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飛んだ道草をしてしまって――、キールン・ホテルに着きました時は、もう何もかも片付いた後のように、しんとしていて帳場には誰も居りませんでした。時間が経ったせいもあるのでしょうが周囲の様子が実に落付いていて、今しがた人殺しがあった後のような風はどこにもありませんでした。
帳場の横手の茶の間を覗くと、そこには主人の張氏夫婦が、額を突き合せるようにして、何かひそひそと語り合っていました。
『あ、よくいらした!』
張氏は愛想よく起ち上って、私を迎えて呉れました。
『人殺しがあったっていうじゃありませんか?』
妻君は夫と私の顔を等分に見て笑っています。張氏は面目なさそうににやにやしながら、
『間違いだったんですよ。周章て者が、人殺しだなんて云い出したもんで――。大騒ぎになっちゃいましたんですが――。なあにね、急病で死んだんですよ。何んでもなかったんです』
私はちょっと拍子抜けがしました。それだからこそ、家の中がこんなに静かだったのです。
『病死だったんですか』
『脳溢血で死んだんですって、警察のお医者さんが云いました』と妻君も口を添えて云います。
『そう。でもまあよかった。人殺しなんかあると他のお客さんが嫌がるでしょうからね。脳溢血なら、これや仕方がないわ。こちらはまあお仕合でしたね』
『始めっからそうと分ってれば何でもなかったんですけれど――。一時は吃驚して、大騒ぎしたんですよ。巡査さんが来るやら――』
脳溢血と確定して、皆引き揚げてしまった後だったんです。しかしせっかく来たのですから、せめてその殺人嫌疑のあった部屋だけでも見せてもらって帰りましょうと思って、案内を頼みますと妻君は快く承知して、先に立って階段を昇って行き、一番端れの十三号と札の出ている室の扉を開けて入りました。
殺風景な、実に粗末な室です。西陽を除けるための日除けも汚点だらけで、壁にも処々地図のような雨漏りの跡があります。壁に寄った隅の方のベッドには死人が後向きに寝かせてありました。顔には白布が掛けられ、体にも小ざっぱりした布団が着せてありました。
『引取人が来てくれるまでは心配です。何しろ、このお客さんはお昼飯頃に着いて、夕方にはもう冷たくなっていたんでね。宿帳をつけてもらう間もなかったんですの。身許がよく判明しないので困ってるんですよ』と妻君はこぼして居ました。
私は死人の方へ向いて一礼し、室を出ようとしました時、米松の粗末なベッドの脚のかげに小さい白いものが落ちているのをチラと見ました。急いで拾上げて見ますと、象牙細工の人形です。小指の先ほどしかない、小さいものですが、よく見ると、シルクハットを被っているシュバリエの立像でした。警察の人も殺人でないと定ったのでよく調べなかったと見えます。
余り小さくて、可愛く出来ているので、指先で弄っていますと、シルクハットが螺旋のようになっていてくるくると廻ります。廻しているうちにぽつりと、とれてしまいました。帽子は蓋だったのです。中には佳い香の煉香水が詰っていました。耳香水です。
私は小指の先につけて香を嗅ぎました。この匂は? ウビガンのケルクフルール? たった今謎が解けたはずのあの匂だったのです。私は妻君に耳香水を渡しながら申しました。
『こんなものが落ちてたんですよ。奥さん、あなたのですか?』
彼女は怪訝な顔をして見ていましたが、掌の中にしっかりと握りしめてしまいました。
茶の間に戻ってから、彼女はそれを夫の掌の上にのせて云いました。
『あの人が――、慌てて落して行ったんですよ』
張氏は耳香水を指先でひねくり廻したり、香を嗅いだりして珍らしそうに眺めていましたが、
『帳場の前をすうッと通って行く時、いつもこの香がぷんとするんだ。これやあの十三号のお客さんの匂だよ』