全体の一人
陀田勘助
独房の中にたった独りでいるおれは決して孤立したものでない全体の中の部分だ!おれはどこから生れてき、また何を背負っているか!両親のまた両親とおれの系統をたどってゆくとき、おれの前には数万人の祖先が立っている独房の中にいるたった独りのおれの身体は数万人の祖先の血と肉で組織されているのだそして、物質の組織――神経系統に花咲いた精神も、それゆえに数万人の――いやもっ
공개저작물 세계 지식 라이브러리
陀田勘助
独房の中にたった独りでいるおれは決して孤立したものでない全体の中の部分だ!おれはどこから生れてき、また何を背負っているか!両親のまた両親とおれの系統をたどってゆくとき、おれの前には数万人の祖先が立っている独房の中にいるたった独りのおれの身体は数万人の祖先の血と肉で組織されているのだそして、物質の組織――神経系統に花咲いた精神も、それゆえに数万人の――いやもっ
国枝史郎
全体主義とか全体主義国家とかいうことが盛んに云われている。日本が全体主義国家であるか無いかに就いては私は云わない。いや、むしろ、日本の国を、全体主義というような、外国伝来の言葉をもって範疇づけることは、その特殊の国体から云って不当であろうと思う。 しかし、今日の場合、日本民衆に、全体主義の如何なるものであるか、そうして、現在の日本の国情に於ては、全体主義の内
桑木厳翼
人の感興を惹くものは流行する、流行すれば摸倣も出現する、摸倣には巧みなものも拙いものもある、拙いものには非難が伴ふのも当然である。それでなくとも、流行には直ちに反対したくなる気持ちの人もある。それで随筆が人気に投じて流行を極めると、一方には又之を呪ふ声も聞える。人々が随筆を書いたり又読んだりするのは、畢竟思索の低落した為めだといふ。或はさういふこともあるかも
北原白秋
静かにすゝむ時の輪の 軋つたへて幽かにも―― 白光、小鳥にゆるゝごと 明日の香ゆらぐ夢の浪 薄紫にたゞよひて 白帆張りゆく霊の舟 円らに薫る軟かぜの 千里の潮の楽の音と 人が息吹は力ある いのちの韻、永久に 血の脈搏と大闇の 沈黙やぶりて響くまで―― 神澄みわたる雪の夜の 聖きひと夜を神秘なる 天の摂理と黙示との 悟うるべく厳かに 書万巻の廬をいでゝ 雪に清
田中貢太郎
八人みさきの話 八人みさきの話 田中貢太郎 「七人御先(みさき)」 高知市の南に当る海岸に生れた私は、少年の比(ころ)、よくこの御先の話を耳にした。形もない、影もない奇怪な物の怪(け)の話を聞かされて、小供心に疑いもすれば、恐れもしたものだ。 「彼(あ)の人は、七人御先に往き逢うたから、病気になった」 外出していて不意に病気になったり、頓死したりする者がある
太宰治
八十八夜 太宰治 諦めよ、わが心、獣の眠りを眠れかし。(C・B) 笠井一さんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに、呆けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ
喜田貞吉
昭和三年七月発行関西考古会の機関雑誌『考古』第三号において、余輩は未熟なる「曲玉考」一篇を発表して管見を学界に問うたことがあった。要はいわゆる曲玉なる名称が、今日の人々の普通に考うるごとく勾形をなす一種の玉のことではなく、本来はいわゆる玉の緒をもって数個の玉を連ねたもの全体の称呼であったというにある。しかしながら、当時材料すこぶる不備であって、その後新たに考
古川緑波
名古屋ってとこ、戦前から戦争中にかけて、僕は好きじゃなかった。名古屋へ芝居で来る度に、ああまた名古屋か、と、くさったものだ。というのは、食いものが、何うにも面白くなかった。 一口に言えば、名古屋ってとこ、粗食の都だったんじゃないか。それが、戦後は、変りましたね、食いもの屋の多いこと、贅沢になったこと、驚くべし。 だから、戦後は、名古屋行きは、苦にならない。
土田耕平
私が幼いころ、一ばんさきにおぼえた字は、八といふ字でありました。これは、先生から習つたのではない、山が教へてくれた字であります。 村のうしろに、雑木山が二つ向きあつてゐる間から、擂鉢をふせたやうな形の山が、のぞいてゐて、そのまん中どころに、大きな八の字が書いてあるのです。それは、岩のかたまりが、裾ひろがりに二すぢ長くつづいてゐるのでしたが、とほくから見ると、
土田耕平
八ノ字山の 八ノ字ゴウロ 雪がこんこん ふつてゐる どこのお家も 戸をしめて 昼まも夜さも 知らん顔 冬の神さま 早よ去んで あかるい春に なつてくれ 八ノ字ゴウロに 菫が咲いて 雉子がケンケン なく春に ●図書カード
亀井勝一郎
私は北海道の南端の海辺に育ったので、若いときから山国というものが大へんめずらしかった。 北海道も石狩平野から奥へすすむと山国同様だが私はその地方は殆んど知らない。朝夕に津軽海峡を眺めて暮してきたので、周囲の全部が山また山という風景に接すると異様な感じを与えられる。初夏のみどりで全山が蔽われ、眼にうつるもの悉くみどりといった中で、私は目まいしそうな状態になるこ
松濤明
松濤明 単独昭和十六年八月十一日 曇時々雨清里(七・四〇)―大門沢本流(一一・〇〇)―バットレス下(一三・二〇)―リッジ(一三・五〇~一四・〇〇)―赤岳北峰(一四・二五~一四・三〇)―清里(一六・三五) 甲府で駅弁を買いそこね、小淵沢のチャチなチラシで朝食をしたため、初めから終りまで顎を出した一日。大門沢下部では複雑な地形に手痛くほんろうされる。両俣とも被っ
木暮理太郎
八ヶ峰というのは、鹿島槍ヶ岳と五竜岳との間にある山稜の一大断裂に名付けられた称呼であって、峰とは呼ばれているが実は隆起した地点ではない。此断裂の特色は山稜が歪なU字形にくびれて、越中人夫の所謂「窓」を形造り、其儘一直線に急峻なる越中側の山腹を抉って、五百米も下の東谷(南五竜沢)の雪渓まで続いていることである。上部に於ては底は稍や平であるが、左右の岩壁は、鹿島
折口信夫
春のはじめに、私は「八島」を語らうと思ひ立つた。ところは屋島であり、祝つて八島・矢島と言ふやうな字面を何時の代からか、用ゐ出した勝ち修羅物である。 一つは、此国の昔に戻つた気風の漲つて居る時である。一つは、白秋さんの生国柳川に近い昵み深い大江の幸若の舞の詞にも、縁の濃いもので、この親友の健康を祝賀する心には、大いに叶ふものがあると思ふのである。又私にも一つ、
楠山正雄
八幡太郎 楠山正雄 一 日本のむかしの武士で一番強かったのは源氏の武士でございます。その源氏の先祖で、一番えらい大将といえば八幡太郎でございます。むかし源氏の武士は戦に出る時、氏神さまの八幡大神のお名を唱えるといっしょに、きっと先祖の八幡太郎を思い出して、いつも自分の向かって行く先々には、八幡太郎の霊が守っていてくれると思って、戦に励んだものでした。 八幡太
中谷宇吉郎
もう二十年以上も昔の話であるが、寺田寅彦先生が、墨流しの研究をされたことがある。この研究は、墨と硯との研究に発展し、東洋の墨は、非常に不思議な性質を持っていることがわかった。 この研究は、先生の晩年のいろいろ多方面にわたる研究の中でも、とくに注目すべき業績である。しかしこの研究が完成を見ないうちに、先生は亡くなられてしまった。 一番惜しい点は、この研究が、日
中谷宇吉郎
もう十年昔の話になるが、学士院賞を貰った時に、その金で『東瀛珠光』と『西域画聚成』とを買ったことがある。 学士院賞というものは、私たちが中学へはいって間もない頃創められたもので、賞金は千円であった。当時千円という金額が決められたのについて、もちろん嘘ではあろうが、京童はこういうかげ口をきいたものだそうである。即ち、学者は一生研究していても、到底自分の家を持つ
宮沢賢治
さやかなる夏の衣して ひとびとは汽車を待てども 疾みはてしわれはさびしく 琥珀もて客を待つめり この駅はきりぎしにして 玻璃の窓海景を盛り 幾条の遙けき青や 岬にはあがる白波 南なるかの野の町に 歌ひめとなるならはしの かゞやける唇や頬 われとても昨日はありにき かのひとになべてを捧げ かゞやかに四年を経しに わが胸はにはかに重く 病葉と髪は散りにき モート
宮沢賢治
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」 西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。 「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってそう云いましたらもうその風は海の青い暗い波の上
中谷宇吉郎
この頃反故を整理していたら、報告の下書の束が出て来た。終戦直後に、研究室の机の上にあったそういう種類の紙類を、一括して戸棚の奥に放り込んでおいたものである。 戦争中は、一日一日を追いかけられるような気持で、いろいろな問題を乱雑にやり散らして来た。今少し落着いた気持で、その頃書いた報告の草稿を出してみると、悪夢にうなされていたような当時の切羽つまった気持が、草
国枝史郎
久しぶりで江戸川氏の力作を発表したので、しっかりした第一義の拙評をしたいと思って居りますがまだ準備が出来て居りませんので、他日にゆずる事にします。左に所感一束を。(一)探偵小説不振の声また起る。起す人が作家自身であるので、気の毒だ。(二)山下利三郎氏盛に探偵小説界を叱咤す。傾聴すべき言あり。(三)小酒井不木氏そろそろ探偵小説界隠退の意をほのめかす。だから今後
長谷川時雨
八歳の時の憤激 長谷川時雨 隨筆家としての岡本綺堂を語れといはれて、「明治劇談・ランプの下にて」の中の、ある一章を思ひ出した。 明治十二年、岡本先生八歳、父君にともなはれて新富座の樂屋に九代目市川團十郎をたづねたとき、坊ちやんも早く大きくなつて、好い芝居を書いてくださいと、笑ひながら言はれたのを、ただ、それだけならば、單に當座の冗談として聞き流すべきだつたが
内田魯庵
八犬伝談余 内田魯庵 一 『八犬伝』と私 昔は今ほど忙しくなくて、誰でも多少の閑があったものと見える。いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活が約しかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵潰されてしまったろうが私の青年時
三遊亭円朝
八百屋 三遊亭円朝 亭「今帰つたよ。女房「おやお帰りかい、帰つたばかりで疲れて居やうが、後生お願だから、井戸端へ行つて水を汲んで来てお呉れな、夫から序にお気の毒だけれど、お隣で二杯借たんだから手桶に二杯返してお呉れな。亭「うーむ、水まで借りて使ふんだな。妻「其代りお前の嗜な物を取て置いたよ。亭「え、何を。妻「赤飯。亭「赤飯、嬉しいな、実ア今日なんだ、山下を通