一 静かな読書生活
受附の看守が指した直ぐ向側の『面会人控所』の扉は重く閉されてゐた。龍子は新しい足駄の歯がたゝきにきしむのを気にしながら静かに歩み寄つて其の扉に手をかけた。重い戸が半ば開くと、直ぐ正面に同志のMの蒼白い顔が見えた。
此の控所は、東京監獄の大玄関の取りつきの右側で、三間ばかりの奥行をもつたそのたゝきの土間にそふてゐる細長い室であつた。這入つて左へ突き当つた廊下へ上る扉口と入口を除いた外は、此の九尺に三間の細長い室の三方の壁には面会人の腰をかける為めの幅の狭い木の腰掛けが、恰度、棚のやうな工合に取りつけてあつた。廊下へ上る扉口と向き合つた南側の、前庭に面した壁の上の方に大きな窓が一つ開いてゐた。
Mは其の入口の正面に腰をかけてゐた。室の内には、傘や、下駄や、スリツパが、二三足おいてあつたが、面会人はMを除いた他には、三つか四つ位の子供を縞目もわからないやうな汚いねんねこで背負つた女房が一人隅つこにうづくまつてゐる外には誰もゐなかつた。
『もう済んで?』
思ひの外に人もゐず、ひつそりした室の内にMを見出した龍子は直ぐMの傍に腰を下しながらきいた。
『いや、まだです。僕は午後から――今S爺がY君に会つてゐる処』
『Sさんが? さう、ぢやあなたはWさんに会ふのね』
『えゝ、僕がY君のつもりでしたけれどSさんが先きに来てさう云ふ手続きをしてゐたもんだから――』
Mは昨日みんなで極めたのとは少し手順が違つて来た事を龍子に説明した。それから二人は、昨日、此処の未決にゐる四人が裁判所へ出た事を知つて、何うかして遇へないまでも皆んなでゐるのを知らせたいと思つて半日其処の仮檻の前に立ちつくしてゐた事や、思ひがけない四人の収檻についてのいろんな事を話し合つた。
『Mさん、あれも囚人のゐる処?』
開放された廊下への上り口から見える中庭の向ふの低い屋根を圧して高く聳え立つた家の側面が、フト龍子の注意を引いた。それは一と目見て、封建時代の古い牢獄を思はせるやうな頑丈な木造の建物だつた。黒つぽい褐色のぬり色が風雨に曝されて如何にも古めかしい色をしたのも、丸太を横に積み重ねたやうなその外壁の上の棟近くにある僅かに光りを採るばかりの、まるで動物の檻のような感じの四角な横木をはめた小な天井裏の窓も、Eが不断から云ひ馴らしてゐる『牢屋』と云ふ感を其のまゝ現はしてゐるとしか見えなかつた。で、龍子は、嘗つて此処の未決檻に多勢の同志と一緒にゐた事のあるMに聞いた。
『いゝえ、あれは違います。あれは屹度看守やなんかのゐる処でせう? 囚人のゐる処はあのもつと向ふにあるんです。僕等の同志の行く処は大抵四檻と八檻と云つて一番左側の棟になるんです。』
Mは其処からは見えない檻房の位置や構造などに就いて委しい説明をしながら、自然にいろんな事を思ひ出すと見えて、呑気な檻房生活の話をして聞かした。それは龍子も屡々Eからも聞いてゐた。龍子はMの話を聞きながら、Eから聞き知つた此の中でのいろんな挿話を思ひ出すと、今此処の独房の何の一つかに胡座をかいて読書をしてゐるEの姿をまざ/\と見るやうな気がするのだつた。
『半年や一年なら………………。』
牢屋の話が出るときまつてEはさう云つた。
『遮断生活も偶にはいゝもんだよ。ああ、暫く本を読まないな………………………。』
いろんな、下らない雑事におはれ通しで、疲れた時などは、彼は本当に静かな、何んの煩ひもなく読書三昧に暮らせる檻房生活を、染々としさうな調子で、よくさう云つた。
『Eは此の間N警察で会つた時に、二三ヶ月読書が出来さうだなんて呑気な事を云つて笑つてゐたけれど、他の三人は何うしてるでせう。Nでは皆んな一緒だつたから元気がよかつたけれど、別々になつてからはきつと心細くなつて悄気てるかも知れないわね』
龍子は、廿代の半ば以上を獄中にゐて、其処の生活には馴れ切つてゐると云ふよりは親しみをさへ持つてゐるEの事を考へると同時に、此度初めて、さう云ふ経験をする他の三人の人達の事も心配になつた。
『何あに大丈夫皆んな平気ですよ。それに未決だもの、着物はうんと着てゐるし、毛布もはいつてるし、弁当なんかいゝのが入れてあるし。U君は先刻H君が会つて差入れの事を云つたら、万国史と辞書がはいつたのならそれでもう申分なしだと云つてゐたさうですよ。W君だつてさうだ、悄気てるとすればY君だが――何あに、そんなに心配したもんでもありませんよ』
『其のYさんよ、彼の人ぢや昨日もTさんに散々当てこすられたり嫌味を云はれたりしたんですよ。Tさんでさへあゝだから他の人達は何んと云つてるか知れないわ。何うしてまた、うちの三人と、方角ちがひに帰る筈のYさんが一緒になつたのか知らないけれど、飛んだ人が仲間になつたわね。TさんなんかまるでEが無理にでも引つぱつて行つたやうな事を云つてゐるけれど、EとYは初めてあの晩、あの集会で会つた位のものぢやありませんか。それをわざ/\引つぱつて帰らうとするなんて事はなささうに思へるけれど。』
Yは、現在日本でのソシアリストの首領とされてゐるT氏とK氏を便つて最近に地方から出て来た青年だつた。そしてT氏の経営してゐるB社で働いてゐた。EとT氏とはいろんな点で従来は深いつながりを持つてゐたが此の五六年Eのアナーキストとしての旗幟が鮮明になると同時に思想的にも、感情的にも二人は折れ会ふ事が出来なくなつてゐた。自然、古くからの情実にからまれた同志が何方にもよらずさわらずにゐる外は、二人の周囲に集る顔ぶれも違つて来てゐた。で、Yの名前はかねて聞き知つてはゐたが、YがEに会つたのは、数日前の同志の集会の席で会つたのが初めてなのだつた。そして、其の夜遅く其処から帰る途中浅草のN警察に止められたのだつた。EとUWの三人は同じ亀戸の一つ家にゐるのだから一緒なのは不思議はないが、日比谷へ帰るべきYが一緒だつたと云ふ事は、他のものはどうしてもわからなかつた。しかし、それをEやWがわざわざ引つぱつて行つたものとは考へられなかつた。しかし二日前に龍子がT氏に会つたときT氏は、わざわざEが其処へ引つぱつて行つたかのやうな口吻で、Eの無謀を非難がましく龍子に当てつけた、少くとも、Yと云ふ連れのある際に無謀な事をしたものだと云ふ腹は明らかに龍子に見せつけられた。『Eの無茶』は、もう大分永い事、T氏達の間では、Eに対する唯一の批難だつた。しかしEにはまた、其の無茶にはちやんとした理由があるのであつた。龍子はT氏のその腹を見せられても軽蔑をこそ感ずれ、別に腹立たしいとは思はなかつた。しかし、もう一段、くだらない感情の為めに晦まされたT氏を見せつけられた時には、彼女はいろんな複雑した憎悪と憤りを感じずにはゐられなかつた。