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垣根の破れたところから、大きな茶のぶち犬が彼の庭に這入ってきた。お隣の発田の飼犬である。なにか考えこんでいる風に首を垂れ、彼が大切にしている牡丹のところへふらふらとあるいてきたが、その根の辺をくんくん嗅ぎながら二三度廻り、また何となく縁側の方に近づいてきた。どこかで転んだと見え、脇腹に濡れた枯葉を二三枚貼りつけている。縁の前にはバケツをさかさに伏せ、その上に彼の古靴が乾してある。そこで立ち止ると、急に考え深そうな表情になって、丹念に古靴のあちこちを嗅いでいたが、束ねた紐をいきなりくわえて、靴の片方ずつを顔の両側にぶらりと垂らした。そのままでちらりと彼の方を見たようである。硝子戸の内側に座布団を何枚もならべ、その上に寝そべって、彼はそれを眺めていた。
(どうも変だ)頬杖をついたまま、彼はそう考えた。
ぶち犬は靴をくわえたまま、彼の方から眼をそらすと、重そうに頸をふり、今来た道をふらふらと垣根の方に戻って行った。硝子戸の外の犬のいる風景は、ありありと眼に見えていて、またどことなく黄色い光を帯びていた。最後にぶち犬の尻尾が垣根の破れ口にちらりとひらめいて、靴もろとも外に消えた。
(あの垣根も早いうちに修繕しなければ、やがてぼろぼろになってしまうだろう)
彼はけだるく身体を起しながら、垣根の方をぼんやり眺めていた。朽ちかけた竹垣だが、発田の家と彼の家の仕切りになって、往き来できないようになっていたのに、発田のおかみさんが燃料にするために引抜くから、近頃では犬が自由に出入できる隙間ができた。そのうちに人間が通れるようになるだろうし、やがては馬も通れる位になるだろう。今のところは犬だけだが、あのぶち犬は日に三四度は何となく彼の庭にやってくる。茶のぶちをつけたりして、感じのわるい犬だ。牡丹の根を掘ってみたり、捨ててあるものをくわえて持って行ったり、つまらないいたずらばかりする。この間も線の切れた電球をくわえて行ったが、あれはどういうつもりだったのだろう。先日乾しておいた彼の革財布をくわえて行ったのも、この犬にちがいない。
(しかしどうしてこんなに身体が重いのだろう?)
身体のどこかが変調子になっていることを、彼はこの頃はっきり意識していた。とにかく身体がひどくだるくて、それに応じて気持もひどく重い。気持がすこしも動かない。ある鈍麻が彼の全部を漠然と満たしている。ものを眺めても、ただ眺めているだけで、それに働きかける意欲が全然起らない。げんに今だってそうだ。復員のとき持って帰った古靴だが、もう穿けないという程のものではない。盗られて惜しいと思うのではないが、あれば充分役に立つ靴なのだ。あのぶち犬がくわえてゆくのを、ありありと見ていながら、しかも立ち上って取戻す気持になれないのは、どうしてだろう? 犬の姿が全く消えてしまうと、彼はふといつものに似た生理的不安におそわれた。その不安は、漠然と、確実に、執拗に、彼の上にかぶさってきた。
塀の外に、俄風が吹き起っている。
この妙な状態は、何時の頃からか。昨日今日のことではない。身体の機能の狂いを自覚したのは、一週間ほど前、いや十日位になるだろう。食慾がしだいに減退し、身体をうごかすのが大儀となり、何をするのもいやになってきた。ねじを巻き忘れた柱時計の振子が、いつのまにか止ってしまうように、情緒までがだんだん振幅をせばめて、反応を失い始めてきたようだ。現象に呼応して、感じ揺れるものがない。食慾の減退からみると、消化器系の障害もあるらしいが、風邪をひいている気配もたしかにある。それは中山と一緒に酒を飲んで、水に落ちたあの夜以来だ。
昔からの友達の三元が、どうした心境からか強盗をはたらき、とうとう碑文谷署につかまった。ほっておく訳にも行かないので、その善後策を相談するためにあの夜中山と会ったのだが、とにかく酒でも飲もうということになり、ふたりで神田のマーケットに行った。中山の行きつけの店で、匂いの強い酒をコップに五六杯飲んだと記憶する。それから外にでて、マーケットの裏側のくらいところを二人でふらふらあるいていると、どういうはずみか、彼の身体は弾かれたようによろめいて、外套のまま、防火用の水溜りに落ちこんでしまった。落ちこんだというより、まるで突きとばされたような具合であった。おそろしく深い水溜りで、しかも底はどろどろの沈澱物で、足が立たなかった。黒い水に顎までひたして、もし本能的に水溜りの縁を両掌でつかまなかったなら、大変なことになったかも知れない。中山の手を借りてやっと這い上り、酔いも醒めて、そのままで急いでうちに帰ったのだが、下着まで水がしみ通り、靴の中やズボンの折目には濡れた黒い泥がたくさん入っていた。いくら酔っぱらったとはいえ、どうしてあんな馬鹿な目にあったのだろう。そこは暗い空地で、板片や縄きれが散乱し、あるきにくい場所ではあったが、黒く淀んだ水溜りのかすかな反射が、彼の眼にとどまらなかった訳はなかったのだ。空地に足を踏み入れるとき、彼の気持はたしかに酔いにこじれて、ひどく荒れていた。店で酒を飲んでいる間、ずっと三元の話だけしていて、そして少しばかりそのことで中山と言い合ったりもしたのだ。
「三元があんなことをやったのも、もともと君の影響だよ」
中山はそんなことを押しつけがましく彼に何度も言ったのだ。そればかりにこだわっているような言い方で。中山も相当酔っている風であった。
「こんな時代だから、強盗やってもいいんだと、三元に教えたのは君だろう」
「そんなことがあるものか」と彼はひたすら抗弁した。「そんな莫迦げたことを、僕が言うわけはない。言ったとしても、三元が真に受けるものか」
「そら、言ったんだろ。言わなくても、暗示ぐらいはしただろう。そしてあいつは可哀そうにやっちまった。やっちまったから、あいつの負けさ」
中山は眼をきらきらさせて、そんな事も言った。三元の犯罪事件の後始末を相談するために会ったのに、後始末の話はほとんど出ず、なぜ三元があんなことを仕出かしたのかという問題を、堂々めぐりするだけであった。三元のことをサカナにして酒を飲むなど、いささかなまぐさすぎる感じもしたが、中山の語勢につられて、彼もすこしは力んでいるようであった。始めはそんな具合に酔いを殺して飲んでいたのだが、しかしだんだん廻ってくるにつれ、三元の所業などは、もともと彼に縁のない遠いものに思われてきた。
「仲間うちから強盗が出るようになって、おれたちも大したものだよ」
酔った心で思ったままを、彼は口走ったりした。中山は眼を光らせてそれを聞いていた。中山は彼より二つ年上で、ある週刊雑誌の編輯をしている。あまり有能ではないという話であった。若いときからの酒好きで、しらふのときでも鼻が真赤であった。顔の中央に鼻が真赤に凝縮しているのは、ちょっと異様な感じでもあった。
下着まで水に濡れた翌朝、彼が眼を覚ますと、鼻の奥や耳の底が不快に疼いていた。熱っぽい身体からは、かすかにどぶの臭いが立っていた。濡れた上着の内ポケットから革財布を取出すと、十円札が二三枚しか残っていなくて、ここにも強くどぶの臭いが残っていた。彼はそれを水で洗って、庭の日向に乾しておいたのだが、いつの間にか乾したところから見えなくなっていた。発田のぶち犬のことは思いつかなかったので、彼は白木の小娘が持って行ったにちがいないと、漠然と疑いをかけていた。白木の娘は手癖がわるいというのが、もっぱらの近所の噂であったから。
それから三四日して、夕食にシチウが出た。そのどろどろのシチウを膳の上に見たとき、彼は神田マーケット裏の泥水溜りをすぐ聯想して、いきなり嘔吐がこみ上げてくるのを感じた。意識下に眠っていた嫌悪のかたまりが、いきなり現実のシチウに刺戟されて直結したような感じであった。彼は顔をしかめて、台所をたのんでいる婆やに言った。
「これは食えない。下げてくれ」
そして彼は御飯に熱い茶をかけて、やっと一杯たべた。御飯は消しゴムのような厭な味がした。それから念のために体温を計ってみると、検温器は六度八分を指していた。平熱が常人よりもずっと低い彼にしては、正常な体熱ではなかった。平常の彼の体熱は、三十五度を越えることはなかったから、肉体のなかで、なにか異常がおこっているのは確かであった。
(三元のことで、中山はおれにまるで腹を立てているような具合だったな)
あの水溜りに落っこちたのは、酔いに足をとられたのではなくて、中山が突き落したのかも知れないと、彼はふと考えたりした。あの夜中山が三元の心情をしつこく問題にしたのも、三元の所業が中山にとって他人事でなかったからに違いなかった。その事は漠然と彼にも想像できた。三元と中山は古いつき合いで、気持の上でもほぼ同じコースを生きて来たと言ってよかったから。しかしあの夜、中山がその事で彼にからんだ気持は、彼には判らなかった。ただ彼は中山の赤い大きな鼻を、よごれた紅中の牌みたいな印象の風貌を思い浮べるだけであった。
(おれを突きとばしたのが中山だとすれば、その時あいつはどんな表情をしていたのだろう?)
そう考える度に、彼はへんに冷たい可笑しさが唇にのぼってくるのを意識した。その可笑しさのなかに、突きとばされた彼自身の恰好の滑稽さもふくまれていた。そしてそれはただの可笑しさだけであった。突き落した中山にたいする気持の働きかけは、彼の内部ですべて死んでいた。今残っているものは、水に濡れたことによる風邪、それに導かれた肉体内部の得体の知れぬ障害、それだけであった。身体のどの部分が狂っているのか、それを極めるのも物憂かった。長い行軍のあとのような疲労感が、この二三日昼も夜もあった。彼は一日中昏々と眠っていたいと考えるのだが、いろんな用事がむらがって起き、止むなく歩き廻ったり人に会ったりしなければならなかった。動き廻っているときは気が紛れて、現実にはげしく身を触れあっている気にもなるのだが、ひとりになってみて、気持がほとんど揺れ動いていないことに気がつくと、彼はその度にある不安にとらわれた。不安といっても、正体をつかみにくい、たとえば快感を伴わぬ射精のような、不透明な虚脱感であった。それがこの一週間ほどに時々おこった。しかしこの一週間というのは、彼に意識されただけで、本当はずっと以前から、何年も何年も前からつづいていたのかも知れなかったが。
それなのに、用事はあとからあとから起きてきた。枕に顔をつけて眠ろうとすると、何度となく眠りから呼び帰しにくるあの意識の小悪魔に似ていた。会合がいくつも重なったし、また三元のことでM精神病院にも行かなければならなかった。裁判にあたって精神鑑定を申請するために、一応その方面のことを問い合せておく必要があったのだ。それはあの夜、中山が発議したことであった。日を定めて、彼は中山と連れだって、M病院にゆくことになっていたが、その行程を利用して、中山は自分の週刊雑誌に精神病院見学記を書くつもりらしかった。M病院には知合いの医者がいたが、まだ連絡をとっていなかった。
それから彼は住居を見つける必要にもせまられていた。今の家は遠慮がちな追い立てをくっていた。家主は隣家の白木で、彼と発田の二軒が白木の持ち家であった。白木と彼の家をへだてる垣根に長者門があって、その扉をあけて白木は、三日に一度くらい彼の家にやってきた。彼と花札をたたかわす為である。白木は彼よりもすこし若く、小柄な男であった。皮膚が豆腐みたいにぶよぶよと白かった。黒い小さな眼球に、瞼が白くかぶさっていた。定まった職業をもたないので、いつも貧乏しているらしかった。毎日ぶらぶら家にいて、日向ぼっこしているか、鶏の世話などをしていた。白木が飼っているのは、軍鶏である。白木はそれを若鶏のうちから育てて、訓練をほどこし、強大な成鶏にそだてあげると、それを闘鶏に持って行くのであった。白木が貧乏しているのは、このせいであった。だから白木は自分の持ち家を売って、金をつくりたがっていた。しかし彼のような借家人が居坐っていては、買手がつくわけもなかった。しかも白木が彼に明渡しを促す時は、ごく遠まわしな言い方で、まるで逆に居坐って呉れとでもいっているような具合であった。