一 飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史
震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である。馬琴の旧棲は何度も修繕されて殆んど旧観を喪ってるから、崩壊しても惜くないが、台所口の井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だから瓦や土砂で埋められても旧容を恢復するのは容易である。
この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の中坂の中途、世継稲荷の筋向いの路次の奥にある。中坂といっても界隈の人を除いては余り知る者もあるまいが、九段の次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。
馬琴は二十七、八歳、通油町の地本問屋蔦屋重三郎の帳面附けをしていた頃或人の世話で中坂の下駄屋で家主なる寡婦の入夫となった。漸く高名となってからは下駄屋を罷めて手習師匠となり、晩年には飯田町の家は娘に婿を取って家主の株を継がせ、自分は忰宗伯のために買った明神下の家に移って同居したが、一生の殆んど大部分は飯田町に暮したのだ。
九段の長谷川写真館の真向いを東へ下りる坂の下り口の北側が今では空地となってるが、この空地を外れて二、三軒目にツイ二十年前まであった小さな瀬戸物屋が馬琴の娘の婿の家で、今でも子孫が無商売でこの裏に住んでるそうだ。この路次裏の井戸が即ち馬琴の硯の水で、文芸の理解のない官憲も馬琴の名だけは知っていたと見えて、数年前から東京史蹟の高札が建てられた。王侯将相よりも文豪の尊敬される欧羅巴なら疾くに日本の名蹟とし東京の名誉とし将た飯田町の誇りとして手厚く保管し、金石に勒して永久に記念されべきはずであるが、戦場で拾って来た砲弾の記念碑を建てる事を知っていても学者や文人の墓石は平気で破壊するを少しも怪まない日本では、縦令高札を建てても何時この貴い古井戸を埋めてしまわないとは限らない。が、この古井戸がどうなろうとも、この中坂はグレート馬琴が半生を暮した故居の地として永久に記念されべき史蹟である。
不思議にもこの中坂は文豪馬琴の史蹟であると共にまた、明治の文学史に一エポックを作った硯友社の発祥地でもある。
中坂上の南側に秀光舎という印刷所がある。この秀光舎の前身は同益出版社といって、今から四十年前に小説復刻の元祖たる南伝馬町の稗史出版社に続いて馬琴の『俊寛僧都島物語』や風来の『六々部集』を覆刻したので読書界に知られた印刷所であった。この工場と相対ってる北側に、今は地震で崩されて旧観を更めてしまったが、附属の倉庫の白壁の土蔵があった。硯友社という小さな標札がこの土蔵の戸口に掛ったのがタシカ明治二十一年夏の初めであった。尤も『我楽多文庫』はそれより二タ月前頃から公刊されていたが、飯田町の国学院大学の横町の尾崎の家を編輯所兼発行所としていた頃には誰にも余り知られなかった。人通りの多い中坂上に看板を掛けてから初めて行人の目を牽いた。
馬琴の後裔だという瀬戸物屋は爰から僅か十二、三軒目であった。馬琴が江戸一の作者として盛んに鳴らした頃は手習師匠であったし、家主であったし、殊にあれだけの学問見識があったのだから、馬琴の清右衛門は必ず町内の学者でもあり口利きでもあったに相違なく、硯友社の札を掛けたあたりは大方清右衛門の世話になっていたろうと思う。少くも硯友社は馬琴の下駄の迹を印し馬琴の声を聞いた地に育ったので、幽明相隔つるといえ、馬琴と硯友社とはいわば大家と店子との関係であった。
更にこの中坂について最う一つ記憶すべき事がある。その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の唯一の文芸場であって、前島和橋、南新二、琴通舎康楽、高畠藍泉というような当時の名流が盛んに寄書して紙面を賑わしていた。就中、最も軽い諷喩と円転自在の名文で聞えたのが中坂まどきであって、「まどき」の名は当時の『読売新聞』の読者の間に喧伝された。この「まどき」というは偕行社の真裏に当るの世継稲荷の奥の代用小学校の持主で本名を中川真節といった。「まどき」は最う三十年も前に死んでしまったが、当時の『読売新聞』投書欄の愛読者は今でも「まどき」の名を記憶しているだろう。
「まどき」が盛んに『読売』の投書欄を賑わして殆んど独擅場の観があった頃、中坂思案外史の名がポツポツ投書欄に見え出した。時としては飯台思案外史とも称していた。「まどき」の老熟には及ばなかったが、折々心憎い事をいうので読者の注意を牽いた。同じ中坂だから「まどき」の弟分か弟子じゃなかろうかという噂もあって、「まどき」の名が盛んなるに伴れて思案外史の名もまた段々と聞えて来た。
然るに二十一年の五月の末『我楽多文庫』の第一号が創刊されたのを早速買って見ると、その巻頭の辞を書いたのが誰あろう思案外史であった。その頃中坂下に住んでいて朝夕この界隈を散歩した私は馬琴の瀬戸物屋の前を通って文豪を偲ぶと共に中坂という名に興味を持ち、この中坂を冠する思案外史は中坂の何辺らあたりに住んでる人だろうと揣摩し、この思案外史の巻頭の辞を載せた『我楽多文庫』をもやはり中坂に縁があるように思っていた。
すると文庫が創刊されてから二、三カ月目、ふと或る夕方中坂上をいていると、偶然見附けたのが硯友社の標札であった。硯友社が如何なる人の団体だとも、思案外史が如何なる人であろうとも考えないで、ただ何かなしに行衛を知らなかった未見の友の有処を突留めたような気がして会心の微笑を禁じ得なかった。
これより先き数年、今は電車通りの裏となってる神保町筋の今川小路に武蔵屋という絵双紙屋があった。その頃は専門の雑誌屋がなくて絵双紙屋で雑誌を売っていた。いたって貧乏なケチな店だったが、『金毘羅利生記』を出版してマンマと失敗した面胞だらけの息子が少しばかり貸本屋学問をして都々逸や川柳の咄ぐらいは出来た。この店先きで折々邂逅う五分刈の大きな頭の近眼鏡をギラギラ光らした青年があった。いつでもドッカと腰を落付けては頻りに都々逸や川柳の気焔を揚げていた。何処の人か知らぬが、雑誌や新刊書を何でも洩れなく読む人だと感心して、いつでもその気焔咄を謹聴していた。
一度会ったら忘れる事の出来ない特徴のある人だから、その後往来で摺違う度にアノ人だなと思った。が、こっちは能く覚えていても、先方の眼中には背の低い児供々々した私が残ってるはずがないから、何度摺れ違ってもツイぞ一度顔で会釈した事さいなかった。勿論、口を利いた事はなお更なかった。
ところがその後、予備門(今の高等学校)の生徒控室でゆくりなくもこの五分刈の巨頭君に邂逅って、喫驚して窃に傍人に訊いて、初めてこれが石橋助三郎という人であると教えられた。が、これが音に聞く中坂思案外史だとはマダその時は知らなかった。
一体私は頗る臆病な青年であって、人から話し掛けられれば知らず、自分から進んで口を開く事は決してなかった。それ故、その後何度も顔を見ても、気焔咄を恐る恐る傍聞しているだけで、益々都々逸や川柳に精しいのを感服したが、『読売』の投書欄でお馴染の中坂乃至飯台思案外史をこの五分刈の巨頭君に結びつけて考える事は出来なかった。その頃は何かなしに新聞に投書でもする人は世故にも長け文章にも長じた中老人だとばかり思っていたから、中坂思案外史も伯父さん分に当る年配の人だとばかり信じ切っていた。
『我楽多文庫』が公刊された時、早速買って来て第一に眼に留ったのが思案外史の巻頭の辞であったが、硯友社が私とほぼ同齢の青年の団体だとも、思案外史が二、三年来度々邂逅う巨頭の青年だとも少しも知らなかった。これを知ったのはそれより二、三年後であって、アレが思案外史かと知った時は唖然として、道理こそ都々逸に精しい人であると思った。
思案外史はその頃中坂から一丁半ばかり、富士見町の裁判所の横手の、今は暁星中学校の構内に囲込まれた処に住んでいたから、中坂というは少し無理だが、馬琴がしばしば飯台蓑笠漁隠と称した如くに飯台を戴く因縁は持っていたのだ。