Chapter 1 of 1

Chapter 1

青年と死

芥川龍之介

×

すべて背景を用いない。宦官が二人話しながら出て来る。

――今月も生み月になっている妃が六人いるのですからね。身重になっているのを勘定したら何十人いるかわかりませんよ。

――それは皆、相手がわからないのですか。

――一人もわからないのです。一体妃たちは私たちよりほかに男の足ぶみの出来ない後宮にいるのですからそんな事の出来る訣はないのですがね。それでも月々子を生む妃があるのだから驚きます。

――誰か忍んで来る男があるのじゃありませんか。

――私も始めはそう思ったのです。所がいくら番の兵士の数をふやしても、妃たちの子を生むのは止りません。

――妃たちに訊いてもわかりませんか。

――それが妙なのです。色々訊いて見ると、忍んで来る男があるにはある。けれども、それは声ばかりで姿は見えないと云うのです。

――成程、それは不思議ですね。

――まるで嘘のような話です。しかし何しろこれだけの事がその不思議な忍び男に関する唯一の知識なのですからね、何とかこれから予防策を考えなければなりません。あなたはどう御思いです。

――別にこれと云って名案もありませんがとにかくその男が来るのは事実なのでしょう。

――それはそうです。

――それじゃあ砂を撒いて置いたらどうでしょう。その男が空でも飛んで来れば別ですが、歩いて来るのなら足跡はのこる筈ですからね。

――成程、それは妙案ですね。その足跡を印に追いかければきっと捕まるでしょう。

――物は試しですからまあやって見るのですね。

――早速そうしましょう。(二人とも去る)

×

腰元が大ぜいで砂をまいている。

――さあすっかりまいてしまいました。

――まだその隅がのこっているわ。(砂をまく)

――今度は廊下をまきましょう。(皆去る)

×

青年が二人蝋燭の灯の下に坐っている。

B あすこへ行くようになってからもう一年になるぜ。

A 早いものさ。一年前までは唯一実在だの最高善だのと云う語に食傷していたのだから。

B 今じゃあアートマンと云う語さえ忘れかけているぜ。

A 僕もとうに「ウパニシャッドの哲学よ、さようなら」さ。

B あの時分はよく生だの死だのと云う事を真面目になって考えたものだっけな。

A なあにあの時分は唯考えるような事を云っていただけさ。考える事ならこの頃の方がどのくらい考えているかわからない。

B そうかな。僕はあれ以来一度も死なんぞと云う事を考えた事はないぜ。

A そうしていられるならそれでもいいさ。

B だがいくら考えても分らない事を考えるのは愚じゃあないか。

A しかし御互に死ぬ時があるのだからな。

B まだ一年や二年じゃあ死なないね。

A どうだか。

B それは明日にも死ぬかもわからないさ。けれどもそんな事を心配していたら、何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ。

A それは間違っているだろう。死を予想しない快楽ぐらい、無意味なものはないじゃあないか。

B 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと思うが。

A しかしそれでは好んで欺罔に生きているようなものじゃないか。

B それはそうかもしれない。

A それなら何も今のような生活をしなくたってすむぜ。君だって欺罔を破るためにこう云う生活をしているのだろう。

B とにかく今の僕にはまるで思索する気がなくなってしまったのだからね、君が何と云ってもこうしているより外に仕方がないよ。

A (気の毒そうに)それならそれでいいさ。

B くだらない議論をしている中に夜がふけたようだ。そろそろ出かけようか。

A うん。

B じゃあその着ると姿の見えなくなるマントルを取ってくれ給え。(Aとって渡す。Bマントルを着ると姿が消えてしまう。声ばかりがのこる。)さあ、行こう。

A (マントルを着る。同じく消える。声ばかり。)

夜霧が下りているぜ。

×

声ばかりきこえる。暗黒。

Aの声 暗いな。

Bの声 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だった。

Aの声 ふきあげの音がしているぜ。

Bの声 うん。もう露台の下へ来たのだよ。

×

女が大勢裸ですわったり、立ったり、ねころんだりしている。薄明り。

――まだ今夜は来ないのね。

――もう月もかくれてしまったわ。

――早く来ればいいのにさ。

――もう声がきこえてもいい時分だわね。

――声ばかりなのがもの足りなかった。

――ええ、それでも肌ざわりはするわ。

――はじめは怖かったわね。

――私なんか一晩中ふるえていたわ。

――私もよ。

――そうすると「おふるえでない」って云うのでしょう。

――ええ、ええ。

――なお怖かったわ。

――あの方のお産はすんで?

――とうにすんだわ。

――うれしがっていらっしゃるでしょうね。

――可哀いいお子さんよ。

――私も母親になりたいわ。

――おおいやだ、私はちっともそんな気はしないわ。

――そう?

――ええ、いやじゃありませんか。私はただ男に可哀がられるのが好き。

――まあ。

Aの声 今夜はまだ灯がついてるね。お前たちの肌が、青い紗の中でうごいているのはきれいだよ。

――あらもういらしったの。

――こっちへいらっしゃいよ。

――今夜はこっちへいらっしゃいましな。

Aの声 お前は金の腕環なんぞはめているね。

――ええ、何故?

Bの声 何でもないのさ。お前の髪は、素馨のにおいがするじゃないか。

――ええ。

Aの声 お前はまだふるえているね。

――うれしいのだわ。

――こっちへいらっしゃいな。

――まだ、そこにいらっしゃるの。

Bの声 お前の手は柔らかいね。

――いつでも可哀がって頂戴な。

――今夜は外へいらしっちゃあいやよ。

――きっとよ。よくって。

――ああ、ああ。

女の声がだんだん微な呻吟になってしまいに聞えなくなる。

沈黙。急に大勢の兵卒が槍を持ってどこからか出て来る。兵卒の声。

――ここに足あとがあるぞ。

――ここにもある。

――そら、そこへ逃げた。

――逃がすな。逃がすな。

騒擾。女はみな悲鳴をあげてにげる。兵卒は足跡をたずねて、そこここを追いまわる。灯が消えて舞台が暗くなる。

×

AとBとマントルを着て出てくる。反対の方向から黒い覆面をした男が来る。うす暗がり。

AとB そこにいるのは誰だ。

男 お前たちだって己の声をきき忘れはしないだろう。

AとB 誰だ。

男 己は死だ。

AとB 死?

男 そんなに驚くことはない。己は昔もいた。今もいる。これからもいるだろう。事によると「いる」と云えるのは己ばかりかも知れない。

A お前は何の用があって来たのだ。

男 己の用はいつも一つしかない筈だが。

B その用で来たのか。ああその用で来たのか。

A うんその用で来たのか。己はお前を待っていた。今こそお前の顔が見られるだろう。さあ己の命をとってくれ。

男 (Bに)お前も己の来るのを待っていたか。

B いや、己はお前なぞ待ってはいない。己は生きたいのだ。どうか己にもう少し生を味わせてくれ。己はまだ若い。己の脈管にはまだ暖い血が流れている。どうか己にもう少し己の生活を楽ませてくれ。

男 お前も己が一度も歎願に動かされた事のないのを知っているだろう。

B (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。ああどうしても己は死ななければならないのか。

男 お前は物心がつくと死んでいたのも同じ事だ。今まで太陽を仰ぐことが出来たのは己の慈悲だと思うがいい。

B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負って来るのはすべての人間の運命だ。

男 己はそんな意味でそう云ったのではない。お前は今日まで己を忘れていたろう。己の呼吸を聞かずにいたろう。お前はすべての欺罔を破ろうとして快楽を求めながら、お前の求めた快楽その物がやはり欺罔にすぎないのを知らなかった。お前が己を忘れた時、お前の霊魂は飢えていた。飢えた霊魂は常に己を求める。お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。

B ああ。

男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れていた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。

B ああ。(仆れて死ぬ。)

男 (笑う)莫迦な奴だ。(Aに)怖がることはない。もっと此方へ来るがいい。

A 己は待っている。己は怖がるような臆病者ではない。

男 お前は己の顔をみたがっていたな。もう夜もあけるだろう。よく己の顔を見るがいい。

A その顔がお前か? 己はお前の顔がそんなに美しいとは思わなかった。

男 己はお前の命をとりに来たのではない。

A いや己は待っている。己はお前のほかに何も知らない人間だ。己は命を持っていても仕方ない人間だ。己の命をとってくれ。そして己の苦しみを助けてくれ。

第三の声 莫迦な事を云うな。よく己の顔をみろ。お前の命をたすけたのはお前が己を忘れなかったからだ。しかし己はすべてのお前の行為を是認してはいない。よく己の顔を見ろ。お前の誤りがわかったか。これからも生きられるかどうかはお前の努力次第だ。

Aの声 己にはお前の顔がだんだん若くなってゆくのが見える。

第三の声 (静に)夜明だ。己と一緒に大きな世界へ来るがいい。

黎明の光の中に黒い覆面をした男とAとが出て行くのが見える。

×

兵卒が五六人でBの死骸を引ずって来る。死骸は裸、所々に創がある。

――竜樹菩薩に関する俗伝より――

(大正三年八月十四日)

Chapter 1 of 1