Chapter 3 of 6
三
一体子供は何に対しても疑ひを起し、父母に向ひ絶えず種々の問を発して困らせるものであるが、また如何なる答をも容易に信じて直に満足するものである。例へば雷を聞けば、何故に鳴るかと疑ひを起して母に尋ねるが、鬼が雲の上で太鼓を擲いて居ると聞かされれば、それでも満足する。斯様に子供の心には疑ふ働きと信ずる働きとが有る故、導きやうに依つては、疑ふ働きを発達せしめることも出来れば、また何事をも信ずる習慣を附けることも出来る。若し初等教育に於て、単に信ずる方ばかりの習慣を附けると、疑うて掛かる働きは次第に衰へて何物でも研究せずには置かぬと云ふ精神の根柢が亡びて仕舞ふから将来の民族発展の上には之ほど不得策なことは無いと考へる。
初等教育に於ては、宜しく、信ずる働きと疑ふ働きとを何れも適当に養ふことが必要である。疑ふべき理由の有ることは何所までも疑ひ、信ずべき理由を見出したことは確に之を信じ、決して疑ふべきことを疑はずに平気で居たり、また信ずべき理由の無いことを軽々しく信じたりすることの無い様に脳力の発達を導くのが、真の教育であらう。或る筋の人々に都合のよい様な信仰を子供等に強ひるためには、疑ひの教育は無論禁物であるが、他国の子供ならば、当然疑ひを抱いて、盛に質問を発するであらうと思はれる如き無稽な事柄に対しても、毫も疑を起させぬ様な教育は、将来の進歩を阻害する頗る有害な教育と云はねばならぬ。たゞ信ぜしめることにのみ力を尽して、疑はせることを全然避ける如き傾きが有つては、決して完全なる教育とは名づけられぬ。