第一講 ヨブ記はいかなる書であるか
◯ヨブ記の発端は一章、二章にして、十九章がその絶頂たり、それより下りて四十二章を以て終尾となす。しかしこの四つの章を読みしのみにては足らず、その間に挟まる各章を読むは、あたかも昇路及び降路において金銀宝玉を拾うが如くである。故に四十二章全部を心に留めねばならぬのである。
◯注意すべきはヨブ記の聖書における位置である。すべて聖書中に収めらるる各書の位置を知るは、その書の研究上大切なる事である。まず新約聖書を見るに、マタイ伝より使徒行伝までは「歴史」、最後の黙示録は「預言」にして、その間に挿まる使徒らの書翰は「霊的実験の提唱」ともいうべく、「教理の解明」とも称すべく、または簡単に「教訓」とも名くべきである。歴史と預言は教会及び人類の外部の状態に関し、教訓は個人の内界に関するもの、外より教えまた内より教うるのである。そしてこの事は旧約聖書においても同様である。その三十九書中、初の十七書は歴史、終の十七書は預言、そしてその間の五書すなわちヨブ記、詩篇、箴言、伝道之書、雅歌は心霊的教訓である。そしてヨブ記がこの教訓部の劈頭第一に位するに注意せよ。そもそも創世記を以て始まりし歴史は、イスラエルを通して伝えられし神の啓示を載するものである。しかしてそれが最後のエステル書を以て終るや、ここにヨブ記を以て一個人の心霊を以てする啓示が伝えられたのである。ここに新なる黙示が伝えられたのである。神の教示が全く別の道を取るに至ったのである。すなわち個人の実験を通して聖意がこの世に臨んだのである。「歴史」と「預言」とは過去と未来における国民または人類の外的表現に依りて伝うるもの、これに対して「教訓」は神と霊魂との直接関係そのままの提示である。
◯神は外より探り得べし、また内より悟り得べし。神を歴史において見、従って神の教を国民的、社会的、政治的に見るも一の見方である。されどこれのみに止まる時は浅薄に陥りやすい。これを個人心霊の堅き実験上に据えて、初てその真相を穿ち得るのである。かかる実験の人が集まる処、おのずから外部的に神の国は成立するのである、そして史的勢力となるのである。我らはわが内界に不抜の確信を豊強なる実験の上に築き、そしてまた同時にその外的表現に留意すべきである。外にのみ走りて浅薄になる虞あると共に、内にのみ潜みて狭隘となる嫌がある。いずれにせよ、旧約聖書においてこの個人的沈潜の深みを伝えし第一がヨブ記であることは、忘るべからざる点である。
◯ヨブ記を心霊の実験記と見る上において注意すべきは巻頭第一の語である。「ウズの地にヨブと名くる人あり」と記さる。ウズとは異邦の地である。実に旧約聖書はその歴史部を終えて教訓部に入るや、劈頭第一に異邦の地名を掲げ、異邦人ヨブの実験を語らんとするのである。これ真に今人の驚異に値することである。ウズの地とはいずこなるかについて諸説あるも、そのパレスチナの中になきことは明かである。そしてこれをアラビヤ沙漠の北部地方(全沙漠の三分の一または四分の一)の総称と見るを正しと思う。しかる時は、ヨブの住みし村または町はいずこぞという問題が次に起る。沙漠の最北部すなわちパレスチナに接近せる辺という学者もある。しかし沙漠の中央に近きデュマまたはショフ(Duma; Dschof)であるとの説を余は採るのである。羊七千駱駝三千という如き大群の家畜を養い得んには広き緑野を要するのである。そしてヨブの外にも彼に匹敵する、または彼に近き豪農が住んでいたことも当然推定せらるるが故に、かかる緑野の充分ある地はデュマの外にはないのである。さればヨブの住みし地は、パレスチナより見て純然たる異邦であったのである。
◯この事は何を我らに示すのであるか。イスラエルは神の選民たりといえども、神を求むるの心はイスラエルの独占物ではない。人は各個人直接に神を求むるを得、神は各個人の心霊にその姿を顕し給う。この点においては国籍民族の区別は全く無いのである。そは実に個人的なるが故にまた普遍的である。故に神を求むる者をユダヤ人に限る要はない、異邦人にても宜いのである。否異邦人の方がかえって宜いのである。ヨブ記が異邦人ヨブの心霊史を掲ぐるは神を求むる心の普遍的なるを示すと共に、神の真理の包世界的なるを示すのである。実に各個人の――従って全人類の――実験を描かんとせば、その主人公をユダヤ人以外に求むるを得策とする。しかして旧約聖書はその教訓部の劈頭に異邦人の心的経験を記載して、以てその人類的経典たることを自証しているのである。げに聖書ほど人類的の書はない。聖書を以てユダヤ思想の廃址と見るは大なる誤謬である。そのしからざるを証するものは少なくないが、ヨブ記の如きはその最たるものである。さればヨブ記は特に普遍的の書物である。特に国家なきアラビヤ人中よりその主人公を選びて、誰人といえども、いやしくも人である以上は、神を知り神の真理を探り得ることを示したのである。ヨブ記が特殊の力を以て吾人を惹くゆえんの一はここにあるのである。
◯神の選民たる誇りの中に住みいたるユダヤ人中、異邦人を主人公としてかかる大信仰を開説したるヨブ記作者があったのである。そのいかなる人なりしかは今これを明にしがたいが、その大胆なる態度とその自由なる魂とは羨むべきである。同時にまた人生最高の実験として描きたるこの書の如きを尊重し、これを聖書中に正経として加えたるユダヤ人の心の広さを我らは見落してはならない。げにこの民ありてこの著者ありというべきである。
◯人は何故に艱難に会するか、殊に義者が何故艱難に会するか、これヨブ記の提出する問題である。これ実に人生最大問題の一である。そしてこの問題の提出方法が普通のそれと全く異りおるがこの書の特徴である。まず一章全部と二章前半を見よ、ヨブに大災禍臨みて産は悉く奪われ、子女は悉く殺され、身は悪疾に襲われ、最愛の妻さえ彼を罵るに至ったのである。かくて彼はただ独り苦難の曠野に坐して、この問題の解決を強いられたのである。実に彼は生涯の実験――殊に悲痛なる実験――を以て問題を提出せられたのである。教場における口または筆に依る問題の提出及び解答ではない。哲学上の問題や文学上の問題の如く、思想を以て提出され思想を以て答うるものとは全然性質を異にする。ヨブは患難の連続を以て患難の意味という問題を提出せられ、そして事実的の痛苦煩悶苦闘を以てこれに答えざるを得なかったのである。彼の如き敬虔なる信者が、かの如き大苦難に会したのである。これ果して愛なる父の所為として合理なるか、神に対するわが信仰は誤謬ならざりしか、むしろ世に神なきに非ざるか、もし神在りとせば義者に患難を下し給うは何故か――およそこれらの疑問が彼の心霊を圧倒すべく臨んだのである。実に彼は実験を以て大問題を提出せられ、実験を以てこれに答えしめられたのである。故にヨブ記全体に活ける血が通っている。火と燃ゆる人生の鎔炉に、鉄は鍛えられんとするのである。文学上の遊戯ではない。生ける人間生活の血と火である。これヨブ記の特徴である。この事を心に収め置かずしてはこの書を解することは出来ない。ヨブ記は美文でない、霊魂の実験録である。
◯ヨブ記が世界第一の文学なることは古来よりの定説である。これを単なる文学書として、審美心あるいは思想愛好心より研究するも全く無効には終るまい。しかしながらこれは信仰的立場に立て初て充分に了解せらるる書である。我らはこの書を研究する時、まず著者に対して深き同情と尊敬とを抱かねばならぬ。由来この書は文学書または思想書として著されたものではない。著者自から書中に記す如き大苦難に会わずとするも、少くもこれに似たる苦難に逢いてその実験の上にこの書を著したものと見ねばならぬ。故にこれを文学としまた思想として研究する時は、一の謎として終るのみである。身自ら人生の苦難に会し、悲痛頻りに心に往来するを味い、しかも神を信ずる信仰とわが苦難との矛盾に血涙止めあえざりし人――この種の人が深き同感と少からぬ敬意とを以てこの書に対する時は、この書を理解し得るのみならず、この書より得る処少なくないのである。
◯今日までにヨブ記の註解は少からず現れた。しかもその多くはこれを以て不可解の書となすのである。この書を美わしき仏文に移したるルナンの如きは、聖書学者としてまたヨブ記研究者として有名なる人なるにもかかわらず、ヨブ記の真意を捕捉することを得なかったのである。その他この書の研究者は概ね古代の習慣、思想等の考古学的研究に心を奪われて、この書の神髄を捉え得ないのである。これ研究の態度が正しからぬためである。これを実験的に解せんとせずして思索的に解せんとする時はいかなる学者にもこの書は不可解の謎として残るのである。自分をヨブの位置に置き苦闘努力以て光明を得んとせし者には、この書は決して不可解の書ではない。無学者といえども老人小児といえども、この心を以てせばヨブ記を解し得るのである。聖書はそのいずれの書といえども読者にかかる態度を要求するものであるが、ヨブ記の如きは格別にもしかるのである。
◯実験を以て与えられし問題を実験を以て解かんとしてヨブの苦める時、エリパズ、ビルダデ、ゾパルの三友人現れ、各々独特の思想と論法とを以てヨブを慰めんとする。かくて世に普通の解釈は皆与えられしも、そはかえって彼を苦むるのみであった。その時青年エリフ仲裁者として現る。エリフは学識経験においては三人に劣れども、同情において優れるためややヨブの心を柔ぐるにおいて成功する。最後にエホバ御自身現われて親しく教示する。しかもこの教示中、直接ヨブの疑問を解くべき答は一も与えられておらぬのである。義者に臨む苦難の意味については一言も答うる所ないのである(三十八章以下を見よ)。これ不思議というほかはない。しかるになお不思議なるはヨブがそれに全く満足し、わが罪を認めて全き平安に入りしことである。問題の説明供せられざるに彼の苦みが悉く取去られしとは、まことに不思議なる事である。初から問題を提出しないならばそれで宜しい。しかるにこれを明かに提出しながらその解答を載せざるは、実に怪しむべきことである。
◯しかし解答は与えられずして与えられたのである。実に神を信ずる者の実験はこれに外ならぬのである。苦難の臨みし説明は与えられざれど、大痛苦の中にありて遂に神御自身に接することが出来、そして神に接すると共にすべての懊悩痛恨を脱して大歓喜の状態に入るのである。ただ神がその姿を現わしさえすれば宜いのである。ただ直接に神の声を聴きさえすれば宜いのである。それで疑問は悉く融け去りて歓喜の中に心を浸すに至るのである。その時苦難の臨みし理由を尋ねる要はない。否苦難そのものすら忘れ去らるるのである。そしてただ不思議なる歓喜の中に、すべてが光を以て輝くを見るのみである。
◯今日キリスト信者の実験もまたこれである。彼に取ってはこれが患難苦痛の唯一の解釈法である。友人らの提供する種々の説明も彼に何ら満足なる解答を与えない。あるいは人生の長き実験より、あるいは深き学識より、あるいは温き同情より彼を慰むれどもいずれも問題の中心に触れない。かくて彼の煩悶いよいよ加わる時、遂に父はキリストにおいてその姿を現わしその光彼を環照し、その光の中にすべての懐疑や懊悩がおのずと姿を収めるのである。そしてすべてを失いてもこれを糞土の如く思い得るに至るのである。
◯因に記す、ヨブ記は文学書にあらずしてしかも世界最大の文学書である。世界の大文学中ヨブ記を手本として作られしものは少なくない。ゲーテのファウスト、ダンテの神曲、シェークスピヤのハムレット、カアライルのサアター・レサアタス(Sartor Resartus)、ブラウニングのイースタアデー(Easter Day)とラビ・ベン・エズラ(Rabbi Ben Ezra)等はそれである。また現代英の文豪たるH・G・ウェルズの『不死の火』(Undying Fire)の如きもヨブ記を手本とせる作物である。以てヨブ記の大を知るべきである。