Chapter 1 of 5

マラソン競走の優勝者、仏蘭西領アルジェリイ生れのエルアフイは少しばかり跛足を引きながら地下室の浴場に入つた。

一九二八年八月五日の夕暮であつた。そこはアムステルダム市外にあるオリンピック競技場に附属した浴場だ。八月とはいふものの、北欧のことであるから、アフリカの沙漠に育つた彼はすでに膚に秋を感じてゐた。午後の三時から二十六哩四分ノ一のマラソンコースを馳けとほした後で、空いろに赤い鶏を染め出した仏蘭西国代表選手のジャケットを脱ぐと、エルアフイはやはり幻覚を感じるほど疲れてゐた。大観衆の叫び声のなかで、彼の胸の赤い鶏に向つて前方から突進して来たやうに見えた真白な決勝点のテープ――これが今もなほ浴場の壁にはげしく上下に揺れて見えた。

彼は不意に耳をそばだてた。

夕暮の空にしみわたる吹奏楽を競技場の方角に聞いたやうに思つたのである。

「はてな、最後の走者が入つたのかな。」

吹奏楽は一瞬間に消え、アムステルダム発巴里行の急行列車の汽笛が長く尾をひいて横切つて行つた。彼はふと旅愁を感じた。

湯槽に仰向いたエルアフイの胸はまだ魚のやうに喘いでゐた。彼は人種学の教科書の教へるとほりに黒髪で、銅いろの額が広く、面長であつたが、その乱れた髪につけてゐる香油はパリ生粋のものだつた。巴里の下町の隣人たちが餞別にくれたコティの髪油である。彼は顔をしかめ、眼をつぶり、シャワーをねぢつて、降りそゝぐ温かい雨のなかで幻覚とも回想ともつかぬものに取りつかれてゐた。――運河のほとりの風車。白い雲。夏草。林。少女。犬。蝶。そして終始彼から十メートルとは離れずにせまつて来た智利人のプラザ。頬骨の出てゐる浮世絵の人物のやうな日本のヤマダ。麻いろの頭髪が青い運動着によく似合つた雄大な芬蘭のマルテリン。――勝者の到着を知らせる競技場の表門の古風な喇叭吹奏。歓声。そして最後に夕日の長い影のなかで彼を取り囲んだ新聞写真班。記録、二時間三十二分五十七秒。――と騒々しく通報してゐる声。そしてその直後、彼はいま浴槽のなかに寝てゐるやうに、フィールドの草のうへに夕焼雲にむかつて仰向けになり、写真の閃光を浴びてゐたのだ。……

扉がそつと開いた。選手団のマッサージ師が来た、と彼は思つた。すると、忍び込むやうに入つて来たのは、新聞記者の腕章をつけた若い男であつた。細面の、無邪気な眼ざしの、パリ好みの身なりをした男である。若い新聞記者は少しはにかみながら、まるで美術館の彫刻にでも近づくやうにエルアフイの裸体に近づいて来た。

エルアフイは狼狽し、タオルを腰に巻きつけながら怒鳴つた。

「誰だ。君は。どこの社だ。」

「ごめん下さい、ムッシュウ・エルアフイ。」記者は一層はにかんで顔を赤らめた。「僕は、その、ル・タン社の者です。」

「何社でもいかんよ。共同会見以外はお断りの約束だ。」とエルアフイは水滴のおちる手を振つた。「ましてこゝは風呂場だよ。そして僕は裸だよ。」

「済みません。済みません。よく分つてゐます。」記者は困惑して早口になつた。「僕もあなたと同じパリの人間です。しかもあなたと同じモンパルナスですよ。同じ町ですよ。あなたのマラソンの練習を毎朝同じ町角で見てゐたのです。日曜日の御ミサも同じ教会ですよ。」

「ぢやあM通りなのか。」

「さうです。さうです。巴里も世智がらい土地だけれど、ル・タン社もそれ以上に世智がらいですからね。編集長が私に各社を出し抜いて単独会見をやれと云ふのですよ。特別賞金をかけてね。そこで僕も考へましたよ。よし、最善を尽せとね。こゝにあなたの親友の紹介状があります。拳闘家のジョルジュのですよ。僕は重量挙げのルイも馳けまはつてさがしましたよ。しかしやつは今刑務所でした。みんな同じ町の生れですね。踊り子のアンナも御存じでせう。」

「もういゝ。もういゝ。」エルアフイは初めて笑顔を見せた。「さうだ。みんな同じ町だな。みんな今夜は喜んでゐるだらうな。今夜はキャッフェは陽気だらうな。――君は競走はどこで見たんですか。」

「復路十キロの運河のところです。」

「すると僕がすばらしい日本人に追ひついたところだな。」

「さうです。あのヤマダは足を痛めたやうですね。僕たちは快速艇のうへから声をからして応援しましたよ。生粋のパリ訛が耳に入りませんでしたか。」

「さう、聞えたやうに思つたな。美しい運河だつたな。」

「僕たちの声がよく水面に響きましたらう。」

「あの辺で涼しいそよ風を横から受けて、僕は急に元気を取り戻したんだ。――ところで君は何を聞きたいのだね。競走の経過はもう共同会見で話したが。」

「さうです。よく知つてゐます。そんなものぢやないのです。僕の欲しいのは特種なんです。」

「特種といふと。」

「あなたのロマンチックな生ひ立ちなんですよ。沙漠の少年がやがてオラムピアの勝者になる、といふ筋なんですよ。奇抜で色彩的なやつなんです。ジャン・コクトオの文章のやうなやつです。僕は本当は作家志望なんです。」

「生ひ立ちの記か。――砂と蠅のなかで育つた男に幼い日のロマンはないよ。」

「困りましたな。ムッシュウ・エルアフイはアルジェリイの何処のお生れなんですか。」

「ビスクラといふ小さな、小さな村だよ。チュニスから三百哩もある所だよ。」

「あのビスクラですか。」

「君はなんで又、名も無い村を覚えてゐるんだね。」

「或る小説で読んだのです。」

「なるほど。――その本は有名な本ぢやないかね。」

「いまのフランスの若い者はみな読んでゐますよ。」

「その作者は大変偉い方になつて居られるのではないかね。」

「フランスの誇ですよ。フランスのニーチェですよ。教会では悪魔のやうに云はれてゐるけれど。――しかしあなたこそ、運動選手のくせになぜ作家のことなぞを知つてゐるんですか。」

「僕はその人の若い時を知つてゐるんだ。――もしもその人が、君の考へてゐる人と同じならばね。――その人はわれ/\部落に長い間滞在してゐたんだ。その人はわれ/\土人の子供たちの偶像だつたのだ。」

「本当ですか。」記者は俄かに昂奮した。「これはすばらしい。あなたはその人の名をよく覚えてゐるんですね。」

「覚えてゐるとも。――その人は、アンドレ・ジッドとおつしやつた。――大変重い病気でいらしつた。それに心の病気もお持ちのやうだつた。――その人は白い文明人がきらひで、赤銅いろのわれ/\がお好きだつた。巴里女の花模様の衣裳がきらひで、馬や羚羊のつや/\した皮膚がお好きだつた。あの人は――不思議な人だつた。」

日が全く落ちた。マッサージ師が入つて来て、身体を拭き終へたエルアフイを隣の調整室の寝台へ案内した。記者はエルアフイの運動着と靴をかゝへて後に従つた。

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