三
高村軍曹は毎朝初年兵の食事当番に依つて盛られて来る朝飯を、他の班長たちと一緒にその下士室で喰べかけてゐた。彼が一箸はさんで口に入れると、その後から水にふやけて白茶けた大きな鼠の糞が出て来た。彼はハツとして慌てゝ他の下士たちの顔を見廻し、それから急いでその鼠の糞を食器の底の方へ押しかくして、そのまゝ箸を置いて了つた。彼は初年兵たちがわざと鼠の糞の処を選んで持つて来たとは思はなかつたが、しかし自分に対して注意を払はない初年兵たちに対して平気ではゐられなかつた。が、それよりも今は鼠の糞を他の同僚たちに見られるのをより以上怖れた。
高村軍曹の奴、甘いもんだから新兵にまでなめられてやがる――と思はれるのが辛かつた。しかし他の下士たちは夢中で自分達の飯をつついてゐたので、誰も高村軍曹の飯の中に鼠の糞のあるのを見たものはなかつた。彼は勃然と心の底から湧き出て来る憤りを押さへて、卓子の上に肱を突き両手で頭を抱へ込んでゐた。食器を下げに来るその食事当番に対してなんと云つて自分の怒りを浴びせかけてやらうか――と考へてゐたのであつた。
「軍曹殿、どうかしたんですか?」
つひ最近伍長になつた許りのIが、どこか人を小馬鹿にしたやうな色を、顔のどこかに潜ませながら心配げに訊いた。
「なに、少し頭痛がするもんだから……」
彼は努めて憤りをかくして余り気乗りのしない声で云つた。
間もなく当番が食器を下げに来た。彼は突嗟に首を擡げて、顔中を峻しくしてみたが、予期してゐたやうな呶鳴り声がどうしても喉から出なかつた。同僚たちの大勢居る中で、現にたつた今、頭が痛くて……なぞ云つた手前「なぜ俺の飯の中へ鼠の糞を入れて来たのだ!」とも云へなかつた。彼は爆発する許りに充満した胸の中の憤怒をじつとこらへた。まるで悪い瓦斯でもたまつたやうに、胸の辺がグーグー云つてゐた。
「演習整列!」
廊下で週番下士が呶鳴つた。同時に中隊内のあちこちから騒々しく、銃だの剣だのがガチヤガチヤ鳴り出した。
彼は物憂さうに立ち上つて自分も仕度をはじめた。で、直ぐに営庭に飛び出して、中隊からぞろ/\出て来る新兵たちの動作を見守つた。今日に限つて自分の班の新兵たちの動作が殊に他の班と比較してのろ/\してるやうに思はれた。顔つきまでがどれもこれも野呂間げて見へた。片つぱしから行つて横つ面を張り倒してやつたら、奴らの野呂/\した動作も、野呂間げた顔つきが直りはしないか――と思はれた。さう思ふと右の腕がむづむづし初めて来て、兎ても凝乎としてゐられなくなつて来た。「ピシーツ」と云ふ音を二つ三つ聞いたら、この胸の中にたまつた悪い瓦斯のやうなものが気持よく抜け出して了ふだらうと云ふやうな気がした。
誰れか殴つてもいゝやうな頓間な事をしてる奴はないだらうか――彼の眼は本能的にさうした者を探つてゐた。しかしのろ/\はしてゐても、殴つてもいゝといふ程の失策をやらかしてゐる者は見当らなかつた。
「何をぐづ/\してゐる、早く出て来い!」
彼は中隊の出入口に立つて、ボツリボツリ出て来る者に向つて叫んだ。
彼はすつかり出揃つて、いつもの位置に隊形を作つてる初年兵の顔を見ながら云つた。
「いま一番あとから遅れて出て来た十人はここへ出ろ! 早駆けをさせてやる。からだが軽くなつてこれから何かするのに非常に敏捷になつて好い」
高村軍曹に睨まれた十人はおづ/\と一歩前へ踏み出した。そしてその前に一列にならんだ。
「早駆け用意――ツ」と云ひながら高村軍曹は営庭の一番隅にある一本の松の木を示して「よーしツ」と振り上げてゐた右手を颯つと下におろした。
十人は競馬の馬のやうに走り出した。「遅れたものはもう一遍やり直させるぞ!」と、高村軍曹の声が更に彼等のあとを追つかけた。
見る/\彼等の姿は小さくなつて目標の松の木に近づいた。彼等がそこでぐるツと方向を転廻してこつちに向つた時には、先頭の者と後尾の者とでは可なり距離が出来てゐた。彼等はどん/\走る。彼等の姿はまた見るうちに大きくなつてこつちへ近づいて来る。間もなく彼等は高村軍曹の前でぴたりと止まつた。遅れた者も先頭の者もなく、十人の者が殆どゴチヤ/\とかたまつて来たのであつた。
高村軍曹は不快な表情をして顔を反けた。何んといふ横着な奴共だらう。皆んな相談してかたまつて来たんだ――と思ふと、自分が如何にもばかにされたやうに思はれて大勢の手前気愧しくてならなかつた。で、二度と彼等を叱る気さへ出なかつた。
その時新兵教育主任の大原中尉が出て来た。下士官たちは皆んな敬礼をしに中尉の許へ飛んで行つた。彼等が帰つて来ると直ぐに教練が始められた。風のひどい日であつた。下士や上等兵の号令と一緒に、風が始終兵卒たちの耳もとで鳴つた。うつかりしてると号令の聞き分けられないやうな事があつた。
高村軍曹は端から順々に、いろんな各個教練をさせて行つた。次から次と列兵から十五歩位はなれた前方に立つて、「になへ――銃ツ」「捧げ――銃ツ」と号令をかけてゐた。
彼はさうやつて一巡するとまた元の位置へ戻つて来て「立ち撃ちの構へ――銃ツ」と、右翼の一人に号令をかけた。その時突然砂礫を飛ばしながら突風がやつて来て、高村軍曹の号令を掻き消して行つた。号令をかけられた兵はこの瞬間、もじ/\と間誤ついてゐたが直ぐに、膝を折り敷いて膝打ちの構への姿勢を取つた。
怒気を漲らした高村軍曹の顔が礫のやうに飛んで行つた。かと思ふとその右手はいきなり膝打の構をしてゐる兵の左の頬を力任せに殴りつけた。パシツと云ふ緊縮した響きと殆ど同時に「アツ」と云ふ叫びが、殴られた兵の口から洩れて銃を構へたまゝ横倒しにぶつ倒れて了つた。高村軍曹は更に殴りつける用意をして右手を顫はしてゐたが、倒れた兵は却々起き上らない。倒れたまゝギラツと光る眼を高村軍曹に投げかけてぎゆつと左の耳の上を押へてゐる。
「馬鹿野郎!」高村軍曹はいきなり呶鳴りつけた。貴様は俺を……高村軍曹をなめてやがるんだらう、新兵の癖にしやがつて一体生意気だ!」
彼は更に靴でもつて倒れたまゝの兵の腰の辺りを蹴りつけて、元の場所へ戻つて行つた。此の時彼は急にあたりが明るくなつたやうに、いつもの快濶な自分に復つたやうな気がした。胸の中にたまつてゐた悪い瓦斯のやうなものが、いつなくなつたのかなくなつて、大声で何か唄ひ出したいやうな気さへしてゐた。
へえ、あいつを殴つたせいだ――彼はさう思つた。起き上つて服の埃を払つてる兵を見た時には、更にそれに違ひないと思つた。気がついて見るとそれは一年志願兵のTであつた。彼はこん時何んといふ理由もなく、T志願兵に対してふだん快く思つてない自分を思ひ出した。しかし殴る瞬間には、別にT志願兵だからと云つて意識してやつた訳けではなかつた。が、それがT志願兵であつたことを知ると一層胸の中が晴々して来た。矢つ張りやらうと思つたことは思ひ切つてやらなければ駄目だ――と、かう彼の胸は何かしら異常な大発見でもしたやうに叫んだ。
彼は自分が今非常に空腹であることを感じて来た。と、同時に鼠の糞の事も思ひ出した。宮崎の逃亡の事まで頭に浮んで来た。あの時から溜りはじめた胸の悪い瓦斯が、T志願兵の為めに爆発して四散したのだと思ふと、今度はT志願兵に対して何んとも云へない感謝の念が湧いて来るのだつた。
彼はチラツとT志願兵にその眼を向けた。何か昂奮したらしい青醒めたT志願兵の顔がふと、得体の知れない或る不安の影を彼の心に投げた。最初ポチツとした只の点のやうであつたその不安は、忽ちの内にその大きな黒い翼を拡げて折角晴々とした彼の胸の中をまた一杯にふさいで了つた。
午前の演習は終つた。高村軍曹はまるで砂を噛むやうにうまいのかまづひのかも知らずに昼飯を喰べて了つた。
午後の演習が始まつた。営庭に午前と同じやうな隊形で各班は陣取つた。番号をつけさすと一人足りなかつた。彼は頸をひねりながらもう一度番号のつけ直しを命じた。が、それでもやはり一人足りなかつた。折角癒着しかゝつた傷口をむりに引き裂くやうな苦痛が、彼の不安に閉ざされた胸をチクンと刺し貫いた。彼の胸に巣喰つてる宮崎の蝙蝠のやうな影像が、その傷口を咬み破つてるのだ。が、彼の眼は直ぐT志願兵が列中に居ないのに気がついた。得体の知れなかつただゞつ黝い今までの不安は、此の時パツと一塊りの爆弾となつて彼の心臓を打つた。
教練半ばに中隊当番が駆け足で彼の処へ来て云つた。
「高村軍曹殿! 週番士官殿がお呼でございます」
週番士官の室には青醒めたT志願兵が耳を繃帯して立つてゐた。彼が入つて行くと、志願兵の眼が冷たい皮肉な笑ひを湛へて彼を迎へた。それはすつかり銷沈し切つた彼の心をくわつとさせる程、不遜な眼であつた。
彼は凡てを直覚した。屹度鼓膜を破つたに違ひない。それを奴は週番士官に申告したのだ――と。もう結果は分り切つてゐた、自分がこれから当に踏まうとする運命の道が電光のやうに彼の頭に閃いた。
軍法会議――重営倉――官位褥奪――除隊――。これが彼の行くべき道であつた。
「高村軍曹!」
週番士官は静かに、そして厳かに云つた。が、彼の耳には入らなかつた。彼の全神経はT志願兵に対する極度の憎悪の為めにぶるぶる顫へてゐた。自分の前半生を捧げて築きかけた幻影を宮崎に依つて滅茶苦茶に打ちこわされた憤りが、今またT志顛兵に依つて倍加された怒りと悲しみの為めであらう。彼はもう自分で自分が分らなくなつて了つた。彼は頭がくら/\つとしたかと思ふと、「この野郎がツ!」と叫びながら猛然と、T志願兵に跳りかゝつた。
(「早稲田文学」大正10年8月号)
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