Chapter 1 of 4

九年前の出来事

小夜子は夫松波博士の出勤を見送って茶の間に戻ると、一通の封書を受取った。裏にはただ牛込区富久町とだけ書いてある。職業柄、こうした差出人の手紙は決して珍らしいことではないが、これは優しい女文字でしかも名前がない、彼女は好奇心にひかされて主人宛の親展書であるにかかわらず、開封した。

「旦那様!」という書き出しにまず眉を曇らせ、キッとなって読み始めた。

「あなた様は突然こういうことをお聞きになってもお信じになれないかも知れませんが、どうぞ、私の申上げるこの偽りのない物語を最後までお読み下すって、切なる私のお願いをおきき下さいませ。

今から九年前、お小間使として上っていた花と申す少女のあったことはいまでもお胸の底にハッキリとご記憶遊ばしていらっしゃるだろうと存じます。その花は旦那様のお気に召したばかりに、奥様の御機嫌を損じ、遂々お暇を出されてしまいました。

半年後、お家附きの奥様は玉のような若様をご安産遊ばしました。一日違いで、花もまた男児を産みました。同じ父君を持ちながら、一方は少壮弁護士として羽振りのよい松波男爵の御嫡男達也様、やがて立派なお家を御相続遊ばされる輝かしいお身柄。一方は生れながら暗い運命を背負って、荊棘の道を辿らねばならぬ貧しい私生児。

花の児には父君にあやかるようにと、旦那様の御姓を無断で一字頂いて、松吉という名をつけました。せめて一と目でも見てやって頂き度いと、再三お願いしましたが、旦那様は無情にもそんな覚えはない、と、一言のもとに吻ねつけておしまいになり、可愛いい松吉の顔を見て下さらないばかりか、最後には脅迫だとて、花の父を警官の手にお渡しになりました。

その冷めたいお仕打ちを花は心から恨みました。無念の歯を喰いしばりながら、散々考えた揚句、ある復讐を思いつき、ささやきますと、お人好しの父は震え上り、その無謀に驚いてなかなか取り合ってくれませんでしたが、旦那様が余りにも冷酷な態度をお示しになるものですから、父も遂いに意を決し、同意してくれました。

そして、それを実行しました、というのはこうなのでございます。

ある夕方、父と花とは案内知ったお邸内に忍び込み、様子を覗いていました。それは恰度お宮参りの日で、お屋敷はお祝いのお客様で大混雑、応接室の方からは晴れやかな笑声が絶えず聞えて居りました。やがてお客様達がお食堂の方へお入りになると、乳母やさんは達也様を抱いて、静かなお離室へやって来て、一息吐いていました。少時すると乳母やさんは達也様を小さい寝台の上にねかしつけ、ツト、起って廊下へ出ました、たぶんご不浄へでも行ったのでしょう。

その隙に、素早く、花は抱いていた松吉と達也様をすりかえてしまったのでございます。幸か不幸かその当時の二人は瓜二つでした。

そこへ戻ってきた乳母やさんは愕いて身動きも出来ず、棒立ちになってしまいました。父はいきなり短刀を突きつけ『声を出すと命はないぞ!』と脅しました。しかし、乳母やさんは存外落ち付いたしっかり者でした。もうこうなっては仕方がありません、泣いても、騒いでも、若様のお姿はそこにはない、おくるみに包まれて眠っているのは汚ない産衣を着た松吉で、達也様は花の手にしっかりと抱かれ、泣きもせず、もう先へ逃げてしまっていたのですから――。

声を出して殺されるか、主人に不注意を叱られるか、どちらかです、ところが乳母やさんは何も云わず、松吉の衣類を脱がせて父へ渡し、お戸棚から新らしい白絹の産衣を出して着せたのです。そしてまんまと松吉は達也様になりすましたわけなのでございます。

その日から幸福な松吉は男爵家の若君様として、大切に育てられました。

達也様の方は松吉となって、トンネル長屋の隅で大きくなりました。(これから若様の事を松吉と申します)花は人のすすめる結婚話などには耳を貸さず、只管松吉の成長を楽しみに、父と二人で働きました、ところが、昨年の冬、ふとした感冒がもとで松吉は肺炎になりました。

実子ではないが、大変可愛がって居りましたので、どうかしてなおしたいと思い、身分不相応なえらいお医者様にも診て頂いたり、高価なお薬を買って飲ませたりしました、貧乏な者達にとって、それは一方ならぬ苦しみでございました。

お金さえあったら! 松吉の命は助かるのに――、と思うと堪らなくなって、悪い事と知りながら花は人様のものを盗みました。忽ちそれが露見して、捕えられ、刑務所へ送られてしまいました。悲しいことにはその留守の間に、可愛いい松吉は死んだのでございます。花が罪を犯してまで助けたいと希った命は、奪われてしまいました。

ああ思っても気が狂いそうです、死のう! そうだ、自分も後を追って死のう、と、さえ思いつめました。愛児を失った悲しみ! それは経験のある方でなくては到底お解りになるものではございますまい。

その時、ふと頭に浮んだのは達也様のことでした。死んだのは自分の児ではない、ほんとの児は生きている、この世にまだ生きているんだ、現に、男爵令息として学習院に通っているではないか、と、思うともう一刻も我慢が出来なくなり、その時からお屋敷の附近を彷徨き始めました。何日目かでやっと若様にお目にかかれました、それはランドセルを背負った学校帰りの可愛いいお姿でした、飛び付きたいような心をジッとおさえ、甦ったような喜びに胸を跳らせながら花はお顔を見詰めて居りました。が、もう只今の花は、遠くからお姿を見て満足しているだけでは我慢が出来なくなりました、自分の児を他人様の児として眺めている気にはなれなくなりました。若様、いや、達也様は花の児でございます、花の児です。花は自分の児をぎゅッと抱きしめたくなりました、抱きしめて、抱きしめて、離したくない、もう誰にもやるのはいやです。

どうぞ、旦那様、花の児をお返し下さいませ、私の申すことが嘘だと恩召すなら、証拠をあげてみましょう。

達也様には腋の下に小指の先で突いたほどの赤痣がある、花と同じように下唇に黒子もあるはずです、しかし、それ等は外から見てわかる事で、云いがかりだと仰しゃられてはそれまでですが、体質の遺伝については争うことが出来ないだろうと存じます。旦那様も奥様もご立派な御体格で、失礼ながらお色はお白い方ではいらっしゃいません。それですのに、達也様は腺病質で皮膚が青白く滑っこい、それにもう一つ、これだけは永久に秘密を守ろうと決心していたのですが、こういう場合ですからお打ち開けいたしましょう。

不幸な者はどこまで不幸なのか、花の血統には、ああ思っても恐しい、汚れた血が流れているのでございます。母方の祖母は発病と同時に家を追われ、旅に出たまま行衛不明になってしまいました。そして母もまた花が三つの時、花を父に頼んで永久に姿をかくし、生死さえも分らないのでございます。結核質に加えて――。

このいまわしい血を受け継いだ達也様が、由緒正しい、立派なお家柄を御相続遊ばすお身の上だとお知りになったら、よもや、返すのをいやだと仰せられますまい。

花の手に育った松吉はそれに引換えて色黒で頑丈なしっかりした児でした。しかし、花は弱くっても、悪質の遺伝を持っていても、やっぱり自分の児が欲しゅうございます。当時の証人としては、甞ての乳母やさんがいつでも出現して下さるそうでございます。どうぞ、旦那様、花の児を返して下さいませ――」

小夜子はもうそれ以上読み続ける勇気がなかった、思いがけないこの手紙は、彼女の心を真暗にしてしまった。

花という小間使のいたことは記憶している、緋桃の花のような可憐な美少女だった、その少女がいるために御用聴きの若者達が台所口を離れなくて困る、と、醜い顔の他の女中が度々訴えたことも覚えている。十七にしては少しませていたが、気の利いた賢い娘だったので彼女も愛していたが、夫にも大変気に入っていた。小夜子は悪阻のあとの衰弱がひどかったので、暫時箱根の別荘に静養していたその留守の間に、花は暇をとって帰ってしまった、どういう理由で帰ったのか、別に詮議立てもしなかったので、それについては何も知らなかった。

小夜子は今の今まで、あの謹厳な夫がこんな醜い半面を持っていようとは夢にも思わなかった。刑務所から来たものだから囚人の手紙に違いない。事によると、これは夫の弁護に不満を懐いた女の捏造で、家庭の平和を破壊してやろうという蛇のような復讐かも知れない、うっかり乗ってはそれこそ物笑いだと、心で打ち消すあとから、あるいは――とまた疑う心が頭を持ち上げて来る。

半信半疑だが、全然無根だとも思えない、それが小夜子の心を憂鬱にさせる。なるほど達也は腺病質で弱い、夫婦とも壮健なのに不思議だ、と、主治医も常に首を傾げている、するとやっぱり――、彼女の胸には疑念が湧いた、が、それにもかかわらず、その手紙を夫へ見せようとも、また訊きただしてみようとも思わなかった。

というのは、松波博士と夫人とは非常に仲の好い夫婦だったので、小夜子はひそかに自分一人で何とか始末をつけ、夫の耳には入れまいと考えたのだった、殊に今、ある有名な事件の弁護を依頼され、日夜そのことに没頭している際でもあったので、こんな煩わしい、偽か真実かさえも分らぬような話で、夫の頭を掻き乱すに忍びなかった、たとえそれが事実であったとしても、全く一時の過失に違いない、それなればこそ、花の申出にも拒絶しているではないか、一時の過失位は笑って許すのがほんとに夫を愛する妻と云えよう。

「どうせ、過失のない人間なんてありやしないんだから――」と、小夜子は自分に云って聞かせるように言って、手紙を箪笥の中へ納い、ピンと錠をかけてしまった。

Chapter 1 of 4