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メンデレーエフ
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メンデレーエフ
石原純
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Chapter 2 of 3

メンデレーエフの生涯

メンデレーエフは一八三四年の二月九日に、シベリアのトボルスクという町で生まれました。祖父が始めてこの町に来て、印刷工場を設け、新聞を発行していたのでしたが、父の代になってはそれも止めて、中等学校であるギムナジウムの校長を勤めました。ところがその子どもがたくさんあって、このドミトリ・イヴァノヴィッチは十四人の兄弟の一番の末子であったのですが、ごく幼ない頃からすぐれた才能をもっていたので、その将来に大いに望みをかけて育てられたのでした。併しそれから間もなく父は眼をわずらって、両眼とも見えなくなってしまいましたので、校長の役をも退かなくてはならなくなり、その後は僅かの恩給ぐらいでは一家の生活を支えることも困難になりました。これには母親も大いになやみましたが、元来が大いに勝気で、またなかなか賢明でもありましたので、近村にあったガラス工場を譲り受け、その経営を自分の手でうまくやって、大いに成功したということです。そしてこの工場の近くに粗末ながらも木造の教会堂を建てて、職工たちに宗教の有難さを説き聞かせ、平素はそれを村の子どもたちのための学校としました。このおかげで一家を支えることができたばかりでなく、村人たちからも大いに慕われるほどになりました。

ドミトリはこのような環境のなかで育ってゆきましたが、やがてトボルスクに追放されて来た一人の青年にいろいろと科学のことを教えられ、元来が数学や科学を好んでいた彼の才能は、そのおかげでずんずんと進んでゆきました。そしてそれを見て母親も大いに喜び、末たのもしく思っていたということです。ドミトリはやがてギムナジウムに入学し、数年の後にそこを卒業しましたが、この間に母の経営していたガラス工場がうまく立ちゆかなくなったばかりでなく、父も眼疾の外に肺をわずらって亡くなってしまい、母はひとりでさまざまの苦労を重ねました。その年齢ももはや五十七歳にもなっていたので、健康も衰えていたのですが、そのうちに工場が火事で焼けてしまいました。それでも母はくじけることなく、ドミトリを大学に入学させたいと思って、トボルスクから遥々とモスクワを目指して旅に出ました。そしてモスクワに到着して、大学の入学試験を受けさせました。ところが、ドミトリはこれには失敗したので、更にセント・ペテルスブルグ(現在のレニングラード)までも赴いて、そこで漸く大学へ入学することができました。母はそれに満足して大いに安心しましたが、間もなく病いにかかって亡くなったということです。これは一八五〇年のことでしたが、そのときの母の遺言が深くドミトリの感銘に値いし、彼が後に大きな仕事に成功するようになったのも、実にそのおかげであったと云われています。まことに彼を偉大な科学者に育て上げた母のけなげな努力はこの上もなく尊いものであったと云わなければなりますまい。

ドミトリはこの後、実に一生懸命に勉強しました。そして一八五六年に大学をすぐれた成績で卒業し、クリミヤ地方の学校に教師として赴任しましたが、やがて再びセント・ペテルスブルグに戻り、次いでフランスのパリやドイツのハイデルベルグに留学し、当時の名だかい学者であったレノー、ブンゼン、キルヒホッフなどの下で大いに研究を行ったので、これが彼の知識をすばらしく高めることになりました。そして一八六一年に故国に帰り、高等工業学校の教授に任ぜられましたが、一八六六年にはペテルスブルグ大学の教授となりました。

かくしてメンデレーエフは学者として大いに尊敬を受け、後にはヨーロッパの諸国の学会から名誉会員に推されたり、賞牌を贈られたりして、その輝かしい名声をますます高めましたが、ただその頃のロシヤにおける政治が徒らに民衆を圧迫する傾きのあったことに対しては、大いに不満を感じ、正しい道義の上からこれを難ずることなどもあったので、その国内では却って厚遇せられなかったとも伝えられています。大学教授としては、一八九〇年まで在職しましたが、その後度量衡局長となり、また枢密顧問官ともなりました。そして一九〇七年の二月二日に遂にこの世を去りましたが、遺骸はウォルコフスキー墓地の彼の母マリヤ・ドミトリエフナの墓処に相並んで葬られたということです。

Chapter 2 of 3
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