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雨月物語 03 校注 雨月物語
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雨月物語 03 校注 雨月物語
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Chapter 2 of 6

雨月物語 巻之一

一白峯

二あふ坂の関守にゆるされてより、三秋こし山の黄葉見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる四鳴海がた、不尽の高嶺の煙、五浮嶋がはら、六清見が関、七大礒小いその浦々、八むらさき艶ふ武蔵野の原、九塩竈の和ぎたる朝げしき、一〇象潟の蜑が苫や、一一佐野の舟梁、一二木曾の桟橋、心のとどまらぬかたぞなきに、猶西の国の歌枕見まほしとて、一三仁安三年の秋は、一四葭がちる難波を経て、一五須磨明石の浦ふく風を身に一六しめつも、行々一七讃岐の真尾坂の林といふにしばらく一八を植む。草枕はるけき旅路の労にもあらで、一九観念修行の便せし庵なりけり。

この里ちかき白峯といふ所にこそ、二〇新院の陵ありと聞きて、拝みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奥ふかく茂りあひて、二一青雲の軽靡く日すら小雨そぼふるがごとし。二二児が嶽といふ嶮しき嶽背に聳ちて、千仞の谷底より雲霧おひのぼれば、咫尺をも鬱悒きここちせらる。木立わづかに間きたる所に、土く積みたるが上に、石を三かさねに畳みなしたるが、二三荊蕀薜蘿にうづもれてうらがなしきを、これならん御墓にやと心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。

現にまのあたりに見奉りしは、二四紫宸清涼の御座に朝政きこしめさせ給ふを、百の官人は、かく賢しき君ぞとて、詔恐みてつかへまつりし。二五近衛院に禅りましても、二六藐姑射の山の瓊の林に禁めさせ給ふを、思ひきや、二七麋鹿のかよふ跡のみ見えて、詣でつかふる人もなき深山の二八荊の下に神がくれ給はんとは。二九万乗の君にてわたらせ給ふさへ、三〇宿世の業といふもののおそろしくもそひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。

終夜供養したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、経文徐かに誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。

三一松山の浪のけしきはかはらじを

かたなく君はなりまさりけり

猶心怠らず供養す。露いかばかり袂にふかかりけん。日は没りしほどに、山深き夜のさま三二常ならね、石の牀木の葉の衾いと寒く、神清み骨冷えて、三三物とはなしに凄じきここちせらる。月は出でしかど、三四茂きが林は影をもらさねば、三五あやなき闇にうらぶれて、眠るともなきに、まさしく三六円位々々とよぶ声す。

眼をひらきてすかし見れば、其の形異なる人の、背高く痩せおとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の色紋も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行もとより三七道心の法師なれば、恐ろしともなくて、ここに来たるは誰そと答ふ。かの人いふ。前によみつること葉のかへりごと聞えんとて見えつるなりとて、

三八松山の浪にながれてこし船の

やがてむなしくなりにけるかな

喜しくもまうでつるよ、と聞ゆるに、新院の霊なることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。三九濁世を厭離し給ひつることのうらやましく侍りてこそ、今夜の四〇法施に随縁したてまつるを、四一現形し給ふはありがたくも悲しき御こころにし侍り。ひたぶるに四二隔生即忘して、四三仏果円満の位に昇らせ給へと、情をつくして諫め奉る。

新院呵々と笑はせ給ひ、汝しらず、近来の世の乱は朕がなす事なり。生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、四四平治の乱を発さしめ、死して猶四五朝家に祟をなす。見よ見よ、やがて天が下に大乱を生ぜしめん、といふ。西行此の詔に涙をとどめて、こは浅ましき四六御こころばへをうけたまはるものかな。君はもとよりも四七聡明の聞えましませば、四八王道のことわりはあきらめさせ給ふ。こころみに討ね請すべし。そも四九保元の御謀叛は五〇天の神の教へ給ふことわりにも違はじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人慾より計策り給ふか。詳に告らせ給へと奏す。其の時院の御けしきかはらせ給ひ、汝聞け、帝位は人の極なり。若し人道上より乱す則は、天の命に応じ、民の望に順うて是を伐つ。抑五一永治の昔、犯せる罪もなきに、五二父帝の命を恐みて、三歳の五三体仁に代を禅りし心、人慾深きといふべからず。体仁早世ましては、朕が皇子の五四重仁こそ国しらすべきものをと、朕も人も思ひをりしに、五五美福門院が妬に五六さへられて、四の宮の五七雅仁に代を簒はれしは深き怨にあらずや。重仁五八国しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらばずも、天が下の事を五九後宮にかたらひ給ふは父帝の罪なりし。されど世にあらせ給ふほどは孝信をまもりて、六〇勤色にも出さざりしを、崩れさせ給ひてはいつまでありなんと、武きこころざしを発せしなり。六一臣として君を伐つすら、天に応じ民の望にしたがへば、六二周八百年の創業となるものを、まして六三しるべき位ある身にて、六四牝鶏の晨する代を取つて代らんに、道を失ふといふべからず。汝、六五家を出でて仏に婬し、六六未来解脱の利慾を願ふ心より、六七人道をもて因果に引き入れ、六八堯舜のをしへを釈門に混じて朕に説くやと、御声あららかに告らせ給ふ。

西行いよよ恐るる色もなく座をすすみて、君が告らせ給ふ所は、人道のことわりをかりて六九慾塵をのがれ給はず。遠く辰旦をいふまでもあらず。皇朝の昔、七〇誉田の天皇、兄の皇子七一大鷦鷯の王をおきて、季の皇子七二菟道の王を七三日嗣の太子となし給ふ。天皇崩御れ給ひては、兄弟相譲りて位に昇り給はず。三とせをわたりても猶果つべくもあらぬを、菟道の王深く憂ひ給ひて、豈久しく生きて天が下を煩はしめんやとて、七四みづから宝算を断たせ給ふものから、罷事なくて兄の皇子御位に即かせ給ふ。是れ七五天業を重んじ孝悌をまもり、忠をつくして人慾なし。堯舜の道といふなるべし。本朝に儒教を尊みて専ら王道の輔とするは、※道の王、百済の七六王仁を召して学ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟の王の御心ぞ、即て漢土の聖の御心ともいふべし。又、周の創、七七武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む、一夫の紂を誅するなりといふ事、七八孟子といふ書にありと人の伝へに聞き侍る。されば漢土の書は、経典七九史策詩文にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。八〇此の書を積みて来る船は、八一必ずしも暴風にあひて沈没むよしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我が国は天照すおほん神の開闢しろしめししより、日嗣の大王絶ゆる事なきを、かく口賢しきをしへを伝へなば、末の世に八二神孫を奪うて罪なしといふ敵も出づべしと、八百よろづの神の悪ませ給うて、神風を起して船を覆し給ふと聞く。されば他国の聖の教も、ここの国土にふさはしからぬことすくなからず。且八三詩にもいはざるや。八四兄弟牆に鬩ぐとも外の侮を禦げよと。さるを骨肉の愛をわすれ給ひ、八五あまさへ八六一院崩御れ給ひて、八七殯の宮に肌膚もいまだ寒えさせたまはぬに、御旗なびかせ弓末ふり立て宝祚をあらそひ給ふは、不孝の罪これより劇しきはあらじ。八八天下は神器なり。人のわたくしをもて奪ふとも得べからぬことわりなるを、たとへ重仁王の即位は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を布き和を施し給はで、道ならぬみわざをもて代を乱し給ふ則は、きのふまで君を慕ひしも、けふは忽ち怨敵となりて、本意をも遂げたまはで、いにしへより八九例なき刑を得給ひて、かかる鄙の国の土とならせ給ふなり。ただただ九〇旧き讐をわすれ給うて、浄土にかへらせ給はんこそ、願はまほしき叡慮なれと、はばかることなく奏しける。

院、長嘘をつがせ給ひ、今事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋に謫られて、九一高遠が松山の家に困められ、日に三たびの九二御膳すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只天とぶ雁の小夜の枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、暁の千鳥の洲崎にさわぐも、心をくだく種となる。九三烏の頭は白くなるとも、都には還るべき期もあらねば、定めて九四海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のためにとて、九五五部の大乗経をうつしてけるが、九六貝鐘の音も聞えぬ荒礒にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを洛の中に入れさせ給へと、九七仁和寺の御室の許へ、経にそへてよみておくりける。

九八浜千鳥跡はみやこにかよへども

身は松山に音をのみぞ鳴く

しかるに九九少納言信西がはからひとして、若し呪咀の心にやと奏しけるより、そがままにかへされしぞうらみなれ。いにしへより倭漢土ともに、国をあらそひて兄弟敵となりし例は珍しからねど、罪深き事かなと思ふより、悪心懺悔の為にとて写しぬる御経なるを、いかにささふる者ありとも、一〇〇親しきを議るべき令にもたがひて、筆の跡だも納れ給はぬ叡慮こそ、今は旧しき讐なるかな。所詮此の経を一〇一魔道に回向して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定めて、指を破り血をもて願文をうつし、経とともに一〇二志戸の海に沈めてし後は、人にも見えず深く閉ぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、一〇三はた平治の乱ぞ出できぬる。まづ一〇四信頼が高き位を望む驕慢の心をさそうて一〇五義朝をかたらはしむ。かの義朝こそ悪き敵なれ。父の一〇六為義をはじめ、同胞の武士は皆朕がために命を捨てしに、他一人朕に弓を挽く。一〇七為朝が勇猛、為義一〇八忠政が軍配に一〇九贏目を見つるに、西南の風に焼討せられ、一一〇白川の宮を出でしより、一一一如意が嶽の嶮しきに足を破られ、或ひは一一二山賤の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終に擒はれて此の嶋に謫られしまで、皆義朝が姦しき計策に困められしなり。これが報を一一三虎狼の心に障化して、信頼が隠謀にかたらはせしかば、一一四地祇に逆ふ罪、武に賢からぬ清盛に逐ひ討たる。且父の為義を弑せし報りて、一一五家の子に謀られしは、天神の祟を蒙りしものよ。又少納言信西は、常に己を博士ぶりて、人を拒む心の直からぬ、これをさそうて信頼義朝が讐となせしかば、終に家をすてて一一六宇治山の坑に竄れしを、一一七はた探し獲られて一一八六条河原に梟首らる。これ経をかへせし諛言の罪を治めしなり。それがあまり、一一九応保の夏は美福門院が命を窮り、長寛の春は一二〇忠通を祟りて、朕も其の秋世をさりしかど、猶一二一嗔火熾にして尽きざるままに、終に大魔王となりて、三百余類の巨魁となる。朕が一二二けんぞくのなすところ、人の福を見ては転して禍とし、世の治るを見ては乱を発さしむ。只清盛が一二三人果大にして、親族氏族ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる国政を執行ふといへども、一二四重盛忠義をもて輔くる故、いまだ期いたらず。汝見よ、平氏も又久しからじ。雅仁朕に一二五つらかりしほどは終に報ふべきぞと、御声いやましに恐ろしく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界の悪業につながれて、一二六仏土に億万里を隔て給へば、ふたたびいはじとて、只黙してむかひ居たりける。

時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵すがごとく、沙石を空に巻上ぐる。見る見る一二七一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につらつら御気色を見たてまつるに、朱をそそぎたる竜顔に、一二八荊の髪膝にかかるまで乱れ、白眼を吊りあげ、熱き嘘をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は獣のごとく生ひのびて、さながら魔王の形、あさましくもおそろし。空にむかひて、一二九相模々々と、叫ばせ給ふ。あと答へて、鳶のごとくの一三〇化鳥翔来り、前に伏して詔をまつ。院、かの化鳥にむかひ給ひ、何ぞはやく重盛が命を奪りて、雅仁清盛をくるしめざる。化鳥こたへていふ。一三一上皇の幸福いまだ尽きず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より一三二支干一周を待たば、重盛が命数既に尽きなん。他死せば一族の幸福此の時に亡ぶべし。院、手を拍つて怡ばせ給ひ、かの讐敵ことごとく一三三此の前の海に尽すべしと、御声谷峯に響きて、凄しさいふべくもあらず。魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに堪へず。復び一首の歌に随縁のこころをすすめたてまつる。

一三四よしや君昔の玉の床とても

かからんのちは何にかはせん

一三五刹利も須陀もかはらぬものをと、心あまりて高らかに吟ひける。

白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

此のことばを聞しめして感でさせ給ふやうなりしが、御面も和ぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに竜体もかきけちたるごとく見えずなれば、化鳥もいづち去きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふが如し。ほどなく一三六いなのめの明けゆく空に、朝鳥の音おもしろく鳴きわたれば、かさねて一三七金剛経一巻を供養したてまつり、山をくだりて庵に帰り、閑かに終夜のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く慎みて人にもかたり出でず。

其の後十三年を経て、一三八治承三年の秋、平の重盛病に係りて世を逝りぬれば、一三九平相国入道、一四〇君をうらみて一四一鳥羽の離宮に籠めたてまつり、かさねて一四二福原の茅の宮に困めたてまつる。一四三頼朝東風に競ひおこり、一四四義仲北雪をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志戸一四五八嶋にいたりて、武きつはものどもおほく一四六鼇魚のはらに葬られ、一四七赤間が関一四八壇の浦にせまりて、一四九幼主海に入らせたまへば、軍将たちものこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞおそろしくあやしき話柄なりけり。其の後一五〇御廟は一五一玉もて雕り、一五二丹青を彩りなして、稜威を崇めたてまつる。かの国にかよふ人は、必ず幣をささげて一五三斎ひまつるべき御神なりけらし。

一 香川県坂出市青海町にあり、崇徳院の御陵がある。

二 京都と滋賀の境にあった関。関の番人に通行を許されて東国の方へ向ってから。

三 秋がきた山の紅葉の美景を見捨てがたく。この辺の文章は撰集抄による。

四 愛知県名古屋市緑区鳴海町付近の干潟。

五 静岡県富士市浮島沼付近の沼沢地。歌枕。

六 静岡県静岡市清水区興津清見寺町にあった関所。歌枕。

七 大磯・小磯ともに神奈川県大磯町にある。歌枕。

八 紫草の美しく咲く武蔵野。

九 宮城県塩釜市の海。

一〇 秋田県にかほ市象潟町。当時は入江であった。歌枕。

一一 群馬県高崎市の南部、佐野の烏川に架せられた、舟を並べて板を渡した橋。歌枕。

一二 木曾川上流地方のけわしい崖や山道にかけられた橋。

一三 一一六八年。高倉天皇の代。西行五一歳。

一四 「難波」の枕詞でもある。

一五 兵庫県の神戸・明石の海岸。源氏物語以後の名勝地。

一六 しみじみと感じながら。

一七 坂出市王越町にある。

一八 逗留する。

一九 悟りの道を念じて仏道修行するための庵。

二〇 七五代崇徳天皇が上皇となって新院とよばれた。

二一 樹木鬱蒼としたさま。万葉集一六「弥彦(いやひこ)のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふる」。

二二 白峰の北方にある。

二三 野ばらと蔓草。

二四 宮中の儀式を行なう正殿と、陛下の常の御所であった中殿。

二五 七六代近衛天皇。崇徳天皇の異母弟。

二六 上皇・法皇の御所。

二七 鹿。麋は大鹿。

二八 雑草木やいばらの乱れ茂った藪。

二九 天皇。

三〇 前世でした悪い因縁。

三一 松山は香川県坂出市にある。かたなくはむなしく。形は潟の掛詞。山家集下に第五句「なりましにけり」として出ている。

三二 不気味で何か異常なことが起りそうである。

三三 何とはなしに。

三四 繁茂した木立は月光をもらさないので。

三五 物の見わけもつかぬ闇に心憂く疲れて。

三六 西行が出家直後の法名。西行は俗名佐藤義清、北面の武士であったが、二三歳で出家、諸国行脚の末、河内弘川寺で没した。行年七三歳。

三七 仏道をふかく信仰、帰依して正道をえた僧侶。

三八 山家集下に出ている。

三九 濁りけがれた現世をいとい離れる。死去することをいう。

四〇 仏縁にあずかりたいと思って法要申しあげているのに。法施は三施(財施・法施・無畏施)の一、法を聞かせて善根を増すことで、法要。随縁は仏縁につながる。

四一 生前の姿を現わす。

四二 死によってただちに妄執を忘れる。

四三 仏道修行の果報をえて完全無欠の仏の位につく。

四四 平治元年(一一五九)藤原信頼と源義朝が、藤原信西と平清盛を討伐しようとして起した乱。義朝方が敗れた。平治物語に詳しい。

四五 皇室。

四六 御心のおもむく所。

四七 賢明だとの評判。

四八 帝王道の道理は十分御存じでいらっしゃる。

四九 保元元年(一一五六)七月、崇徳上皇が皇位継承をめぐって同母弟後白河天皇と争って挙兵した乱。上皇方が敗れた。保元物語に詳しい。

五〇 天照大神をさす。

五一 永治元年(一一四一)。

五二 七四代鳥羽天皇。

五三 七六代近衛天皇。「なりひと」が正しい。

五四 崇徳上皇の第一皇子。

五五 鳥羽法皇の妃、近衛天皇の生母、藤原長実の女、得子。

五六 さまたげられて。

五七 鳥羽天皇の第四皇子で、七七代後白河天皇。

五八 天子として国を治める才。

五九 后妃のすむ御殿。ここでは美福門院をさす。

六〇 ちっとも。決して。

六一 周の武王が臣の身をもって殷の紂王を討った故事。

六二 周は武王にはじまり、三〇余代八百数十年つづいて、紀元前二五六年頃滅びた。

六三 天子として国を治める資格のある身。

六四 雌鶏が雄鶏をつついてときをつくらせるように、妻の権力が夫の上位にあるたとえ。

六五 出家して仏道に溺れ惑い。

六六 現世の煩悩から解放されて、未来で救いを得たいと願う利欲の心。

六七 儒教の説く現世の人間道を仏教の因果思想にひきつけ。

六八 中国古代の聖天子。仁徳をもって民を治めた。

六九 色声香味触(又は色名食財睡眠)の五欲が眼耳鼻舌身意の六根を通して心を穢す事。

七〇 一五代応神天皇。

七一 応神天皇の第四皇子。一六代仁徳天皇。

七二 仁徳天皇の末弟。

七三 皇太子。

七四 御自害あそばされたので。

七五 天皇の位。

七六 朝鮮百済の学者。応神天皇一六年に来朝し帰化した。

七七 周の祖。殷の紂王の暴虐を怒ってこれを誅し、天下に仁政をしいた。「孟子」梁恵王下の「武王亦一怒而安二天下之民一」「臣弑二其君一可乎」「賊レ仁者謂二之賊一、賊レ義者謂二之残一、残賊之人、謂二之一夫一、聞レ誅二一夫紂一矣、未レ聞レ弑レ君也」による。

七八 中国戦国時代の哲学者孟軻の言説を記した書。このことは孟子、梁恵王章句下に記されている。

七九 歴史書と記録・文書の類。

八〇 このこと「五雑組」地部巻四に見えている。

八一 必ず、と同意。

八二 皇孫(天子の位)。

八三 詩経。

八四 兄弟は内輪で喧嘩しても、外部からのはずかしめに対しては協力一致して防げ(詩経・小雅)。

八五 そのうえに。

八六 鳥羽法皇。

八七 貴人の遺体を本葬するまでの間、柩に入れて安置しておく仮の御殿。

八八 天子は神の定めた器、天子の位は神意による。老子二九「天下神器、不レ可レ為也」。

八九 上皇が流罪にあうという前例のない刑罰。

九〇 昔のうらみ心。

九一 綾高遠。香川県坂出市松山にいた名家。

九二 天子の食事。

九三 普通には絶対ありえないことのたとえ。

九四 海辺で命を終ることであろう。鬼は死者の霊。

九五 大乗に属する経典で各宗派で違う。天台宗では華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五部をいう。

九六 法螺貝と梵鐘。寺院らしい寺院もない荒磯。

九七 鳥羽天皇の第五皇子、崇徳上皇の弟、覚性法親王。京都市右京区御室にある真言宗仁和寺の上首であった。

九八 鳥の跡は文字筆跡。松山は待つの掛詞。保元物語巻三にある。

九九 藤原通憲。保元の乱後権勢をふるい、平治の乱で斬首された。

一〇〇 議親法。天皇の五等親、太皇太后・皇太后の四等親、皇后の三等親までの親族が減刑されるという特別法。

一〇一 正法の妨げをなす邪道(天狗道)に自分が写経で修得した功徳をさしむけ。

一〇二 坂出市の北の海にある大椎・小椎島の間の椎途の海であろうか。

一〇三 果して。

一〇四 藤原信頼。近衛大将を望んで信西と争い、平治の乱を起して殺された。

一〇五 源義朝。為義の長子。保元の乱で父を討ち、平治の乱で清盛に敗れた。

一〇六 源為義。保元の乱で上皇方につき、敗れて斬首された。

一〇七 源為朝。為義の第八子。鎮西八郎。伊豆大島に流罪。

一〇八 平忠正。清盛の叔父。保元の乱で斬首された。

一〇九 勝利の気配。

一一〇 京都市中京区丸太町にあった、もと白河法皇の御所。

一一一 京都東山の主峰。

一一二 きこり・猟師など。

一一三 暴虐残忍な心にかえて。

一一四 国土を守る神。天皇。

一一五 家来に謀殺されたのは。

一一六 京都府宇治市宇治一帯の山。平治物語では木幡山。

一一七 ついに。果して。

一一八 京都六条付近の賀茂河原で、刑場に使われた。

一一九 一一六一―六三。実際にはその前年、永暦元年(一一六〇)一一月に死去。

一二〇 藤原忠通。後白河天皇を擁立し、保元の乱には天皇方についた。長寛二年(一一六四)二月没。

一二一 憤怒怨恨のはげしさを火にたとえた。

一二二 眷属。配下の悪魔たち。

一二三 人間としての果報。

一二四 平重盛。清盛の長子。

一二五 我につらく当った分だけは。

一二六 仏のすむ極楽浄土。ここは、とうてい極楽へなど行けない状態を指摘した。

一二七 ひとかたまりの鬼火。

一二八 乱れた髪。

一二九 白峰に住む天狗の名。謡曲「松山天狗」、「四国遍礼霊場記」、浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」に見える。

一三〇 鳥の姿をした化物。

一三一 後白河上皇。

一三二 ここでは一二年後。治承三年(一一七九)になる。

一三三 白峰北方の瀬戸内海。平家はここで源氏のために致命的な敗戦を喫した。

一三四 君は崇徳上皇。玉の床は金殿玉楼。山家集下に出ている。

一三五 王族も隷属民も。インド古代における四階級の第二位と第四位。

一三六 「明け」にかかる枕詞。

一三七 大般若経の内の一巻。悪魔退散、煩悩克服の功徳がある。

一三八 一一七九年。八〇代高倉天皇の代。

一三九 平清盛。相国は太政大臣の唐名。入道は剃髪して仏門に入ったもの。

一四〇 後白河法皇。

一四一 京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。城南の離宮。

一四二 神戸市兵庫区福原町にあった。茅の宮は、茅ぶきの粗末な宮殿。

一四三 源頼朝が東国から機運に乗じて挙兵し。治承四年(一一八〇)のこと。

一四四 源義仲が北国から雪をけたてて上京し。寿永二年(一一八三)のこと。

一四五 屋島。香川県高松市の東北部にある半島。

一四六 魚介の餌食になって。鼇は海中にすむ大すっぽん。

一四七 山口県下関市の旧称。

一四八 下関海峡東口の北岸付近の海上。

一四九 安徳天皇。ときに八歳。

一五〇 御霊所。崇徳上皇没後二七年、建久二年(一一九一)後白河法皇が建立した頓証寺。

一五一 玉をちりばめ。

一五二 いろどり飾って。

一五三 自分のけがれをはらいきよめて神をまつる。

一菊花の約

二青々たる春の柳、家園に種ゆることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ。三楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。軽薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染むれども、軽薄の人は絶えて訪ふ日なし。

四播磨の国加古の駅に丈部左門といふ五博士あり。清貧を六憩ひて、友とする書の外は、すべて七調度の絮煩を厭ふ。老母あり。八孟氏の操にゆづらず。常に紡績を事として左門がこころざしを助く。其の季女なるものは同じ里の佐用氏に養はる。此の佐用が家は頗る富みさかえて有りけるが、丈部母子の賢きを慕ひ、娘子を娶りて親族となり、屡事に托せて物を餉るといへども、九口腹の為に人を累さんやとて、敢て承くることなし。

一日左門同じ里の何某が許に訪ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁を隔てて人の痛楚む声いともあはれに聞えければ、主に尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の国の人と見ゆるが、一〇伴ひに後れしよしにて一宿を求めらるるに、一一士家の風ありて卑しからぬと見しままに、逗めまゐらせしに、其の夜一二邪熱劇しく、起臥も自らはまかせられぬを、いとほしさに三日四日は過しぬれど、何地の人ともさだかならぬに、主も思ひがけぬ過し出でて、ここち惑ひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬも一三さる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に此の疾を憂ひ給ふは、わきて胸窮しくおはすべし。其のやうをも看ばやといふを、あるじとどめて、一四瘟病は人を過つ物と聞ゆるから、家童らもあへてかしこに行かしめず。立ちよりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。一五死生命あり。何の病か人に伝ふべき。これらは愚俗のことばにて、吾が們はとらずとて、戸を推して入りつも其の人を見るに、あるじがかたりしに違はで、一六倫の人にはあらじを、病深きと見えて、面は黄に、肌黒く痩せ、古き衾のうへに悶え臥す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ恵み給へといふ。左門ちかくよりて、士憂へ給ふことなかれ。必ず救ひまゐらすべしとて、あるじと計りて、薬をえらみ、一七自ら方を案じ、みづから一八煮てあたへつも、猶粥をすすめて、病を看ること同胞のごとく、まことに捨てがたきありさまなり。

かの武士、左門が愛憐の厚きに泪を流して、かくまで一九漂客を恵み給ふ。死すとも御心に報いたてまつらんといふ。左門諫めて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡そ二〇疫は日数あり。其のほどを過ぎぬれば寿命をあやまたず。吾日々に詣でてつかへまゐらすべしと、実やかに約りつつも、心をもちゐて助けけるに、病漸減じてここち清しくおぼえければ、あるじにも念比に詞をつくし、左門が二一陰徳をたふとみて、其の生業をもたづね、己が身の上をもかたりていふ。故二二出雲の国松江の郷に生長りて、赤穴宗右衛門といふ者なるが、わづかに二三兵書の旨を察めしによりて、二四富田の城主二五塩冶掃部介、吾を師として物学び給ひしに、近江の二六佐々木氏綱に密の使にえらばれて、かの館にとどまるうち、前の城主二七尼子経久、二八山中党をかたらひて、二九大三十日の夜三〇不慮に城を乗りとりしかば、掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐々木の持国にて、塩冶は三一守護代なれば、三二三沢三刀屋を助けて、経久を亡し給へと、すすむれども、氏綱は外勇にして内怯えたる愚将なれば果さず。かへりて吾を国に逗む。三三故なき所に永く居らじと、三四己が身ひとつを竊みて国に還る路に、此の疾にかかりて、思ひがけずも師を労はしむるは、身にあまりたる御恩にこそ。吾三五半世の命をもて必ず報いたてまつらん。左門いふ。三六見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、三七厚き詞ををさむるに故なし。猶逗まりて三八いたはり給へと、実ある詞を便りにて日比経るままに、三九物みな平生に邇くぞなりにける。

文明十八年(一四八六)一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。(原本十四丁裏、十五丁表の挿絵)

此の日比、左門はよき友もとめたりとて、日夜交りて物がたりすに、赤穴も四〇諸子百家の事四一おろおろかたり出でて、問ひわきまふる心愚ならず。四二兵機のことわりは四三をさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感で、かつよろこびて、終に兄弟の盟をなす。赤穴五歳長じたれば、伯氏たるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に離れまゐらせていとも久し。賢弟が老母は即て吾が母なれば、あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみて四四をさなき心を肯け給はんや。左門歓びに堪へず。母なる者常に我が孤独を憂ふ。信ある言を告げなば、齢も延びなんにと、伴ひて家に帰る。老母よろこび迎へて、吾が子四五不才にて、学ぶ所時にあはず、四六青雲の便りを失ふ。ねがふは捨てずして伯氏たる教を施し給へ。赤穴拝していふ。四七大丈夫は義を重しとす。功名富貴はいふに足らず。吾いま母公の慈愛をかうむり、四八賢弟の敬を納むる、何の望かこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又日来をとどまりける。

きのふけふ咲きぬると見し四九尾上の花も散りはてて、涼しき風による浪に、五〇とはでもしるき夏の初めになりぬ。赤穴、母子にむかひて、吾が近江を遁れ来りしも、雲州の動静を見んためなれば、一たび下向りてやがて帰り来り、五一菽水の奴に御恩をかへしたてまつるべし。五二今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長いつの時にか帰り給ふべき。赤穴いふ。月日は逝きやすし。おそくとも此の秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふは約し給へ。赤穴云ふ。五三重陽の佳節をもて帰り来る日とすべし。左門いふ。兄長必ず此の日をあやまり給ふな。一枝の菊花に五四薄酒を備へて待ちたてまつらんと、互に情をつくして赤穴は西に帰りけり。

五五あら玉の月日はやく経ゆきて、五六下枝の茱萸色づき、垣根の五七野ら菊艶ひやかに、九月にもなりぬ。九日はいつよりも蚤く起出でて、草の屋の五八席をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶に挿し、五九嚢をかたぶけて酒飯の設をす。老母云ふ。かの六〇八雲たつ国は六一山陰の果にありて、ここには百里を隔つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の来しを見ても六二物すとも遅からじ。左門云ふ。赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ。其の人を見てあわただしからんは、六三思はんことの恥かしとて、美酒を沽ひ鮮魚を宰て厨に備ふ。

此の日や天晴れて、六四千里に雲のたちゐもなく、六五草枕旅ゆく人の群々かたりゆくは、けふは誰某がよき京入なる。此の度の商物によき六六徳とるべき六七祥になん、とて過ぐ。五十あまりの武士、廿あまりの同じ出立なる、六八日和はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、この六九朝びらきに七〇牛窓の門の七一泊は追ふべき。若き男は七二却物怯して、銭おほく費すことよといふに、殿の上らせ給ふ時、七三小豆嶋より七四室津のわたりし給ふに、七五なまからきめにあはせ給ふを、従に侍りしもののかたりしを思へば、このほとりの渡りは必ず怯ゆべし。七六な恚み給ひそ。七七魚が橋の蕎麦ふるまひまをさんにと、いひなぐさめて行く。口とる男の腹だたしげに、此の七八死馬は眼をもはたけぬかと、荷鞍おしなほして追ひもて行く。午時もややかたぶきぬれど、待ちつる人は来らず。西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方七九のみまもられて心酔へるが如し。

老母、左門をよびて、八〇人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくる信だにあらば、空は八一時雨にうつりゆくとも何をか怨むべき。入りて臥しもして、又翌の日を待つべし、とあるに、否みがたく、母をすかして前に臥さしめ、もしやと戸の外に出でて見れば、八二銀河影きえぎえに、八三氷輪我のみを照して淋しきに、軒守る犬の吼ゆる声すみわたり、浦浪の音ぞ八四ここもとにたちくるやうなり。月の光も山の際に陰くなれば、今はとて戸を閉てて入らんとするに、八五ただ看る、おぼろなる八六黒影の中に人ありて、八七風の随来るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。

踊りあがるここちして、八八小弟蚤くより待ちて今にいたりぬる。盟たがはで来り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へといふめれど、只点頭きて物をもいはである。左門前にすすみて、八九南の窓の下にむかへ、座につかしめ、兄長来り給ふことの遅かりしに、老母も待ちわびて、翌こそと臥所に入らせ給ふ。寤させまゐらせんといへるを、赤穴又頭を揺りてとどめつも、更に物をもいはでぞある。左門云ふ。既に九〇夜を続ぎて来し給ふに、心も倦み足も労れ給ふべし。幸に一杯を酌みて歇息ませ給へとて、酒をあたため、下物を列ねてすすむるに、赤穴九一袖をもて面を掩ひ、其の臭ひを嫌み放くるに似たり。左門いふ。九二井臼の力はた款すに足らざれども、己が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴猶答へもせで、長嘘をつぎつつ、しばししていふ。賢弟が信ある饗応をなどいなむべきことわりやあらん。欺くに詞なければ、実をもて告ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は九三陽世の人にあらず、九四きたなき霊のかりに形を見えつるなり。

左門大いに驚きて、兄長何ゆゑにこの九五あやしきをかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて国にくだりしが、国人大かた経久が勢ひに服きて、塩冶の恩を顧るものなし。従弟なる赤穴丹治、富田の城にあるを訪ひしに、利害を説きて吾を経久に見えしむ。仮に其の詞を容れて、つらつら経久がなす所を見るに、九六万夫の雄人に勝れ、よく士卒を習練すといへども、九七智を用ふるに狐疑の心おほくして、九八腹心爪牙の家の子なし。永く居りて益なきを思ひて、賢弟が菊花の約ある事をかたりて去らんとすれば、経久怨める色ありて、丹治に令し、吾を九九大城の外にはなたずして、遂にけふにいたらしむ。此の約にたがふものならば、賢弟吾を一〇〇何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈めども遁るるに方なし。いにしへの人のいふ。一〇一人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆくと。此のことわりを思ひ出でて、みづから刃に伏し、今夜一〇二陰風に乗りてはるばる来り菊花の約に赴く。一〇三この心をあはれみ給へといひをはりて、泪わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只母公によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。

左門慌忙とどめんとすれば、陰風に眼くらみて行方をしらず。俯向につまづき倒れたるままに、声を放ちて大いに哭く。老母目さめ驚き立ちて、左門がある所を見れば、一〇四座上に酒瓶一〇五魚盛りたる皿どもあまた列べたるが中に臥倒れたるを、いそがはしく扶起して、いかにととへども、只一〇六声を呑みて泣く泣くさらに言なし。老母問ひていふ。伯氏赤穴が約にたがふを怨むるとならば、明日なんもし来るには一〇七言なからんものを。汝かくまで一〇八をさなくも愚かなるかとつよく諫むるに、左門漸答へていふ。兄長今夜菊花の約に特来る。一〇九酒をもて迎ふるに、再三辞み給うて云ふ。しかじかのやうにて約に背くがゆゑに、自ら刃に伏して陰魂百里を来るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠をも驚したてまつれ。只々赦し給へと潸然と哭入るを、老母いふ。一一〇牢裏に繋がるる人は夢にも赦さるるを見え、渇するものは夢に漿水を飲むといへり。汝も又さる類にやあらん。よく心を静むべしとあれども、左門頭を揺りて、まことに一一一夢の正なきにあらず。兄長は一一二ここもとにこそありつれと、又声を放げて哭倒る。老母も今は疑はず、一一三相叫びて其の夜は哭きあかしぬ。

明くる日、左門母を一一四拝していふ。吾幼きより身を一一五翰墨に托するといへども、国に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、一一六徒に天地のあひだに生るるのみ。兄長赤穴は一生を信義の為に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては一一七骨を蔵めて信を全うせん。一一八公尊体を保ち給うて、しばらくの暇を給ふべし。老母云ふ。吾が児かしこに去るとも、はやく帰りて老が心を休めよ。永く逗りて一一九けふを旧しき日となすことなかれ。左門いふ。一二〇生は浮きたるのごとく、旦にゆふべに定めがたくとも、やがて帰りまゐるべしとて、泪を振うて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の介抱を苦に一二一あつらへ、出雲の国にまかる路に、一二二飢ゑて食を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭きあかしつつ、十日を経て富田の大城にいたりぬ。

先づ赤穴丹治が宅にいきて、一二三姓名をもていひ入るるに、丹治迎へ請じて、一二四翼ある物の告ぐるにあらで、いかでしらせ給ふべき謂なしと、しきりに問尋む。左門いふ。士たる者は富貴一二五消息の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏宗右衛門一旦の約をおもんじ、むなしき魂の百里を来るに一二六報すとて、一二七日夜を逐うてここにくだりしなり。吾が学ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨あり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔一二八魏の公叔座病の牀にふしたるに、魏王みづからまうでて手をとりつも告ぐるは、若し一二九諱むべからずのことあらば、誰をして一三〇社稷を守らしめんや。吾がために教を遺せとあるに、叔座いふ。一三一商鞅年少しといへども一三二奇才あり。王若し此の人を用ゐ給はずば、これを殺しても一三三境を出すことなかれ。他の国にゆかしめば、必ずも後の禍となるべしと、苦に教へて、又商鞅を私かにまねき、吾汝を一三四すすむれども王許さざる色あれば、用ゐずばかへりて汝を害し給へと教ふ。是君を先にし、臣を後にするなり。汝速く他の国に去りて害を免るべしといへり。此の事、一三五士と宗右衛門に比へてはいかに。丹治只頭を低れて言なし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門、塩冶が旧交を思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は、旧主の塩冶を捨てて尼子に降りしは士たる義なし。伯氏は菊花の約を重んじ、命を捨てて百里を来しは信ある極なり。士は今尼子に媚びて一三六骨肉の人をくるしめ、此の一三七横死をなさしむるは友とする信なし。経久強ひてとどめ給ふとも、旧しき交りを思はば、私に商鞅叔座が信をつくすべきに、只一三八栄利にのみ走りて一三九士家の風なきは、即ち尼子の家風なるべし。一四〇さるから兄長、何故此の国に足をとどむべき。吾、今信義を重んじて態々ここに来る。汝は又不義のために汚名をのこせとて、いひもをはらず抜打に斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。一四一家眷ども立ち騒ぐ間にはやく逃れ出でて一四二跡なし。

尼子経久此のよしを伝へ聞きて、兄弟信義の篤きをあはれみ、左門が跡をも強ひて逐はせざるとなり。一四三咨軽薄の人と交りは結ぶべからずとなん。

一 菊の節句。九月九日重陽の佳節に再会を約束し、魂魄となってそれを果すという主題にもとづく。

二 中国白話小説、范巨卿鶏黍死生交の書出し「種レ樹莫レ種二垂楊枝一、結レ交莫レ結二軽薄児一、楊枝不レ耐二秋風吹一、軽薄易レ結還易レ離、云々」の翻訳。

三 川柳としだれ柳。

四 兵庫県加古川市。駅は宿場。古来交通の要衝。

五 学者。儒者。

六 甘んじて。

七 家財道具があれこれあるのをうるさく思う。

八 中国戦国時代の人。孟子の母で、孟母三遷、断機の教えで名高い賢母。

九 生活のために人に厄介をかけることができようか。

一〇 連れ。同伴者。

一一 武士らしい風采。

一二 悪性の病熱。

一三 もっともなことであるが。

一四 流行病は人に伝染してその人を害する。范巨卿鶏黍死生交に「瘟病過レ人」とある。

一五 人間の生死は天命の定めるところである。論語、顔淵篇「死生有レ命、富貴在レ天」。

一六 素姓のない人とは思えないが。氏素姓・人品ともにすぐれている。

一七 自分で処方を考えて。

一八 内服の漢方薬は煎薬が多い。

一九 見ず知らずの行きずりの旅人。

二〇 流行病には一定の罹病期間がある。その期間をすぎてしまうと生命をまっとうする。

二一 人に知られぬ隠れた善行。

二二 島根県松江市。

二三 軍学の道をきわめたので。

二四 島根県安来市の東部。今「トダ」という。

二五 一五世紀に出雲にいた武将。代官として富田城にいたが、のち尼子経久に攻めほろぼされた。

二六 一五世紀末、滋賀県を本拠とした武将。塩冶氏の主筋。

二七 一五、六世紀の武将。佐々木氏の配下として出雲の守護代をつとめたが、放逐され、のち再起して中国地方一一国を領した。

二八 山中鹿之介一味を味方として。出雲の豪族で有名な武将。

二九 文明一七年(一四八五)一二月の大晦日。

三〇 不意討ちをして。

三一 守護職の代理として現地にあって実際の政務をとるもの。代官。

三二 三沢も三刀屋も出雲地方の豪族。

三三 いる理由のない所。

三四 単身ひそかにぬけ出して。

三五 後半生。

三六 人の不幸を見殺しにできないのは人間の本性であるから。

三七 鄭重なお礼の言葉をうける理由がない。

三八 養生する。

三九 健康状態がほとんど平生の状態に回復した。

四〇 中国の春秋戦国時代にそれぞれ一派の学説をとなえた思想家・哲学者の総称。またその著述。

四一 ぽつりぽつり。少々。

四二 戦術理論。

四三 確信をもって卓越した話をしたので。

四四 私の幼稚で愚かな心。

四五 才能がなくて。

四六 立身出世する機会。

四七 大丈夫は義を第一とし、義をつらぬきとおすものである。

四八 賢弟から兄としての尊敬をうける。

四九 加古川市尾上町の桜。有名な桜で、諸書・諸歌にひかれている。

五〇 人に問うまでもなくあきらかに知られる初夏。

五一 豆粥をすすり水をのむような貧しい暮らしのなかで親に孝養をつくすこと。菽は豆。豆粥。奴はしもべ。奉仕する。

五二 しばしのお暇。

五三 陰暦九月九日の節句。五節句の一。グミの節句、菊の節句ともいう。

五四 粗酒。謙遜していう。

五五 「月日」の枕詞。

五六 木の下方の枝になっているグミが熟し色づいて。

五七 野菊が色美しく咲いて。

五八 掃除をして。

五九 財布の底をはたいて。

六〇 出雲の国。古事記上「八雲たつ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」。

六一 山陰地方。陰は、山の場合は北、河の場合は南。

六二 饗応の支度をする。代動詞。

六三 その人がどう思うか、そのおもわくが恥かしい。

六四 見渡すかぎり一片の雲もなく。

六五 「旅」の枕詞。

六六 儲け。利益。

六七 前兆。

六八 海面。平穏な海原。

六九 朝早く船出すること。

七〇 岡山県瀬戸内市牛窓町の港。

七一 牛窓の港にむけて船を走らせていたはず。

七二 かえって。

七三 香川県小豆郡の小豆島で、瀬戸内海中の大きな島。いまは「しょうどしま」という。

七四 兵庫県たつの市御津町の港。瀬戸内海航路の要港であった。

七五 こっぴどい目。さんざんな目。

七六 お怒りなさいますな。

七七 兵庫県高砂市阿弥陀町。

七八 くたばり馬めは、眼もあかないのか。馬が物につまずいたのを居眠りでもしていたのだろうとして罵った言葉。

七九 「のみ、まもられて」と訓む。まもるは見まもる。

八〇 人の心のかわりやすいのを秋空にたとえる。「飽き」の掛詞。交り厚く、饗応のこまやかなのを菊の色の濃いことにたとえる。

八一 時節は遅れてしぐれふる秋冬の候になっても。

八二 天の川の星の光がいまにも消えそうに弱って。

八三 月の異名。

八四 夜の静寂に、浪音が高く近く聞こえて、すぐ足もとまでうちよせてくるようである。

八五 ふとみると。中国白話小説によく用いられる語。

八六 黒い影。

八七 風にしたがって。

八八 私。義兄弟の弟としての謙辞。

八九 南面した客間の窓の下。窓の下は客の正座。

九〇 夜を日についで。昼夜兼行で。

九一 すでにこの世の人でない赤穴が、なまぐさいものをきらう様子。

九二 貧しい手料理であるからとてもおもてなしするには不足であるが。井臼の力は、自分で水を汲み米を搗くこと。款すは饗応する。

九三 現世の人。

九四 死霊。亡魂。

九五 どうしてこんな奇怪なことをおっしゃるのですか。

九六 万人に匹敵するほどの雄略があって。

九七 智者を用いるのに疑いぶかい性質がひどく。

九八 主君のために手足となって働く忠実な家臣。

九九 本城。富田城。

一〇〇 義をまもらぬうそつきで信ずるに足りないやつと思われるであろう。

一〇一 范巨卿鶏黍死生交に「古人有レ云、人不レ能レ行二千里一、魂能日行二千里一」とある。

一〇二 妖怪や亡霊がのって来る冥途から吹く風。

一〇三 この気持を憐憫をもって汲みとって下さい。

一〇四 客席のあたりに。

一〇五 魚を「な」とよましているから、肴、料理の意。

一〇六 声をたてずに忍び泣きに泣きながら。

一〇七 何ともいうべき言葉がないだろう。

一〇八 子供のように物の道理がわからないのか。

一〇九 酒と肴。

一一〇 范巨卿鶏黍死生交に「古人有レ云、囚人夢レ赦、渇人夢レ漿」とある。牢裏は監獄の中。漿水は飲料水。

一一一 けっして夢のようなそらごとではない。

一一二 このところに。

一一三 互いに声をあげて。

一一四 礼を正して願い出る。

一一五 学問文事に専念してきたとはいいながら。

一一六 無意味にこの世に生きているだけである。

一一七 遺骨を葬って。

一一八 母上には御身をお大切になさって。

一一九 今日の別れを永久の別れの日としないで下さい。

一二〇 人生は水に浮いている泡の如きもので、朝に夕にいつ消えるとも定めがたいものではあるが。范巨卿鶏黍死生交の「生如二浮一、死生之事、旦夕難レ保」による。

一二一 頼んで。

一二二 ただ赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず。范巨卿鶏黍死生交の「沿路上饑不レ択レ食、寒不レ思レ衣」による。

一二三 姓名を名のって面会をもとめると。

一二四 雁の便りにでも託して宗右衛門の死を知らせなければ。

一二五 盛衰。

一二六 その信義に対して、信義をもってむくいようとして。

一二七 夜に日をついで。

一二八 魏は中国古代の一国。公叔座は魏の宰相。この話は史記、商君列伝にある。

一二九 万が一のこと。死ぬこと。

一三〇 宰相としようか。

一三一 のちに秦の宰相となった有名な刑名家。

一三二 世にもまれなすぐれた才能。

一三三 国境から出す。

一三四 推挙したが。

一三五 あなた。貴殿。

一三六 血縁の人。

一三七 非業の死。変死。

一三八 栄達利益にばかりとらわれて。

一三九 真に武士らしい風儀。

一四〇 それだから。

一四一 赤穴丹治の家臣たち。

一四二 行方をくらました。

一四三 ああ、軽薄の人と交わりを結んではならないというが、まさにその通りである。起筆の部分と呼応している。

Chapter 2 of 6
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