Chapter 1 of 7

七月初めの日が頭の上でカンカン照りはじめると、山の中は一しきり、ソヨリとした風もなくなっていた。マンゴク網を辷り落る鉱石の響きも、トロッコのきしる音も、すべてが物憂くだらけ切っていた。草木の葉はぐんなりと萎れて、ただ山中一杯にころがっている岩のかけらや硅石の破片が、燃えるような日の光りに焦がされてチカチカと、勢いよく輝いているばかりであった。

坑外で働いている者は、掘子も選鉱女も、歌一つ謳う元気もなくなっていた。時折坑内から起る爆発の轟きが思い出したようにだらけた空気の中に響き渡った。けれども、それも直ぐ、この烈しい光りと熱に気圧されて消えて了うと、四辺はまた妙にひっそりかんとして了った。

この時麓の方から、太い松丸太を馬の脊に積んで来た馬子が見張りの前に来て、

「留木を持って来たから調べておくんなんしょ」と言った。

肌脱ぎになって調べ物をしていた池田は、すぐに巻尺を持って外に出た。太い松丸太を担って、焼けるような日に照りつけられて山道を登って来た馬は、浴びるように汗をかいて、木蔭の草を食っていた。池田が尺を当て、杭木を調べて了うと、馬子は思い出したように、

「事務所からこれを頼まれて来やした」と、一通の手紙を渡した。

それは東京の鉱主から、池田に宛てたものであった。

鉱主から直接に来る手紙に碌なことのあった例しはないので、池田は妙な顔をして、ポケットに入れてしまった。杭木の領収書を受け取った馬子が、再び熱い日中を麓の方へ下って行ってから、彼は一人で廃坑の前に登って行った。其処には涼しい蔭と、坑内から吹いて来る冷たい風が絶えずあった。彼は其処に寝転ぶと、ポケットから手紙を出して、封を切って読み始めた。中には、

――君はこの二三日前に病気と称して現場を休んで、村の茶屋で遊んでいたそうだが、何の理由にせよ、そう言う行動は甚だ怪しからん事に思う。直ぐにも解雇すべきところだが、縁類にもなっていることだから、一応君の母親を呼んで注意だけして置いた。今後は断じて謹慎するか、然らざれば此の際辞職する方が、君の名を傷けないことになるであろう――と、こんな事が書いてあった。

碌でもないことだろうと予想はしていたが、池田はこの手紙を読むと、最初は怒るよりも呆れて了った。一週間ほど前に、病気で現場を休んだことは事実であった。尤もその原因は飲み過ぎや遊び過ぎにあったかも知れないが、その日は終日事務所で神妙に書類の整理をやっていた。夜も稀らしいほど早く寝た。

事実はこれだけのことであるのを、誰かが嘘を造って東京へ報告したものであろう。尤も彼がこんな目に会ったのは、これがはじめての事ではなかった。今までにもこう言う手段に乗せられて、自分の係長をなぐってしまってから、後で罪はその人にないのが解って、きまりの悪いのをこらえて謝罪ったこともあった。妙な風説を立てられた為めに、飯場頭に切られ損ねたことも、坑夫と喧嘩して、鍛冶場の火の中へ重なり合って転げ落ちたこともあった。

今度のことも恐らく誰かが、何かのためにこんな事を言ってやったのであろう。鉱主の怒るのも無理はないが自分のした事のために、年老いた母親まで引合いに出さなくとも好いことと思った。それは甚だしい侮辱だと思った。

その瞬間に彼は、辞職してすぐ東京へ帰ろうと思った。こんな小さな山の中で、仲間のアラを探し合ったり、中傷したり、それで足りずに嘘まで造って報告するような手合の中で、狭苦しい退屈な日を送っていることは、馬鹿げたことだと考えたからであった。

けれどもそれは、ただこの山の煩わしさから逃れるだけで、前途に何の望みもありはしない。職業に餓えて、あの砂埃りのひどい東京の街を痩犬のようにさまよって、哀訴したり嘆願したりしなければならないのは、今から考えてもぞっとするほど解り切った事である。それで何かにあり附けば、やっぱり同じような厭やな気持ちを繰り返すだけの事だ。すべて世の中が、そんな風に出来ている――と思うと、彼れは又た妙に心細くなってしまった。

旧坑の奥から吹いて来る陰気な風に吹かれながら、彼れはじっと目をつぶって了った。

午過ぎの交替時間に、事務員はみんな見張りのテーブルの周囲に集った。その時池田は真中のテーブルの上に手紙を投げ出して、

「まあ読んでみてくれ給え。誰か妙なことを言ってやったとみえるよ」と平気らしく装うて言った。

手紙は手から手に取られた。彼はそれを読む人の顔から、何物も逃すまいと、ジッと次から次に見詰めて行った。

最初に読んだ鈴木は、

「また誰か妙なことを言ってやったんだな」と言った。

次に読んだ測量係の男は、黙って「フフン」と笑った。

一度池田を中傷して、後で彼から散々罵られた阿部という若い男は、読み終ると顔を赤くして黙っていた。その他の誰も、余り多くを言わなかった。

「この中で誰かこんな事を言ってやった人があるなら、自分だって言ってくれないか、でないと僕はいろんな邪推をしなきゃならないから」と、池田は妙に温和しく言った。

けれども誰も黙っていた。

「君達でなきゃあ、やっぱり所長かな」と、池田は独り言のように言った。所長というのは、鉱主の妻君の兄で石山と言う男であった。三月ほど前にこの山の所長として来たのであったが、何時でもブツブツと見当違いの小言を言って歩いては、事務員の反感を買っていた。終には義理の弟に使われる低能児として、誰でもかげでは彼のことを低能と呼ぶようになって了った。

多くの人が集って暮している処には、誰か一人、侮蔑か憎悪の的になるものがなければならない。池田は今まで幾度かその的になって来た。けれども石山が来てからは、事務員の反感が石山に向った代りに、石山からは憎まれ者として目指されるようになった事を彼れはよく知っていた。

今度のことも恐らく石山の仕業だろうと思うと、彼は早く村に帰って何かしてみたくなっていた。

五時になると、彼は誰よりも先きに見張りを出て馳け下った。選鉱場の前まで来ると、彼は中を覗いて、

「オイ、おやじ、少し話があるから一緒に行こう」と、帰り支度をしている沼田を急き立てた。沼田は池田の一番親しい仲間であった。真黒な顔に濃い髯を生やしているので、誰もおやじ、おやじと呼んでいた。

沼田がアタフタと、包みと帽子を抱えて出て来ると、二人は急いで山を下った。谷間を過ぎて雑木林の中に来た時、池田はフト後を振り返ったが、誰の姿も見えないので、彼はやっと足をゆるめた。日はすでに高い山のかげにかくれたが、空はまだ昼のように明るかった。林の中からは、漸く涼しい風が吹き初めていた。

「ねえ、オイ、俺はひょっとすると止めなきゃならないかも知れないんだ」と、池田は突然言い出した。沼田は、

「そんな話だろうと思っていた」と、言ったが、

「それでどうするってのよ」と、問い返した。

「別にどうってアテもないんだけど」と言ったが、池田は沼田に何か済まないような気になった。

二人はよくいろいろな不平を語り合った。そんな時に沼田は、この山に来る前に、千島の方で密猟船に乗っていた時のことをよく話した。

「海の方が恐かねえことも多いけど、陽気で好いぞ、ボートの中に寝そべって、大きな浪にこうユタリーユタリとゆられてよ、空を眺めてると下らないことは忘れてしまわあ。半年猟に出て、半年は女郎屋で暮すんだ。駆逐艦より少し速力の早い船が一艘あれば、大丈夫だ。どうかして二人でもう一度北海道へ行こうや」と言った。この前池田が山を止すと言った時にも、

「人殺しをすりゃすぐ捕るような陸の上じゃ何処へ行ったって同じことよ。まあもう少し我慢して、千島へでも行ってみろ、日露戦争の時脱営したまんまの奴もいりゃ、人殺しをして逃げて来た奴もいら。茶屋の亭主をしている奴だって何か曰くのある奴ばかりだ。奴等はみんな無籍者だから生きたって死んだって解りゃしないんだ。喧嘩して人殺しをする奴があったって下らない蔭で仕事をする奴なんかありゃしない。なんでもかんでも妙にちゃんとしちまった陸の上は何処へ行ったって同じこった。お前がいなくなると話の相手もなくなってしまうんだ、もう少し我慢しろよ」

何時かしら池田も、いつかは千島に行きたいと思うようになった。法律もなければ警察もない世界では、人が人を殺して平気でいることがあるかも知れない。けれども殺すものは、殺し損えば殺されるのだ。それだけの覚悟さえあれば、何をしたって差支えのない事だ。殺すほどの気になってから、人は人の生命が大切になるんだ。卑怯な奴にはそんなことの解りようはないと思うと、早く千島に行きたいと思った。

沼田は酒を飲まなかった。けれども、宿直の晩などに、池田が酒を飲んでいると、

「一つ聞かしてやるか」と、二上りなんかをよく謳った。錆のある通った声が、人気のない夜の山に静かに響いた。

時には池田があまり遊び過ぎると、

「お前、鋳掛の松が海坊主の清吉に、人間は余り女ばかりこさえていると、根性骨が腐っちまうって、言ったことを知ってるか」と、砕けて意見をすることもあった。池田よりは二月ほどもおくれて、沼田が来てからの日を思うと、ただ二人丈けで暮して来たように思われる。沼田を置いて自分だけ出て行くと言うことは、池田の心を苦しめた。

林の外れに出ると、四辺はまた明るくなった。草原にはまだ温いいきれが残って、ほてった土が、黙って歩いて行く足元に軽く立ち上った。

「あんな馬鹿につつかれて出て行くな、下らないこったな」と沼田は思い出したように言った。

「下らないことだよ。然しあんな馬鹿はなぐりでもしなけりゃ此方の気持が解らないんだからな、なぐりゃ止さなきゃならないし、詰らない話さ」

二人はそれきり黙ってしまった。村境の峠を登った時は、空は赤くなっていた。涼しい夕風が吹き初めたので、木々の葉は蘇ったように、サラサラと鳴っていた。

峠の下の茶屋の前に来た時に、池田は、

「ともかく俺は此処で飲んで行くよ、帰ったって喧嘩も出来ないで、ふくれていたってつまらないから」と言って立ち止った。

「今夜飲めば、それこそ何か言われる種だぞ」

沼田は気遣わしそうに言った。

「種でもいいさ、奴等が何か言ったら、それをきっかけに此方だって何かやるさ」と池田が笑ったので、

「それもそうだな、まあ遊んで行け、俺も後から来るかも知れない」と言って、沼田は左の方の畑を登って行った。

池田は茶屋の二階に登ると、無暗に酒を飲んだ。

其処からは、事務所の屋根や障子もよく見えた。彼は少し酔うと、大きな声で歌をうたった。燈火のつく頃には、彼の周囲で手足の太い女たちが、踊ったり笑ったりしていた。

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