Chapter 1 of 26

第一章

乞う、陸地測量部二十万分ノ一の地図「日光」及び「宇都宮」をひろげてみよ。中禅寺湖をかこむ外輪山の南面、松ノ木沢に源を発してうち重なった緑のひだのあいだを南流する一川に気づくであろう。それは赤城山脚を右岸とするあたりからおおきく東南に転じ、左岸に日光山彙からなだれてきた一群の丘陵の裾をおさえつつ、大間々、桐生、足利とようやく広濶の地にでて、迂曲し蛇行して栗橋の手前で大利根に合流する。

これがすなわち渡良瀬川である。途中これに合する支流を数えれば、南方から注ぐものは矢場、谷田の二川にすぎないが、北方からは桐生、小俣、松田、やや下って袋、才、旗、秋山の諸支川、さらに古河の近くで思川が来り合している。その流域は栃木、群馬、埼玉、茨城の四県下にわたり、面積は二百三十余方里、幹川の流路は二十七里、支川を合せた総延長は二百十余里に及んでいる。

さて、この下流の平野が五穀豊穣であったのは古来のことで、古い郷土史をたずねれば人皇十代崇神天皇の御代に豊城入彦命が下向して毛野の始祖となりたもうて以来、日本武尊の御東征をはじめとして、藤原魚名の東夷討伐、天慶の乱、前九年、後三年の役など東国に反乱のある度ごとに、佐野の地方が討伐の根拠地となり兵站部となっている。つまり物資がゆたかでよくそうした場合の徴収に堪え得られたし、生活がのんびりしていたから将卒の土着して農耕に従う者がしだいに多く、その子孫がまた兵の徴募に応じるという事情があったためだという。この地方に古墳の多く発見されるのも、村々に城跡や堡砦の跡のおびただしいのも、この間の消息を証拠だてるものである。また「安蘇に無姓なし」という俚言の行われたのも、仕事ぎらいの無性者を指したのではなくて、家々の由緒や系図をほこる謂であった。徳川が統治上の不便から官名禁止の圧制を行う前は、安蘇地方だけで宮中の官名位記を持っていたものが二百五六十家あったというから、あたかも京都及びその近郊に公卿がうじゃうじゃしていたのと同然で、ただそれとは身分に隔りがあっただけである。これらの土豪たちは己の家系を誇るところから自尊心が強く、徳川の治下になってからも内々ではなかなかその権勢に屈しないものをもっていた。多かれすくなかれ尊王思想をひそめていて、それが郷党に一種の気風をかもす結果となっていた。

五穀豊穣の地であることをいうために、なにもそうした旧事を持ち出すまでもない。ただ河川が潤沢であることを挙げただけで、その一半の証明ともなるであろう。

河川があればこれに洪水のともなうことは、何処でもまず例外のない話である。渡良瀬川の下流地方もまた実に三年目、五年目に洪水に見舞われてきた。しかもその水源地は山が深く、嘗ての頃の尾根々々は斧鉞の入らない鬱蒼とした森林におおわれていたから、ひとたび山岳地方に大雨があると、その出水は森林の根方及び谷底に堆積していた枯枝、落葉、木の実の類の腐蝕したものを泥とともに押し流して、これを下流の沿岸一帯へ運びこんだ。それゆえ汎濫の去ったあとは、薄いところで二三寸、厚いところは八九寸もこの游泥でおおわれる。いわゆる腐葉土、天然の肥料である。すなわち洪水は沿岸の農作物を侵すが、そのかわり翌年、翌々年は肥料を施すことがいらない。農民たちはかえって洪水をよろこぶ傾向さえあった。しかも彼等はその年洪水で失った作物の損害を、漁獲によって補うことができた。洪水があると、四囲いたるところの河川、沼沢、渠溝に、魚がおびただしくふえるからである。

洪水は夏から秋へかけて多い。このあたりの農民は自然の教えに従って、大豆、小豆、粟、陸稲、芋などの夏作はなるべくわせ物を作って、その害を遁れるようにしていた。だが、大麦、小麦、菜種、辛菜などの冬作は、ただ種さえこぼしておけば無肥料で収穫があった。大麦は丈が五尺にものびて自分の重味で倒れがちだった。馬につけると穂が房々と垂れて地に引きずった。菜種は六尺余りにのび、辛菜は八九尺に繁った。菜の花の咲き盛るころには、沿岸一帯が鬱々と黄金色のひかりを放って、空が明るくなるほどであった。

また沿岸には森や竹林が鬱蒼と茂っていた。殊に竹林は見事に発育して、「尺丸」といって一本を一把として売買するような太竹が伸びた。八九月頃にはその出荷の青竹が筏に組まれて無数に川を下った。孟宗竹のほかにも到る処に篠竹が繁茂し、その幹がみっしり立てこんで、上り下りの川船もただ楫音をきくだけで姿が見えぬほどであった。これらがまたおのずから護岸の働きをした。

そうした篠竹や、泥柳や、葦の茂ったところでは、川面へ突き出して櫓を組み、四ツ手網をかけているのが見られた。十文字の青竹がしわって、ザアッと水のしたたる網が引きあげられる。獲物の魚が銀いろにピンピン跳ねる。鮠、鮒、鯉、マルタ等が一晩に十貫二十貫目と捕れた。晩夏初秋の頃になると、朝靄のなかに舟を流して投網をうつ姿が見られた。鱸や鯔が一網で五尾も六尾も捕れていた。また枝川へ杭木を立てて鮭網をかける者もいた。大雨の後には濁り水に仕掛けた袋網からは、五貫も十貫も鰻が捕れた。

たとえ年々歳々、ここにもまた人生の喜怒哀楽はさけがたかったとしても、まことに農民たちにとっては、自然の恵みを残りなく甘受できる安居楽業の地であった。

ところが、明治十二年の夏のことである。雨あとの川水が青白く濁って魚が白い腹を返して浮いて流れて来た。何千匹というおびただしい数である。だが、ただ目撃したものだけがどうしたことだろうと不審を抱いただけでその年は過ぎた。するとまた翌年の洪水に、勢のつよい鰻がくたくたになって流れてきた。子供たちがおもしろがって手づかみにして騒いだ。

「渡良瀬川にちかごろ変なことが起ってきた」

ようやく不審の声がひろがった。これは唯ごとではないぞと、野良の立話に不安の眉をひそめる者もいた。だが、誰一人として、その理由を知る者はいなかった。すすんで原因を穿鑿しようとする者もなかった。おそらく桐生や足利辺の機業家が使う染料のせいだろう、どこにもいる半可通のそういう言葉に、なるほどと合点して、すましていた。さすがに栃木県令藤川為親は、渡良瀬川の魚は衛生に害がある、捕獲してはならぬと訓令を出した。この警告は明治十三年、十四年、十五年とつづいたが、ただ魚獲の抑制にとどまった。しかもその藤川はいつか島根県へ左遷されてしまった。

年々魚獲を業とするものは減って来たが、一般の農民たちはなおそうした事態を警告として、深くは意にとめなかった。洪水に見舞われるのは天災で普通のことだとしていたし、ただ洪水のあとで足の指の股が爛れるのや、洪水のおいていった土には草が生えぬのが不思議だと語り合う程度であった。こうしてまた幾年か経った。だが、その洪水も年ごとに荒々しさを加えてきた。北岸の栃木県下では数カ所の支流から逆流が洪水の度ごとにはげしくなって、田畑の収穫が著しく減ってきた。南岸の群馬県下は支流がすくないから逆流の害はなかったが、堤外地の桑畑へ植えた里芋が、わずかに天保銭くらいの葉になったと思うと枯れてしまった。あとへ植えた陸稲がこれもまた三四寸で枯死した。洪水に丈夫な桑が倒れたまま根がつかず次々に枯れていった。こうして異変は見る目に著しくなった。いやでも異変に無関心ではいられなくなった。この渡良瀬川の上流の山奥に足尾銅山がある。それが最近、さかんに仕事をしだしたそうだ。その鉱毒が流れてきて、この禍をするにちがいない。だれがいいだしたともなく、そうした声が農民たちの耳に入り、今更のごとく驚愕の目色で語りつたえられた。それを聞いたものは過去を思い合せ目前をにらみ合せて、さすがに一種いいしれぬ恐怖に襲われた。ようやく異変の原因に気づいて胸を打たれたものの、人々はどうしたらいいかわからなかった。ただ憂愁の顔を見合せて今後の成り行きを憂えるのみであった。今のうちにその筋に訴えて除害の方法を講じてもらわなければならぬと語り合う者もいたにちがいないが、さていかにしてという実行までには発展しなかった。恰もこのとき彼等の愚昧を怒るごとく笑うごとく、明治二十三年八月二十三日、またしても洪水がこの地方を襲った。渡良瀬川としても、その増水は未曽有のことだった。栃木県下では諸支流が水嵩たかく逆流して付近一帯の耕地を浸した。

群馬県下は西谷田村大字除川字大巻の堤防が決潰して、館林以東の八九カ村が泥海と化した。

被害地中ことに惨害を蒙った吾妻村では十二月に臨時村会をひらいて、村長亀田佐平の名で栃木県知事宛に上申書を呈した、ともかく鉱毒の被害に目ざめて公に抗議した先駆である。文中にはこんな文字があった。「之れ独り我が吾妻村のみならず、渡良瀬川沿岸の各村落は同一の害を被り、多年を俟たずして荒蕪の一原野となり、村民悉く離散せん」同月栃木県会でも折田知事宛に除害の処分方を建議した。しかし県庁も郡役所も、鉱毒被害の広く認識されることによって沿岸人民の動揺することを恐れるもののように、ただ隠然と申しわけだけの調査をするにとどまった。

翌年の四月上旬、足利、梁田、両郡の有志が足利町に会合して、被害地の有志と相謀って、自分たちみずから実地の調査をすることを申合せ、それぞれ自村に帰って計画をすすめた。すなわち五月一日には吾妻村の亀田佐平、内藤増次郎、川田道二郎、毛野村の早川忠吾、小貫和吉、川島簑吉、梁田村の長祐之、中山勝作、小川作太郎等が毛野村に集って、さらに具体的に調査の一歩をすすめることにした。翌日、早川は吾妻村大字羽田及び梁田村大字梁田の澱土を携えて上京し、長は足尾銅山へむけて出発した。

早川忠吾は佐野出身の新聞記者村田誠治を訪ねて志賀重昂への紹介を依頼した。志賀は農学士で当時同じく政治記者をしていたから、土砂分析の適任者を選定してもらう考えであった。志賀は高等師範学校の大内健に宛てて添書をくれた。大内を訪ねると彼はまた農科大学の古在由道を推して、この人ならば公平無私で決して情実に流れることはないと、その人物の剛直を保証した。早川は意を強うして早速に古在教授を訪れて来意を述べ、

「すでに現地には農商務省から坂野技師も出張して来てはおられますが、どうも行政庁のやることは私ども地方民の望に反して迂遠です。且つ調査の結果をそのまま報告したら、或は農民が騒ぎだすのではないかという心配から、おそらく事実そのままは発表されないのではないか、私どもはそれを杞憂しております。実情は私どもがそれをおそれるほど被害が大きいのです。あくまで農科大学の御見識をもって学問上から突込んで研究していただきたい。私どもは信頼のできる農科大学の調査によって、被害の原因をつきとめたい、そう思って、わざわざ土砂を携えて上京したのです」

黙々ときいていた古在教授はそれに答えて「目下長岡教授が出張中で、耕地の土砂を各種持って帰ることになっています。帰京次第それで試験地を設けて試作する準備もしている。大学は独自の見地から調査はすすめている。だが、地方の人々が農科大学の分析に信頼されようとする気持ももっともである。よろしい、早速分析をしてあげよう」

早川は更に膝をすすめて、

「その報告をいただけば、それぞれ地方の有志に見せなくてはなりません。先生は報告の責任を負われることになりますが」

「もちろん、分析を引受ける以上はその覚悟である」

その然諾に早川はおおいに力を得て帰郷した。そして同志とともに一日千秋の思いでその報告を待った。

一方、長祐之は桐生、大間々を経て、渡良瀬川に添って溯ること十数里、三日に足尾に到着した。途中上州花輪のあたりへ来ると、渓流の水の色がすでに変っていた。足尾の町家をすぎ、やや上流の渡良瀬部落へきて合流点に立ったとき、彼は思わず足をすくめてその水流に見入った。細尾峠から神子内を経て流れてくる沢は清冽であるのに、松ノ木沢の一流はその色が粘土と石灰をかき混ぜたように濁っていた。両者の別は截然たるものである。鉱毒の有無を水の色に見たと痛感せざるを得なかった。翌日はその渓流ぞいに赤倉の製煉所へ行って、焼鉱炉や高炉の数箇の煙筒が、濛々と無気味な煙を吐いて日の光りを遮ぎるのを見た。鼻を衝き喉を刺戟する悪気があたりにただよい流れるのを見た。溪谷をかこむ山々に樹木ひとつなく目にとまるのは無惨な枯木だった。山肌はどこも崩れ落ちそうで磊々たる岩石の堆積だった。これでは夏季豪雨の候に土砂岩石が一時に押しながされて、渡良瀬の河身を浅くするのも道理であるとうなずかれた。さらに本山の有木、鷹の巣、本口の諸坑口へ攀じのぼって、諸坑の坑口から青味を帯びた汚水が流れ出るのを見た。これこそ丹礬質をふくむもので、こうして常時絶え間なく渡良瀬川へ鉱毒が注がれているのであるかと慄然とした。次の日は小滝坑を見て、ここでもまた同様の感慨を深くした。

そこで彼は、銅山の当事者が鉱毒被害をどう感じているかを知ろうとして、六日には銅山事務所を訪ねた。戸田某が面接して、長とのあいだに種々応答がとり交された。渡良瀬川沿岸の農民は十年鉱毒という原因を知らないでいたが、昨今の惨害はかくかくであると長が説明すれば、戸田は果して、それは洪水の被害であろう鉱毒はそんな遠方に及ぶものでないと首をふった。除害策を促せばなお急務ではないとうそぶいて相手にしなかった。

長はもはやこれ以上談合することの無益をさとって口をつぐんだ。帰郷のうえ大いに運動を試みねばならぬと、深く心を刺戟されて下山した。

かくて六月中、前記三カ村の有志たちによって「足尾銅山鉱業渡良瀬川沿岸被害事情」と題した印刷物が、沿岸の村々へ配られた。これには早川及び長の報告とともに、古在教授の分析表が掲げられていて、「右の圃地に植物の生育せざるは、恐くは土壌中銅化合物を存在するに因るならん」と添え書があった。なお毛野村大字北猿田の渡船場の水の分析も採録されていて、「右の成績に依れば本水は亜硝酸、銅、安謨尼亜等を含有するに付飲用に適し難きものと認定す」とあった。これは前年の十月中、早川が宇都宮病院に分析を依頼したものの結果で、調剤局長大沢駒之助の署名があった。

「産業時論」を主宰する横井時敬に有志たちが被害地の視察を乞うたのもこの頃である。横井は被害地を巡廻しておおいに農民に同情を寄せ、数カ所に講演会をひらいて彼等の覚醒をうながした。帰京後は農村問題、社会政策の見地から輿論を呼び起そうとしたが、ほとんど耳を傾けるものがなかった。

このとき、栃木県第三区(安蘇、梁田、足利三郡)選出の衆議院議員田中正造は、群馬県人左部彦次郎を助手として独力で被害調査に着手していた。左部は当時まだ東京専門学校(早稲田大学の前身)の学生であったが、すでに昨秋以来、正造の命によって大島村の小山孝八郎方に滞在して調査をすすめる一方、土地の有志と請願のことについて議を凝らしつつあった。

さて足尾銅山とは如何なる鉱山であろうか。このあたりで、その沿革にふれておく必要がある。

旧記によれば、慶長十五年に当時の足尾郷の農民で治部、内蔵という両名がはじめて鉱脈を発見し、領主の日光座禅院座主の許しを得て試鑿したのにはじまるということだが、明治十年代になってなぜ鉱毒の被害を見るようになったのか。それにはそれだけの理由がなければならない。

治部、内蔵が試鑿してみると、翌十六年には多くの銅鉱を得たので、これを真吹銅として将軍家に献上した。時に家光の着袴の式が挙げられる際だったので、これを吉事としてそれより銅山は幕府の直轄となった。同十八九年の頃は江戸、大阪、長崎に会所を設けて、産銅の五分の一を和蘭へ輸出するまでになった。その後さらに延宝四年から貞享四年に至る間に、吹床三十二座を設けるに至り、爾後約十年間は年々三十五万貫から四十万貫を製銅した。

ところが宝永元年にこの地方に大洪水があって、四囲の山々から溢流する出水のために銅山の建造物、人家、銅鉱、溶滓、廃鉱等ことごとく流失した。だが、幕府から普請料が下付されて、同五年に江戸城修築用瓦として銅板百二十万六千四百枚余を製出するまでに立ち直った。享保三年には火災があって、足尾の家屋千数百戸すべて灰燼に帰した。

こうした幾変遷ののちに元文初年ごろから、ようやく収支が償わなくなって、年一年と経営困難に陥ってきたので通用銭鋳造のことを歎願した。一厘銭の裏に「足」の字があるのがこれだという。

明治元年の三月、幕府銅山の役所が引払いとなった。日光県、のちには栃木県の管理で明治四年に至ったが、同五年にはじめて民間の手に移って、大阪府人野田産蔵の借区となった。ついで七年には長崎県人副田欣一に、十年には福島県人志賀直道に名義が移された。志賀直道は相馬家の旧家臣で、主家のために個人名義を出して表面に立ったのだが、その裏面にまったく別の人物があって足尾の稼行が着手されたのであった。ではその裏面の人物とは誰か。

京都の小野組が瓦解したのは明治七年である。当時小野組は政府の御用金や各府県の為替御用を扱っていて、殖産興業という名目で貸下げられた無利息無抵当無期限の金を広くいろいろの事業に注ぎこんでいた。ところが政府の方針が一変して、官金預り高に対し相当の担保物件を入れよというにわかの厳達だった。小野組はこの火急に備える余裕がなくて破産したのであるが、同時に相馬家からの預り金も返済できない始末になった。そこで、代償として越後の草倉銅山が小野組から相馬家へ引き渡された。

そもそもこの小野組に鉱山事業を創させたのは、別家格にすすみ東京の支店を支配していた古河市兵衛であった。市兵衛は主家の没落に遭って、拮据経営の事業がもろくも灰滅に帰したのは、根本が他に依存しておったからであることを身を以って痛感した。彼は独立して事をなすべく日夜肝胆をくだいた。その結果まず相馬家に帰した草倉の下受け家業をやることから出発した。これが明治八年のことで、のちに相馬家の旧藩士のうちに、主家が鉱業のような浮沈の多い事業にかかわることに異論をとなえるものがあったので、市兵衛はこの草倉を買受けた。九年には旧高松藩松平家から羽前の幸生銅山を買収し、十年にはさらに相馬家及び渋沢栄一との共同ということで足尾の稼行にのりだした。だが、これも経営の実際は、すべて市兵衛の手中にあった。それ故まもなく相馬家及び渋沢の権利を譲り受けて、名実ともに足尾を一個人の手に掌握した。明治十九年のことである。

なにしろ足尾は慶長年間から掘りつづけてきた鉱山である。その坑口が八千八口あるといわれたほどで、まるで蜂の巣も同然だった。しかも過去数年はほとんど廃坑になっていた。鉱山師仲間も古河がどこに見込があってあんなボロ鉱山に手を出すのかと嗤笑したし、彼の周囲にも諌静の声がしきりだった。

だが、市兵衛は、古い歴史をもつ名山だからというだけを唯一の根拠として、しかも確信あるもののように入山した。人気のない坑内はたださえ無気味である。まして旧幕時代に掘り荒らした旧坑は落磐や湧水の箇所も多く、一歩踏みこめば鬼気せまるばかりに凄惨だった。鉱夫たちさえ尻込みしてその取り分け作業を嫌った。そこで市兵衛は敢然と先にたって入坑し、鉱夫たちを叱しはげまして着々と仕事をすすめた。備前※山の山腹の旧坑が、明治十年から息をふき返したのはこうした次第であった。

市兵衛は草倉、幸生両山の収益を挙げてこれへ注ぎこんだが、なお十三年頃までは容易に将来の見込みもたたなかった。だが、それに屈する彼ではなかった。後年「運、鈍、根」などといって、いかにも商人出身の実業家らしい体得を自他ともへの箴言としていたが、彼にもそうした信念を確めるだけの修業時代があったのである。

市兵衛の人間をもりたてたのもその根であるが、彼の事業の大をなさしめたのも根であった。彼はその根気で猛然と足尾の岩磐にぶつかった。坑長を代えること三回、ついには甥の木村長兵衛を起用して四代目の坑長とした。すると、この長兵衛がまたなかなか精悍な気象で、ために一山の志気がふるい立ったというほどである。無論そのためばかりではないが、十五年以来備前※山の下底をさぐる開鑿方針で掘進していた本口坑道で、十七年五月に横間歩の大直利に当った。これが足尾を隆盛にみちびく端緒となって、翌十八年九月には大通洞の開鑿に着手した。即ちその坑口の選定されたのが、本口坑からさらに八百二十尺の下部、渡良瀬川北岸の和田ヶ淵である。

この十八年から足尾の産銅額も急に多くなった。十五年の二十二万斤から十六年には百万斤、十七年には三百八十万斤という工合に年々累進していたが、十八年には六百八十万斤を産するに至った。さらに二十一年末、古河が仏蘭西に勃ったシンジケートの世界的の銅買占に応じて三カ年間に一万九千噸提供の契約をむすぶに及んで、足尾の操業はまた一段階を飛躍した。この間に間藤発電所が竣工されたが、それでもなお遠からず動力の不足を来すおそれがあるほどだった。すなわち二十二年には八百余万斤、二十三年には九百七十余万斤、二十四年には一千二百七十余万斤という産銅額の数字によっても、その急速な発展ぶりを覗うことができる。

Chapter 1 of 26