Chapter 1 of 17

「おい、あの婆アさんが靈感を得て來たやうだぜ。」

「れいかんツて――?」

「云つて見りやア、まア、神さまのお告げを感づく力、さ。」

「そんな阿呆らしいことツて、ない。」

「けれど、ね、さうでも云はなけりやア、お前達のやうな者にやア分らない。――どうせ、神なんて、耶蘇教で云ふやうな存在としてはあるものぢやアない。從つて、神のお告げなどもないのだから、さう云つたところで、人間がその奧ぶかいところに持つてる一種の不思議な力だ。」

「そんなものがあるものか?」

「ないとも限らない――ぢやア、ね、お前は原田の家族にでもここにゐることをしやべつたのか?」

「あたい、しやべりやせん――云うてもえいおもたけれど、自分のうちへ知れたら困るとおもつて。」

「でも、あいつは、もう、知つてるぞ、森のある近所と云ふだけのことは。」

「森なら、どこにでもある。」

「さうだ、ねえ」と受けて、義雄はそれ以上の心配はお鳥に語らなかつた。無論、千代子が或形式を以つて實際お鳥を呪ひ殺さうとしてゐるらしいことも、お鳥には知らしてない。たださへ神經家であるのに、その上神經を惱ましめると、面倒が殖えるばかりだと思つてゐるからだ。

が、お鳥も段々薄氣味が惡くなつたと見え、日の經つに從つて、義雄の話を忘れるどころかありありと思ひ出すやうになつたかして、つひにはまた引ツ越しをしようと云ひ出した。もし知られると、今までにでも、云はないでいい人にまで目かけだとか、恩知らずだとか、呪ひ殺してやるだとか云つてゐるあいつのことだから、わざと近所隣りへいろんな面倒臭いことをしやべり立てるだらうからと云ふのである。

然し、この頃お鳥はおもいかぜを引いてとこに這入つてゐた。近所の醫者を呼んで毎日見て貰ふと、非常に神經のつよい婦人だから、並み以上の熱を持ち、それがまた並み以上に引き去らないのだと説明した。その上、牛込の病院に行けないので、一方の痛みも亦大變ぶり返して來た。

かの女は氣が氣でなくなつたと見え、獨りでもがいて、義雄にも聽えるやうに、

「何て因果な身になつたんだらう」と三疊の部屋で寢込みながら、忍び泣きに泣いた。おもての方の廣い、然し向う側の森から投げる蔭をかぶつた室――六疊――には、憲兵が三人で自炊する樣になつてゐた。

義雄は同じ家にゐる憲兵等に物も云ひかはさなかつたが、毎日、晝間からお鳥の看護に努めた。同時に、自分もひどい痔に惱んだ。

重吉からの返事は來ず、東京に殘つてゐる重吉の女房に問ひ合はせると、北海道の方をまはつてゐると云ふのであつた。義雄はまだ鑵詰の事業の手初めも出來ないのが、無聊の感に堪へなかつた。

丁度、その時、我善坊の方へいいハガキが屆いた。

「龍土會例會――一、時日――一、場所――一、會費――右御出席の有無○○區○○○町○○番地○○○○方へ御一報を乞ふ――年月日――幹事――」と、印刷摺りにしてある中へ、それぞれ必要な文字を入れたハガキであつた。

龍土會と云ふのは、おもに自然主義派と云はれる文學者連を中心としての會合で、大抵毎月一囘晩餐の例會を開くことになつてゐる。幹事は二名づつのまはり持ちで、この月には田島秋夢と今一名渠と同じ新聞社にゐる人の名が出てゐた。

義雄はこの會の最も忠實な常連の一人でもあるし、友人どもの顏も暫く見ないし、印刷を終つた自著『新自然主義』がいよ/\世間に出た當座の意氣込みもあつたことだし、喜んで出席することにした。そしてお鳥が、その日になつてもこちらの痔が惡くなるにきまつてるから止めて呉れろと頼んだのも承知しなかつた。

中の町から檜町の高臺にあがると、麻布の龍土町である。そこの第一聯隊と第三聯隊との間に龍土軒と云ふ佛蘭西料理屋がある。そこが龍土會の會場であつた。

義雄はそこに一番近いので、午後六時にはかツきり行つた。が、まだ誰れも來てゐない。

ボーイを相手に玉を突いてゐるうちに、人がぽつり/\集つて來た。そのうちの一人が玉場へ飛び込んで來て、

「どうだ、久し振りで負かさうか?」かう云つて直ぐキユウを取つた。例の歌詠みから株屋の番頭に轉じた男だ。「然し、ねえ」と、かの永夢軒に於ける義雄の失敗を持ち出して來て、

「また電球をぶち毀すのは眞ツ平だぜ。」

「あれはどこの玉屋へ行つてもおほ評判ですぜ」と、そばにゐたそこの主人が少しおほ袈裟に笑つた。

「もう、大丈夫だよ。」まじめ腐つて答へながら、義雄も臺に向つたが、いろんなことが氣にかかつて、もろく勝負に負けた。

「よせ/\」と呼びに來たものもあつて、義雄も二階にあがつた。

渠を見るのは近頃珍らしいので、皆が話をしかけた。

「君の著書をありがたう」と挨拶するものもある。

「あんな短い紹介だが、取り敢ず新刊紹介欄に載せて置いたよ」と云ふものもある。

「耽溺はどうなるのだらう」と、こちらが現代小説にやつた作のことを云ふものもある。

「君の女はどうした」と、ぶしつけに聽くものもある。

「顏の色が惡いが、過ぎるのだらう」と穿つたつもりでからかふものもある。

「また痔が惡くツて、ね、閉口してゐるのだ。」

「ぢやア、酒はやれまい」と、慰め顏に質問するものもある。が、渠はかた一方の耳がまだよくないので、左の方から云はれた言葉を度々聽き返したり、聽き落したりした。

やがて椅子が定まつて、日本酒の徳利がまはつた。

秋夢は幹事だから末席にゐる。渠は鋭い皮肉な短篇小説で名を出した人だが、外に「破戒」を書いた藤庵がゐる。「生」を書いた花村がゐる。劇場のマネジヤーを以つて任ずる内山がゐる。また外國新作物の愛讀者で、司法省の參事官をしてゐる西がゐる。その西が紹介した農商務省の山本といふ法學士がゐる。株屋の番頭がゐる。工學士の中里がゐる。麹町の詩人がゐる。琴の師匠の笛村がゐる。漫畫で知られる樣になつた杉田がゐる。或出版店の顧問、雜誌の編者等もゐる。

かう云ふ人々の中にあつて、いつも渠等の談話を賑はすのは田邊獨歩であつたが、今年の六月に肺病で死んでしまつた。餘り出席はしなかつたが、矢張り、會員であつた眉山は、獨歩の死ぬ少し前に自殺した。

眉山の自殺してから間もなく、茅ヶ崎海岸の獨歩の病室で、「この龍土會の會員の中で、誰れが眉山の次ぎに死ぬだらう」と云ふ話が出た。

「無論、田村の狂死、さ」と、毒舌家の病人は笑つて、「あいつが生きてるうちに、おれは死にたくない。」

さう言はれるほど、義雄も隨分毒舌の方であるし、それをあとで聽いた渠は曾て獨歩の思想をまだ舊式だと批評したことがあるのを思ひ出したりしたが、今夜は甚だ勢ひがない。酒は平氣で人並みに飮んでゐたが、持病のむづがゆく且痛むのを頻りにこらへてゐた。

花村は「鳥の腹」と云ふのを文藝倶樂部に出した男を捕へて、あの小説は描寫でない、下手な説明だ、きはどいところがあるのは構はないが、説明的だから、それを人に強ひるやうになつてゐる、挑發的だと云つて、發賣禁止になつたのも止むを得まい、などといぢめてゐた。

藤庵は、或新聞記者に向つて、謙遜らしく、人生の形式的方面をどう處分してゐればいいのだらうと云ふやうなことを質問してゐた。

西は内山や中里と共に頻りにイブセンやメタリンクやストリンドベルヒの脚本を批評し合つてゐた。

かう云ふ別々な話がいつまでも別々になつてゐないで、互ひに相まじはり、長い食卓のあちらからも、こちらからも、機の梭が行きかふ樣になつた時、義雄はその意味を取り違へたり、ただやかましい噪音が聽えたりする瞬間もあつた。それが如何にも殘念で、この耳だけに關して云つても、もう、これ等の人々と自由に話し合ふ資格がなくなつたのかとまで思つた。

「田村が乙に澄ましてゐやアがるので、今夜は少し賑やかでない、なア」と、株屋の番頭が云ふのが聽えた。「色をんなを持つと、ああおとなしくなるものか、なア?」

「けふは、何と云はれても、しやべる氣になれないのだ。」かう云つて、義雄は笑つたが、自分のいつも特別に注意を引くから/\笑ひも、それと好一對になつてゐる麹町の詩人の羅漢笑ひと云はれるのに壓倒された。

そして、花村の耳も鼻も目も内臟も、どこもかも健全で、而も巖乘な體格が何よりも羨ましくなつたと同時に、獨歩の死んだ時、茅ヶ崎へ集まつた席で、義雄は自分が花村に向つて、君は僕等すべての死んだあと始末をして、誰れよりもあとで死ぬ人だと云つたことを思ひ出した。

次の忘年會大會の幹事を義雄も引き受けた龍土會の歸りには、おも立つた人々よりも一時代あとの若手連が二三名、麹町の詩人と共に付いて來た、が、中の町の隱れ家へは連れ込むことをしたくなかつた。と云ふのは、自分の痔が果して酒の爲めに非常に不氣分になつた上に、お鳥がうんうん呻つて寢てゐるのを思つたからで、而もそれがたツた三疊のきたない部屋だもの――自分等の辨當を運ぶ辨當屋のある角で、渠等と無理に右と左にわかれた。

例のどぶを渡つて、戸を明けると、今夜は斷つてあつたので締りはしてなかつたが、醉つてゐるのと早く横になりたいとの爲めの荒ぢからで、自分の引き明けた戸はがらりと大きな音を立てた。

「お歸りですか」と、下のかみさんが、炬燵をしてある奧の方から聲をかけた。

「あ、只今」と答へて、渠は自分で戸締りをしてから、あがり段をあがつた。

あたまの上には、無學、無趣味、無作法、卑俗で、話と云へば、賤業婦の噂ばかりの憲兵連がゐるのを思ひ出した。

上にも下にも、こんな毛だ物同樣の野蠻人種が籠つてゐるほら穴より外に、義雄は自分の眠るところもない今の状態を考へて見た。

「吾人の頭腦は銀河に浴し、吾人の兩足は地獄のゆかを踏む」と云ふエマソンの警句が浮んだ。が、若しこのおほ袈裟な口調で自分の考へを發表すれば、地獄のゆかをも踏み破つて、而も天上に須佐之男の暴威の雄たけびをやつて見たいほど絶望的だ。

「こんな腐つたからだ! こんな死獸のたいを借りたやうなからだ! こんな多くの惡病氣の問屋をしてゐるやうなからだ! ひよツとすると、耳や鼻や痔は何物かの梅毒から來てゐはしないかと疑はれるからだ! ええツ! こんなからだはどうでもなれ」と、義雄は二階へあがつてから、自分で自分を投げ出した。

「どうしたの」と、お鳥はその重たさうな首を枕からもたげた。「お酒が惡かつたのだろ――だから、あんなに行くなと云うたのに。」

渠は默つて返事もしなかつたが、ほツこりと迫つて來る女のにほひを嗅いだ。渠には、鼻も亦右の方しか役に立つてゐないのだが、一方で僅かに嗅ぎ分けるこのにほひが、今のところ、たツた一つの慰めだ。この頃は、外のどぶの惡臭も氣にならなくなつた。この部屋へあがつて來るまで陰氣臭いことも、さう神經を惱ませなくなつた。その代り、お鳥のこの臭ひがどう嗅ぎ直して見ても、義雄には部落民臭くなつた。そのくせ、別にわき香か何かのやうにいやな感じを伴つてゐるのではないが――。

それでも、なほ、千代子の痩せて冷めたさうなところよりも、夜は、梅が香を包んでゐるやうに、此あツたかい臭ひのするところがいいのである。渠はこの臭ひがしないと、却つて寂しい、寂しい氣持ちになつた。

お鳥がまた別にかぜの醫者を呼んでゐるのに、義雄がまた耳に通ふほかに他の醫院を訪ふのは、自分で我慢してゐた。そして、隔日に行く學校へは缺勤屆を出した。が、堪へ切れなくなつて、或る肛門病院へ行つた。そして注射をして貰つたのが、藥の利き目でか、一層不氣分を増した。

「あたいにこんな二重の苦しみをさせるから、その罰で自分もうへした二重の病氣になつたのだ。」

「そりやア、さうかも知れない――許して呉れ」と云つて、義雄はそれをお鳥の氣休めに供し、その實、自分が苦しいのにかく女の看護までをしてやらなければならない面倒を少しでも避けるやうにした。

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