2
三味線背負った乞食坊主が、引掻くようにもぞもぞと肩を揺ると、一眼ひたと盲いた、眇の青ぶくれの面を向けて、こう、引傾って、熟と紫玉のその状を視ると、肩を抽いた杖の尖が、一度胸へ引込んで、前屈みに、よたりと立った。
杖を径に突立て突立て、辿々しく下闇を蠢いて下りて、城の方へ去るかと思えば、のろく後退をしながら、茶店に向って、吻と、立直って一息吐く。
紫玉の眉の顰む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、此方へぐったりと叩頭をする。
知らない振して、目をそらして、紫玉が釵に俯向いた。が、濃い睫毛の重くなるまで、坊主の影は近いたのである。
「太夫様。」
ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前の土間に、両膝を折っていた。
「…………」
「お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」
仮初に置いた涼傘が、襤褸法衣の袖に触れそうなので、密と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘に目を遣った。
立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も静に視ている。
五
しばらくすると、この旱に水は涸れたが、碧緑の葉の深く繁れる中なる、緋葉の滝と云うのに対して、紫玉は蓮池の汀を歩行いていた。ここに別に滝の四阿と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸を鎖さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の径から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣りに翳しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた白金の鸚鵡の釵、その翼をちょっと抓んで、きらりとぶら下げているのであるが。
仔細は希有な、……
坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。施与には違いなけれど、変な事には「お禁厭をして遣わされい。虫歯が疚いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状に掌で抱えて、首を引傾けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い液が垂れそうな塩梅。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの苦悩はございますまいぞ、お情じゃ、禁厭うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした白金の釵を、歯のうろへ挿入て欲しいのだと言う。
「太夫様お手ずから。……竜と蛞蝓ほど違いましても、生あるうちは私じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明に照らされますだけでも、この疚痛は忘られましょう。」と、はッはッと息を吐く。……
既に、何人であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り悪さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。……貴女様の膚の移香、脈の響をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の御血脈、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は止む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。
喘ぐわ、舐るわ!鼻息がむッと掛る。堪らず袖を巻いて唇を蔽いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白なる鵞鳥の七宝の瓔珞を掛けた風情なのを、無性髯で、チュッパと啜込むように、坊主は犬蹲になって、頤でうけて、どろりと嘗め込む。
と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す気味合。
指環は緑紅の結晶したる玉のごとき虹である。眩しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、とした顔色で、しっきりもなしに、だらだらと涎を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
不思議な光景は、美しき女が、針の尖で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた観客のごとく、呼吸を殺して固唾を飲んだ。
……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪先を頂く真似して、「かように穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて腑が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨いで、蹌踉状に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を視る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。恐縮や。……えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお拭きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた懐紙を、余儀なくちょっと逡巡った。
同時に、あらぬ方に蒼と面を背けた。
六
紫玉は待兼ねたように懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径へ行きましたか、坊主は、と訊いた。父も娘も、へい、と言って、大方そうだろうと言う。――もう影もなかったのである。父娘はただ、紫玉の挙動にのみ気を奪られていたろう。……この辺を歩行く門附みたいなもの、とまた訊けば、父親がついぞ見掛けた事はない。娘が跣足でいました、と言ったので、旅から紛込んだものか、それも分らぬ。
と、言ううちにも、紫玉はちょいちょい眉を顰めた。抜いて持った釵、鬢摺れに髪に返そうとすると、や、するごとに、手の撓うにさえ、得も言われない、異な、変な、悪臭い、堪らない、臭気がしたのであるから。
城は公園を出る方で、そこにも影がないとすると、吹矢の道を上ったに相違ない。で、後へ続くには堪えられぬ。
そこで滝の道を訊いて――ここへ来た。――
泉殿に擬えた、飛々の亭のいずれかに、邯鄲の石の手水鉢、名品、と教えられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。どの座敷も寂寞して人気勢もなかった。
御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひらひらと一つ、葉ばかりの燕子花を伝って飛ぶのが、このあたりの御殿女中の逍遥した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思わせる。
すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、贈主なる貴公子の面影さえ浮ぶ、伯爵の鸚鵡を何としょう。
霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を癒したはさることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝って、袖にも移りそうに思われる。
紫玉は、樹の下に涼傘を畳んで、滝を斜めに視つつ、池の縁に低くいた。
滝は、旱にしかく骨なりといえども、巌には苔蒸し、壺は森を被いで蒼い。しかも巌がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄じく響くのは、大樋を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠に灌ぐと聞く、戦国の余残だそうである。
紫玉は釵を洗った。……艶なる女優の心を得た池の面は、萌黄の薄絹のごとく波を伸べつつ拭って、清めるばかりに見えたのに、取って黒髪に挿そうとすると、ちっと離したくらいでは、耳の辺へも寄せられぬ。鼻を衝いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
雫を切ると、雫まで芬と臭う。たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思われたので。……
「ええ。」
紫玉はスッと立って、手のはずみで一振振った。
「ぬしにおなりよ。」
白金の羽の散る状に、ちらちらと映ると、釵は滝壺に真蒼な水に沈んで行く。……あわれ、呪われたる仙禽よ。卿は熱帯の鬱林に放たれずして、山地の碧潭に謫されたのである。……トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の獲ものに競うか、静なる池の面に、眠れる魚のごとく縦横に横わった、樹の枝々の影は、尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、一時に皆揺動いた。
これに悚然とした状に、一度すぼめた袖を、はらはらと翼のごとく搏いたのは、紫玉が、可厭しき移香を払うとともに、高貴なる鸚鵡を思い切った、安からぬ胸の波動で、なお且つ飜々とふるいながら、衝と飛退くように、滝の下行く桟道の橋に退いた。
石の反橋である。巌と石の、いずれにも累れる牡丹の花のごときを、左右に築き上げた、銘を石橋と言う、反橋の石の真中に立って、吻と一息した紫玉は、この時、すらりと、脊も心も高かった。
七
明眸の左右に樹立が分れて、一条の大道、炎天の下に展けつつ、日盛の町の大路が望まれて、煉瓦造の避雷針、古い白壁、寺の塔など睫を擽る中に、行交う人は点々と蝙蝠のごとく、電車は光りながら山椒魚の這うのに似ている。
忘れもしない、限界のその突当りが、昨夜まで、我あればこそ、電燭のさながら水晶宮のごとく輝いた劇場であった。
ああ、一翳の雲もないのに、緑紫紅の旗の影が、ぱっと空を蔽うまで、花やかに目に飜った、と見ると颯と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の種々の影に映った。
蓋し劇場に向って、高く翳した手の指環の、玉の矜の幻影である。
紫玉は、瞳を返して、華奢な指を、俯向いて視つつ莞爾した。
そして、すらすらと石橋を前方へ渡った。それから、森を通る、姿は翠に青ずむまで、静に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ重った不意の出来事に、心の騒いだのは争われない。……涼傘を置忘れたもの。……
森を高く抜けると、三国見霽しの一面の広場になる。赫と射る日に、手廂してこう視むれば、松、桜、梅いろいろ樹の状、枝の振の、各自名ある神仙の形を映すのみ。幸いに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。また……人の往来うさえほとんどない。
一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るように目に留った。
真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
一人がもう、空気草履の、媚かしい褄捌きで駆けて来る。目鼻は玉江。……もう一人は玉野であった。
紫玉は故郷へ帰った気がした。
「不思議な処で、と言いたいわね。見ぶつかい。」
「ええ、観光団。」
「何を悪戯をしているの、お前さんたち。」
と連立って寄る、汀に居た玉野の手には、船首へ掛けつつ棹があった。
舷は藍、萌黄の翼で、頭にも尾にも紅を塗った、鷁首の船の屋形造。玩具のようだが四五人は乗れるであろう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩に庵の見える、船主の料理屋にはもう交渉済で、二人は慰みに、これから漕出そうとする処だった。……お前さんに漕げるかい、と覚束なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから仔細ない。ただ、一ケ所底の知れない深水の穴がある。竜の口と称えて、ここから下の滝の伏樋に通ずるよし言伝える、……危くはないけれど、そこだけは除けたが可かろう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して仕誼を言いに行ったのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、あすこですわ。」と玉野が指す、大池を艮の方へ寄る処に、板を浮かせて、小さな御幣が立っていた。真中の築洲に鶴ケ島というのが見えて、祠に竜神を祠ると聞く。……鷁首の船は、その島へ志すのであるから、滝の口は近寄らないで済むのであったが。
「乗ろうかね。」
と紫玉はもう褄を巻くように、爪尖を揃えながら、
「でも何だか。」
「あら、なぜですえ。」
「御幣まで立って警戒をした処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何にもないんだそうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言って立てたんだそうですの、この旱ですから。」
八
岸をトンと盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思うほど、玉野は思ったより巧に棹をさす。大池は静である。舷の朱欄干に、指を組んで、頬杖ついた、紫玉の胡粉のような肱の下に、萌黄に藍を交えた鳥の翼の揺るるのが、そこにばかり美しい波の立つ風情に見えつつ、船はするすると滑って、鶴ケ島をさして滑かに浮いて行く。