に堕ちて死んだが、この福力に由って人間に生まれたと載す。いと古くより猴に縁あった地と見える。
『和州旧跡幽考』に猿沢池は天竺猴池を模せしと、池の西北の方の松井の坊に弘法作てふ猴の像あり。毘舎利国猴池の西の諸猴如来の鉢を持って樹に登り蜜を採り、池の南の群猿その蜜を仏に奉ると『西域記』を引き居るが、仏はなかなかの甘口で猴はそれを呑み込んで人間に転生したさに毎々蜜を舐らせたと見える。また『賢愚因縁経』十二に、舎衛国の婆羅門師質が子の有無を問うと六師はなしと答え、仏はあるべしという、喜んで仏と衆僧を供養す。それから帰る途上仏ある沢辺に休むと猴が蜜を奉り、喜んで起って舞い坑に堕ち死して師質の子と生まる。美貌無双で、家内の器物、蜜で満たさる。相師いわくこの児善徳無比と、因って摩頭羅瑟質と字す。蜜勝の意だ。父母に乞うて出家す、この僧渇する時鉢を空中に擲てば自然に蜜もて満ち、衆人共に飲み足ると。『大智度論』二六に摩頭波斯咤比丘は梁棚あるいは壁上、樹上に跳り上がるとあるも同人だろう。
これらの例から見ると、摩頭羅なる語の本義は何ともあれ、国としても人としても仏典に出るところ猴に縁あれば、猴の和名マシラはこれから出たのかと思わる。
本来サルなる邦名あるにマシラなる外来語をしばしば用いるに及んだは、仏教弘通の勢力に因ったがもちろんながら、サルは去ると聞えるに反してマシラは優勝の義に通ずるから専らこれを使うたと見える。『弓馬秘伝聞書』に祝言の供に猿皮の空穂を忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門院崩じ諸公も薨じたとあり。今も職掌により猴の咄を聞いてもその日休業する者多し。予の知れる料理屋の小女夙慧なるが、小学読本を浚えるとては必ず得手と蟹という風に猴の字を得手と読み居る。かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿また得手吉と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留、歌集の猿丸太夫、降って上杉謙信の幼名猿松、前田利常の幼名お猿などあるは上世これを族霊とする家族が多かった遺風であろう。『のせざる草紙』に、丹波の山中に年をへし猿あり、その名を増尾の権の頭と申しける。今もこの辺で猴神の祭日に農民群集するは、サルマサルとて作物が増殖する賽礼という。得手吉とは男勢の綽号だが猴よくこれを露出するからの名らしく、「神代巻」に猿田彦の鼻長さ七咫、『参宮名所図会』に猿丸太夫は道鏡の事と見え、中国で猴を狙というも且は男相の象字といえば(『和漢三才図会』十二)、やはりかかる本義と見ゆ。ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜がよい、括り猿というから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。
唐の黄巣が乱を為し金陵を攻めんとした時、弁士往き向うて王の名は巣、それが金に入るととなると威したのですなわち引き去った(『焦氏筆乗』続八)とあると同日の談だ。
昔狂月坊に汝の歌は拙いというと、「狂月に毛のむく/\と生よかしさる歌よみと人に知られん」。その相似たるより毳々と聞けばたちまち猴を聯想するので、支那で女根を※※といい(『笑林広記』三)、京阪でこれを猿猴と呼び、予米国で解剖学を学んだ際、大学生どもこれをモンキーと称えいたなど、『松屋筆記』にくぼの名てふ催馬楽のケフクてふ詞を説きたると攷え合せて、かかる聯想は何処にも自然に発生し、決して相伝えたるにあらずと判る。ただし『甲子夜話』続十七に、舅の所へ聟見舞に来り、近頃疎濶の由をいいかれこれの話に及ぶ。舅この敷物は北国より到来せし熊皮にて候といえば、聟撫で見てさてさて所柄とてよき御皮なり、さて思い出しました、妻も宜しく御言伝申し上げますとあるは、熊皮は毳々たらぬがその色を以て聯想したのだ。仏経や南欧の文章に美人を叙するとて髪はもちろんその他の毛の色状を細説せるを、毛黒からぬ北欧人が読んで何の感興を生ぜぬは、自分の色状と全く違うからで、黒熊皮を見ても妻を想起せぬのだ。瑣細な事のようだが、心理論理の学論より政治外交の宣伝を為すにこの辺の注意が最も必要で、回教徒に輪廻を説いたり、米人に忠孝を誇ってもちっとも通ぜぬ。マローンの『沙翁集』十に欧州の文豪ラブレー、ラフォンテンなどの女人、その根を創口に比して男子に説く趣向を妙案らしく喋々し居るが、その実東洋人にはすこぶる陳腐で、仏教の律蔵には産門を多くは瘡門(すなわち創口)と書きあり、『白雲点百韻俳諧』に「火燵にもえてして猫の恋心」ちゅう句に「雪の日ほどにほこる古疵」。彦山権現の戯曲に京極内匠が吉岡の第二女に「長刀疵が所望じゃわい」。手近にかかる名句があるにとかく欧人ならでは妙案の出ぬ事と心得違う者多きに呆れる。もちろん血腥からぬ世となりて長刀疵などは見たくても見られぬにつけ、名句も自然その力を失い行くは是非なしとして、毛皮や刀創を多く見る社会にはそれについて同一の物を期せずして聯想する、東西人情は兄弟じゃ。
女を猴に比する事も東西共にありて、英国の政治家セルデンは女を好まず、毎にいわく、妻を持つ人はその飾具の勘定に悩殺さる、あたかも猴を畜う者が不断その破損する硝子代を償わざるべからざるごとしと。ベロアル・ド・ヴェルビュの『上達方』に婦人は寺で天女、宅で悪魔、牀で猴と誚り、仏経には釈尊が弟の難陀その妻と好愛甚だしきを醒まさんとて彼女の瞎雌猿に劣れるを示したと出づ。それから意馬心猿という事、『類聚名物考』に、『慈恩伝』に〈情は猿の逸躁を制し、意は馬の奔馳を繋ぐ〉、とあるに基づき、中国人の創作なるように筆しあれど、予『出曜経』三を見るに〈意は放逸なる者のごとく、愛憎は梨樹のごとし、在々処々に遊ぶ、猿の遊びて果を求むるがごとし〉とあれば少なくとも心猿(ここでは意猿)だけは夙くインドにあった喩えだ。
『大和本草』に津軽に果然の自生ありと出づるがどうもあり得べからざる事で、『軒小録』に伊藤仁斎の壮時京都近辺の医者が津軽から果然を持ち来ったと記載しあるを読むと、夜分尾で面を掩うて臥すというから、何か栗鼠属のもので真の果然でない。果然は一名※また仙猴、その鼻孔天に向う、雨ふる時は長い尾で鼻孔を塞ぐ、群行するに、老者は前に、少者は後にす。食、相譲り、居、相愛し、人その一を捕うれば群啼して相赴きこれを殺すも去らず。これを来すこと必すべき故、果然と名づくと『本草綱目』に見え、『唐国史補』には楽羊や史牟が立身のために子甥を殺したは、人状獣心、この猴が友のために命を惜しまぬは、獣状人心だと讃美しある。されば帝舜が天子の衣裳に十二章を備えた時、第五章としてこの猴と虎を繍したのを、わが邦にも大嘗会等大祀の礼服に用いられた由『和漢三才図会』等に見ゆ。二十年ほど前、予帰朝の直前仰鼻猴という物の標品がただ一つ支那から大英博物館に届きしを見て、すなわちその『爾雅』にいわゆる※たるを考証し、一文を出した始末は大正四年御即位の節『日本及日本人』六六九号へ録した。かくて津軽に果然の自生は誤聞として、台湾には猴の異種が少なくとも一あり、内地産の猴は学名マカクス・スベシオススの一種に限る。
第2図 支那四川産橙色仰鼻猴
猴はなかなか多種だが熱帯と亜熱帯地本位のもの故、欧州にはただ爾たるジブラルタルにアフリカに多いマカクス・イヌウスとて日本猴に酷似しながら全く尾のない猴が住んでいたが、十年ほど前流行病で全滅した。そんなこと故欧州の古文学や、里譚、俗説に猴の話がめっきり見えぬは、あたかも日本の書物、口碑に羊を欠如するに同じく、グベルナチス伯が言った通り、形色、性行のやや似たるよりアジアで猴の出る役目を欧州の物語ではたいてい熊が勤め居る(グ氏『動物譚原』二巻十一章)、支那に猴を出す多種なれば、古来これに注意も深く、それぞれ別に名を附けたは感心すべし。
李時珍曰く〈その類数種あり、小にして尾短きは猴なり、猴に似て髯多きは※なり、猴に似て大なるは※なり。大にして尾長く赤目なるは禺なり。小にして尾長く仰鼻なるは※なり。※に似て大なるは果然なり。※に似て小なるは蒙頌なり。※に似て善く躍越するは※※なり。猴に似て長臂なるはなり。に似て金尾なるは※なり。に似て大きく、能く猴を食うは独なり〉。支那の動物は今に十分調ばっていぬから一々推し当つるは徒労だが、小にして尾短きは猴なりといえば、猴は全く日本のと同種ならずも斉しくマカクス属たるは疑いなし。それも日本と異なり一種に止まらず、北支那冬寒厳しき地に住むマカクス・チリエンシス(直隷猴)は特に厚き冬毛を具し、マカクス・シニクス(支那猴)は頭のつむじから長髪を放ち垂る。由って英人は頭巾猴と呼ぶとはいわゆる楚人沐猴にして冠すの好き対だ。猴の記載は李時珍のがその東洋博物学説の標準とされたから引かんに曰く、班固の『白虎通』にいわく猴は候なり、人の食を設け機を伏するを見れば高きに憑って四望す、候に善きものなり、猴好んで面を拭うて沐するごとき故に沐猴という。後人母猴と訛りまたいよいよ訛って猴とす。猴の形、胡人に似たる故胡孫という。『荘子』に狙という。馬を養う者厩中にこれを畜えば能く馬病を避く、故に胡俗猴を馬留と称す、状人に似、眼愁胡のごとくにして、頬陥り、※、すなわち、食を蔵す処あり、腹に脾なく、行くを以て食を消す、尻に毛なくして尾短し、手足人のごとくにて能く竪って行く、その声々(日本のキャッキャッ)として咳するごとし。孕む事五月にして子を生んで多く澗に浴す。その性騒動にして物を害す、これを畜う者、杙上に坐せしめ、鞭つ事旬月なればすなわち馴ると。
時珍より約千五百年前に成ったローマの老プリニウスの『博物志』は、法螺も多いが古欧州斯学の様子を察するに至重の大著述だ。ローマには猴を産しないが、当時かの帝国極盛で猴も多く輸入されたから、その記載は丸の法螺でないが曰く、猴は最も人に似た動物で種類一ならず、尾の異同でこれを別つ、猴の黠智驚くべし、ある説に猟人黐と履を備うるに猴その人の真似して黐を身に塗り履を穿きて捕わると、ムキアヌスは猴よく蝋製の駒を識別し習うて象戯をさすといった。またいわく尾ある猴は月減ずる時甚だ欝悒し新月を望んで喜び躍りこれを拝むと、他の諸獣も日月蝕を懼るるを見るとさような事もありなん。猴の諸種いずれも太く子を愛す、人に飼われた猴、子を生めば持ち廻って来客に示し、その人その子を愛撫するを見て大悦びし、あたかも人の親切を解するごとし。さればしばしば子を抱き過ぎて窒息せしむるに至る。
狗頭猴は異常に獰猛だ。カリトリケ(細毛猴)はまるで他の猴と異なり顔に鬚あり。エチオピアに産し、その他の気候に適住し得ずというと。博覧無双の名あったプリニウスの猴の記載はこれに止まり、李氏のやや詳しきに劣れるは、どうしてもローマに自生なく中国に多種の猴を産したからだ。
右に見えた黐と履で猴を捕うる話はストラボンの『印度誌』に出で、曰く、猟人、猴が木の上より見得る処で皿の水で眼を洗い、たちまち黐を盛った皿と替えて置き、退いて番すると、猴下り来って黐で眼を擦り、盲同然となりて捕わると、エリアヌスの『動物誌』には、猟人猴に履はいて見せ、代わりに鉛の履を置くと、俺もやって見ようかな、コラドッコイショと上機嫌で来って、その履を穿く。豈図らんや人は猴よりもまた一層の猴智恵あり、機械仕懸けで動きの取れぬよう作った履故、猴一たび穿きて脱ぐ能わずとある。日本でも熊野人は以前黐で猴を捕えたと伝え、その次第ストラボンの説に同じ。『淵鑑類函』に阮封渓で邑人に聞いたは、猩々数百群を成す。里人酒と槽を道傍に設け、また草を織りて下駄を作り、結び連ね置くを見て、その人の祖先の姓名を呼び、奴我を殺さんと欲すと罵って去るが、また再三相語ってちょっと試みようと飲み始めると、甘いから酔ってしまい、下駄を穿くと脱ぐ事がならずことごとく獲られ、毛氈の染料として血を取らると載せたが、またエリアヌスの説に似て居る。猩々はもと々と書く。
『山海経』に招揺の山に獣あり、その状禺(尾長猿)のごとくして白耳、伏して行き人のごとく走る、その名を々という。人これを食えば善く走る。『礼記』に〈猩々善く言えども禽獣を離れず〉など支那に古く知れたものでもと支那の属国交趾に産したらしい。和漢とも只今猴類中ほとんど人の従弟ともいうべきほど人に近い類人猴の内、脳の構造一番人に近いオラン・ウータンを猩々に当て通用するが、これはボルネオとスマタラの大密林に限って樹上に棲み、交趾には産せぬ。古書に、〈猩々黄毛白耳、伏して行き人のごとく走る、頭顔端正、数百群を成す〉などあるが、一つもオラン・ウータンに合わぬ。『荀子』に〈猩々尾なし〉とありて人に近き由述べ居るが、南部支那に産する手長猿も、無尾だから、攷えると最初猩々と呼んだは手長猿の一種にほかならじ、後世赤毛織りが外国より入って何で染めたか分らず、猩々の血てふ謬説行われ、それより転じて赤毛で酒好きのオラン・ウータンを専ら猩々と心得るに及んだのだ。オランは支那になく、たまたまインド洋島にあるを見聞し、海中諸島に産すというところを、例の文体で海中に出づと書いた支那文を日本で読みかじり、『訓蒙図彙大成』に海中に棲む獣なりと註して、波に囲まれた岩上に猩々を図し、猩々の謡曲には猩々を潯陽江の住としたが、わだつみの底とも知れぬ波間よりてふ句で、もと海に棲むとしたと知れる。この謡に猩々が霊泉を酒肆の孝子に授けた由を作ってより、猩々は日本で無性に目出たがられ、桜井秀君は『蔭涼軒日録』に、延徳三年泉堺の富家へ猩々に化けて入り込み財宝を取り尽した夜盗の記事を見出された。かかる詐欺が行わるべしとは今の人に受け取れぬが、『義残後覚』七、太郎次てふ大力の男が鬼面を冒り、鳥羽の作り道で行客を脅かし追剥するを、松重岩之丞が斫り露わす条、『石田軍記』三、加賀野江弥八が平らげた伊吹の山賊鬼装して近郷を却かした話などを参ずるに、迷信強い世にはあり得べき事だ。若狭に猩々洞あり。能登の雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり、渡唐の言い謬りかとある。トドは海狗の一種で、海狗が人に化ける譚北欧に多い(ケートレーの『精魅誌』)。惟うに北陸の猩々は海狗を誤認したのだろう。
家康公が行水役の下女に産ませた上総介忠輝は有名な暴君だったが、その領地に無類の豪飲今猩々庄左衛門あり、忠輝海に漁して魚多く獲た余興に、臣民に酒を強いるに、この漁夫三、四斗飲んで酔わず、城へ伴い還り飲ましむるに六斗まで飲んで睡る。忠輝始終を見届け、かの小男不審とてその腹を剖くに一滴もなし。しかるにその両脇下に三寸ばかりの小瓶一つずつあり。砕かんとすれども鉄石ごとくで破れず、その口から三斗ずつ彼が飲んだ六斗の酒風味変らず出た。忠輝悦んで日本無双の重宝猩々瓶と名づけ身を放さず、この殿酒を好み、この瓶に酒を詰め、五日十日海川池に入りびたれど酒不足せず、今猩々の屍を懇に葬り弔い、親属へ金銀米を賜わった由(『古今武家盛衰記』一九)。これは『斉東野語』に出た野婆の腰間を剖いて印を得たというのと、大瓶猩々の謡に「あまたの猩々大瓶に上り、泉の口を取るとぞみえしが、涌き上り、涌き流れ、汲めども汲めども尽きせぬ泉」とあるを取り合せて造った譚らしい。
『野語』の文は〈野婆は南丹州に出づ、黄髪椎髻、裸形跣足、儼然として一媼のごときなり、群雌牡なく、山谷を上下すること飛(猴の一種)のごとし、腰より已下皮あり膝を蓋う、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む、かつて健夫のために殺さる、死するに腰間を手をもって護る、これを剖きて印方寸なるを得、瑩として蒼玉のごとし、文あり符篆に類するなり〉、これは腰下を皮で蓋い玉を護符または装飾として腰間に佩びた無下の蛮民を、猴様の獣と誤ったのだ。近時とても軍旅、労働、斎忌等の節一定期間男女別れて群居する民少なからず、古ギリシアやマレー半島や南米に女人国の話あるも全く無根でない(一八一九年リヨン板『レットル・エジフィアント』五巻四九八頁已下。ボーンス文庫本、フンボルト『南米旅行自談』二巻三九九頁已下。クリフォードの『イン・コート・エンド・カムポン』一七一頁已下)。さて野人の女が優種の男に幸せられんと望むは常時で、ギリシアの旧伝にアレキサンダー王の軍女人国に近付いた時、その女王三百人の娘子軍を率い急ぎ来って王の胤を孕みたいと切願し、聞き届けられて寵愛十三昼夜にわたった。鳥も通わぬ八丈が島へ本土の人が渡ると、天女の後胤てふ美女争うて迎え入れ、同棲慇懃し、その家の亭主は御婿入り忝なや、所においての面目たり、帰国までゆるゆるおわしませと快く暇乞いして他の在所へ行って年月を送ると(『北条五代記』五)。この事早く海外へ聞え、羨ませたと見え、島名を定かに書かねど一五八五(天正十三)年すなわち『五代記』記事の最末年より二十九年前ローマ出版、ソンドツァ師の『支那大強王国史』に、「日本を距る遠からず島あり、女人国と名づく、女のみ住んで善く弓矢を用ゆ、射るに便せんとて右の乳房を枯らす(古ギリシア女人国話の引き写しだ)、毎年某の月に日本より商船渡り、まず二人を女王に使わし船員の数を告ぐれば、王何の日に一同上陸せよと命ず、当日に及び、女王船員と同数の婦女をして各符標を記せる履一足を持たせて浜辺に趣き、乱雑に打ち捨て返らしむ。さて男ども上陸して各手当り次第に履を穿くと、女ども来って自分の符標ある履はいた男を引っ張り行く、醜婦が美男に配し女王が極悪の下郎に当るもかれこれ言わぬ定めだ。かくて女王が勅定した月数が過ぎると「別れの風かよ、さて恨めしや、いつまた遇うやら遇わぬやら」で銘々男の住所姓名を書いて渡し、涙ながらに船は出て行く帆掛けて走る、さて情けの種を宿した場合に生まれた子が女なら島へ留めて跡目相続、男だったら父の在所へ送致する(ここギリシア伝説混入)」というが甚だ疑わしい。しかしこの話をしたは正しき宗教家で、この二年内にかの島へ往きその女人に接した輩から親しく聞いたと言う。ただし日本に居る天主僧の書信に一向見えぬからどうもますます疑わしいとある。世に丸の嘘はないもので、加藤咄堂君の『日本風俗志』中巻に、『伊豆日記』を引いていわく、八丈の島人女を恋うても物書かねば文贈らず、小さく作った草履を色々の染糸を添えたる紙にて包み贈る。女その心に従わんと思えば取り収め、従わざればそのまま戻す云々。女童部の物語にする。女護島へ男渡らば草履を数々出して男の穿きたるを印しに妻に定むという風俗の残れるにやと、ドウモ女人国へ行きたくなって何を論じ掛けたか忘れました。エーとそれアノ何じゃそれからまた、十五世紀にアジア諸国を巡った露人ニキチンの紀行に多分交趾辺と思わるマチエンてふ地を記し、そこにも似た婦人、昼は夫と臥せど夜は外国男を買うた話が見える。これらの例を考え合すと〈野婆群雌牡なく、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む〉ちゅう支那説は虚談ならずと分る。日本で備前の三村家親へ山婆が美女に化けて通い、ついに斬られた話あれど負い去って強求すると聞かぬ。
『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、、猴以て一物と為す、それ訛り伝えて、猿字を用いて総名と為す、猿同字〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君など猴と書くべきを猿またと書いた。『嬉遊笑覧』に言える通り鴨はアヒルだが、カモを鳬と書かず鴨と書き、近くはタヌキから出たタナテ、またよくこの獣を形容したラクーン・ドグなる英語があるに今もバッジャー(※、アナクマに当る)てふ誤訳を踏襲するに斉しく、今となっては如何ともするなし。猿英語でギッボン、また支那音そのまま取ってユエン。黒猩、ゴリラ、猩々に次いで人に近い猴で歯の形成はこの三者よりも一番人に近い。手が非常に長いから手長猿といい、また猿猴の字音で呼ばる。その種一ならず、東南アジアと近島に産す。手を交互左右に伸ばして樹枝を捉え進み移る状、ちょうど一の臂が縮んで他の臂が伸びる方へ通うと見えるから、猿は臂を通わすてふ旧説あり、一臂長く一臂短い画が多い。『膝栗毛』に「拾うたと思ひし銭は猿が餅、右から左の酒に取られた」この狂歌は通臂の意を詠んだのだ。
『本草綱目』に、〈猿初生皆黒し、而して雌は老に至って毛色転じて黄と為る、その勢を潰し去れば、すなわち雄を転じて雌と為る、ついに黒者と交わりて孕む〉。これは瓊州猿の雌を飼いしに成熟期に及び黒から灰茶色に変わった(『大英百科全書』十一)というから推すと、最初雌雄ともに黒いが後に雌が変色するより変成女子と信じたり、『列子』、〈※変じてと為る〉、『荘子』、〈狙を以て雌と為る〉と雌雄を異種に見立てたのだ。猿は臂長く膂力に富み樹枝を揺って強く弾かせ飛び廻る。学者これを鳥中の燕に比したほど軽捷で、『呂覧』に養由基矢を放たざるに、、樹を擁して号び、『呉越春秋』に越処女が杖を挙げて白に打ち中てたなどあるは、その妙技なみ大抵の事でない絶好の叙述と知れ、予も親しく聴いたが、猿が飛ぶ時ホーホーと叫ぶ声は大したもので耳が病み出す。寂しい処で通宵これを聴く趣はとてもわが邦の猴鳴の及ぶところでなく、〈峡中猿鳴く至って清し、諸山谷その響きを伝え、冷々として絶えず、行者これを歌いて曰く、巴東三峡猿鳴く悲し、猿鳴く三声涙衣を霑す〉とはよく作った。「深き夜のみ山隠れのとのゐ猿ひとり音なふ声の淋しさ」などわが邦の名歌は多く支那の猿の詩に倣うたものじゃ。
猿は樹を飛び廻る事至って捷く、夫婦と餓鬼ばかり棲んで群を成さずすこぶる捕えがたい。『琅邪代酔篇』三八に、〈横州猿を捕えて入貢す、故に打ち捕るを事とするは皆南郷の人、旬日村老一人来り告ぐ、三百余人合囲して一小黒猿を独嶺上に得、もし二百人を益し、ことごとく嶺木を伐らば、すなわち猿を獲べしと、その請のごとくす、三日の後一猿を舁ぎて至る〉。水を欲しい時のみ地へ下り直立して歩む。本邦の猴など山野にあれば皆伏行し、飼って教えねば立って行かず、猩々なども身を斜めにして躄り歩く。故に姿勢からいえば猿は一番人間に近くその脚とても画にかいたほど短からず、立派に胴より長い。しかるにその臂が非凡に長いので脚がいと短く見える。
『七頌堂識小録』に、猿を貢する者、その傍に猴数十を聚め跳ね喧しからしむ。その言に、猿は人の泣き声を聞くと腸絶えて死ぬからこうして紛らかすと、〈猿声悲し、故に峡中裳を沾すの謡あり、これすなわち人の声の悲しきを畏る、異なるかな〉とあるが何の異な事があるものか、人間でも人の罪よりまず自分を検挙せにゃならぬような官吏が滔々皆これだ。猿は人に近付かぬ故その天然の性行を睹た学者は少ない。したがって全然信認は如何だが、昔から永々その産地に住んだ支那人の説は研究の好き資料だ。例せば『本草啓蒙』に引いた『典籍便覧』にいわく、〈猿性静にして仁、貪食せず、かつ多寿、臂長く好くその気を引くを以てなり、その居相愛し、食相禁ず〉と節米の心掛けを自得せる故、馬鈴薯料理の試食会勧誘も無用で、〈行くに列あり、飲むに序あり、難あればすなわちその柔弱者を内にして、蔬を践まず、山に小草木あれば、必ず環りて行き、以てその植を遂ぐ、猴はことごとくこれに反す〉。これなら桃中軒の教化も危険思想の心配も要らぬ。誠に以てお猴目出たやな。
支那の本草書中最も難解たる平猴また風母、風生獣、風狸というがある。唐の陳蔵器説に風狸州以南に生じ、兎に似て短く、高樹上に棲息し、風を候うて吹かれて他樹に至りその果を食う。その尿乳のごとく甚だ得がたし、諸風を治すと。明の李時珍諸書を考纂していわく、その獣嶺南および蜀西山林中に生ず、状は猿猴のごとくで小さし、目赤く尾短くてなきごとく青黄にして黒し、昼は動かず、夜は風に因って甚捷く騰躍し巌を越え樹を過ぎて鳥の飛ぶごとし、人を見れば羞じて叩頭憐みを乞う態のごとし、これを打てばたちまち死す、口を以て風に向えば復活す、その脳を破りその骨を砕けばすなわち死すと。
第3図 飛狐猴
漢の東方朔の『十洲記』には南海中の炎洲に風生獣あり、豹に似て青色、大きさ狸(野猫)のごとし、網で捕えて薪数車を積み焼くに、薪尽きても燃えず灰中に立ち毛も焦げず、斫っても刺しても入らず、打てば灰嚢のごとし、鉄槌で数十度打ってようやく死ねど、口を張って風に向ければ暫くして復活く、石菖蒲でその鼻を塞げば即死す。その脳を菊花に和し十斤を服せば五百年生き得と。唐の孟の『嶺南異物志』には、この獣常に一杖を持って指すに、指された鳥獣皆去る能わず、人を見れば杖を捨つ、人この獣を捉えあくまで打てば杖を指し示す、人その杖を取って物を指し欲するところに随わしむと載す。奇怪至極な話だがつらつら考えるにこれはコルゴを誇張したのだ。コルゴ(第三図)英語でフライイング・レムール(飛狐猴)、またフライイング・キャット(飛猫)、「乳母ここにももんがあがと子供いい」というモモンガに似たようだが、全く別類で、モモンガは前後脚の間にのみ張った皮膜ありて樹上から飛び下るを助くるが、コルゴの飛膜は前後脚間に止まらず前脚と頸側、後脚と尾の間にも足趾間にも張られ居る状蝙蝠に髣髴たり。だが蝙蝠の翅膜に毛がないと異なり、コルゴの膜は下面ほとんど裸で上面は毛が厚く生え居る。昼は蝙蝠同然樹からぶら下がって睡り、夜は件の膜を張って樹から樹へ飛び歩き葉と虫を食う。清水の舞台から傘さして飛ぶように無難に飛び下るばかりで、鳥や蝙蝠のごとく一上一下はし得ないから、南方先生の居続け同然数回飛べばどん底へ下り、やむをえず努力して樹梢に昇り、また懲りずまに飛び始めざるを得ず。ただし居続けも勉強すると随分長くやれる。コルゴ先生も今はなかなか上手に飛び、数百ヤードの距離を飛ぶにその距離五分の一だけ下るとは飛んだ飛び上手だ。この獣以前は猴の劣等な狐猴の一属とされたが、追々研究して蝙蝠に縁近いとか、ムグラモチなどと等しく食虫獣だとか議論定まらず。特にコルゴのために皮膜獣なる一類を建てた学者もある。惟うに右述ぶごとくほとんど横に平らに飛び下るから支那で平猴と名づけたので、『十洲記』に南海中の炎洲に産すというも、インド洋中の熱地ジャワ、ボルネオ、スマトラを指したものであろう。現にこれら諸島とマレー半島、シャム、ビルマ、インドに一種を出すがそれに四、五の変種あり。それより耳短く、頭小さく、上前歯大なる一種はルソンに産す。その毛オリヴ色で白き斑あり猫ほど大きく、尋常の方法では殺し切れぬくらい死にがたい(一八八三年ワリスの『巫来群島記』一三五頁)のが、平猴の〈大きさ狸(野猫)のごとし、その色青黄にして黒、その文豹のごとし、これを撃っては倏然として死す。口を以て風に向かえば、須臾にしてまた活く〉(『本草綱目』五一)てふ記載に合い、昼臥し夜飛び廻る上に、至って死にがたい誠に怪しいもの故種々の虚談も支那書に載せられたのだ。さて仙人能く飛ぶに合せてその脳を食えば長生すとか、その杖を得れば欲するところ意のごとしとかいい出し、支那人は中風大風(癩病)等を風より起ると見たから、風狸の一名あるこの獣の尿は諸風を治すと信じたのだ。昨今支那にコルゴを産すと聞かぬが、前述の仰鼻猴や、韓愈の文で名高いなど、ありそうもない物が新しく支那で見出されて学者を驚倒させた例多く、支那の生物はまだとくと調査が済まない。したがって予は南支那に一種のコルゴが現存するか、昔棲んだかの証拠がそのうち必ず揚がると確信する。さて話はこれから段々いよいよ面白くなるんだからして、聞きねえ。(大正九年一月、『太陽』二六ノ一)