Chapter 1 of 7

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今日も復一はようやく変色し始めた仔魚を一匹二匹と皿に掬い上げ、熱心に拡大鏡で眺めていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。そう呟いて復一は皿と拡大鏡とを縁側に抛り出し、無表情のまま仰向けにどたりとねた。

縁から見るこの谷窪の新緑は今が盛りだった。木の葉ともいえない華やかさで、梢は新緑を基調とした紅茶系統からやや紫がかった若葉の五色の染め分けを振り捌いている。それが風に揺らぐと、反射で滑らかな崖の赤土の表面が金屏風のように閃く。五六丈も高い崖の傾斜のところどころに霧島つつじが咲いている。

崖の根を固めている一帯の竹藪の蔭から、じめじめした草叢があって、晩咲きの桜草や、早咲きの金蓮花が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に稼業の拠りどころにもなるものだった。その水を岐にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾で覆ったのもあり、露出したのもあった。逞ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣の下を大溝が流れている。これは市中の汚水を集めて濁っている。

復一が六年前地方の水産試験所を去って、この金魚屋の跡取りとして再び育ての親達に迎えられて来たときも、まだこの谷窪に晩春の花々が咲き残っていた頃だった。

復一は生れて地方の水産学校へ出る青年期までここに育ちながら、今更のように、「東京は山の手にこんな桃仙境があるのだった」と気がついた。そしてこの谷窪を占める金魚屋の主人になるのを悦んだ。だが、それから六年後の今、この柔かい景色や水音を聞いても、彼はかえって彼の頑になったこころを一層枯燥させる反対の働きを受けるようになった。彼は無表情の眼を挙げて、崖の上を見た。

芝生の端が垂れ下っている崖の上の広壮な邸園の一端にロマネスクの半円祠堂があって、一本一本の円柱は六月の陽を受けて鮮かに紫薔薇色の陰をくっきりつけ、その一本一本の間から高い蒼空を透かしていた。白雲が遥か下界のこの円柱を桁にして、ゆったり空を渡るのが見えた。

今日も半円祠堂のまんなかの腰掛には崖邸の夫人真佐子が豊かな身体つきを聳かして、日光を胸で受止めていた。膝の上には遠目にも何か編みかけらしい糸の乱れが乗っていて、それへ斜にうっとりとした女の子が凭れかかっていた。それはおよそ復一の気持とは縁のない幸福そのものの図だった。真佐子はかなりの近視で、こちらの姿は眼に入らなかろうが、こちらからはあまりに毎日見馴れて、復一にはことさら心を刺戟される図でもなかったが、嫉妬か羨望か未練か、とにかくこの図に何かの感情を寄せて、こころを掻き立たさなければ、心が動きも止りもしないような男に復一はなっていた。

「ああ今日もまたあの図を見なくってはならないのか。自分とは全く無関係に生き誇って行く女。自分には運命的に思い切れない女――。」

復一はむっくり起き上って、煙草に火をつけた。

その頃、崖邸のお嬢さんと呼ばれていた真佐子は、あまり目立たない少女だった。無口で俯向き勝で、癖にはよく片唇を噛んでいた。母親は早くからなくして父親育ての一人娘なので、はたがかえって淋しい娘に見るのかも知れない。当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺戟に対して、極めて遅い反応を示した。復一の家へ小さいバケツを提げて一人で金魚を買いに来た帰りに、犬の子にでも逐いかけられるような場合には、あわてる割にはかのゆかない体の動作をして、だが、逃げ出すとなると必要以上の安全な距離までも逃げて行って、そこで落付いてから、また今更のように恐怖の感情を眼の色に迸らした。その無技巧の丸い眼と、特殊の動作とから、復一の養い親の宗十郎は、大事なお得意の令嬢だから大きな声ではいえないがと断って、

「まるで、金魚の蘭鋳だ」

と笑った。

漠然とした階級意識から崖邸の人間に反感を持っている崖下の金魚屋の一家は、復一が小学校の行きかえりなどに近所同志の子供仲間として真佐子を目の仇に苛めるのを、あまり嗜めもしなかった。たまたま崖邸から女中が来て、苦情を申立てて行くと、その場はあやまって受容れる様子を見せ、女中が帰ると親達は他所事のように、復一に小言はおろか復一の方を振り返っても見なかった。

それをよいことにして復一の変態的な苛め方はだんだん烈しくなった。子供にしてはませた、女の貞操を非難するようないいがかりをつけて真佐子に絡まった。

「おまえは、今日体操の時間に、男の先生に脇の下から手を入れてもらってお腰巻のずったのを上へ上げてもらったろう。男の先生にさ――けがらわしい奴だ」

「おまえは、今日鼻血を出した男の子に駆けてって紙を二枚もやったろう。あやしいぞ」

そして、しまいに必ず、「おまえは、もう、だめだ。お嫁に行けない女だ」

そう云われる度に真佐子は、取り返しのつかない絶望に陥った、蒼ざめた顔をして、復一をじっと見た。深く蒼味がかった真佐子の尻下りの大きい眼に当惑以外の敵意も反抗も、少しも見えなかった。涙の出るまで真佐子は刺し込まれる言葉の棘尖の苦痛を魂に浸み込ましているという瞳の据え方だった。やがて真佐子の顔の痙攣が激しくなって月の出のように真珠色の涙が下瞼から湧いた。真佐子は袂を顔へ当てて、くるりとうしろを向く。歳にしては大柄な背中が声もなく波打った。復一は身体中に熱く籠っている少年期の性の不如意が一度に吸い散らされた感じがした。代って舌鼓うちたいほどの甘い哀愁が復一の胸を充した。復一はそれ以上の意志もないのに大人の真似をして、

「ちっと女らしくなれ。お転婆!」

と怒鳴った。

それでも、真佐子はよほど金魚が好きと見えて、復一にいじめられることはじきにけろりと忘れたように金魚買いには続けて来た。両親のいる家へ真佐子が来たときは復一は真佐子をいじめなかった。代りに素気なく横を向いて口笛を吹いている。

ある夕方。春であった。真佐子の方から手ぶらで珍らしく復一の家の外を散歩しに来ていた。復一は素早く見付けて、いつもの通り真佐子を苛めつけた。そして甘い哀愁に充たされながらいつもの通り、「ちっと女らしくなれ」を真佐子の背中に向って吐きかけた。すると、真佐子は思いがけなく、くるりと向き直って、再び復一と睨み合った。少女の泣顔の中から狡るそうな笑顔が無花果の尖のように肉色に笑み破れた。

「女らしくなれってどうすればいいのよ」

復一が、おやと思うとたんに少女の袂の中から出た拳がぱっと開いて、復一はたちまち桜の花びらの狼藉を満面に冠った。少し飛び退って、「こうすればいいの!」少女はきくきく笑いながら逃げ去った。

復一は急いで眼口を閉じたつもりだったが、牡丹桜の花びらのうすら冷い幾片かは口の中へ入ってしまった。けっけと唾を絞って吐き出したが、最後の一ひらだけは上顎の奥に貼りついて顎裏のぴよぴよする柔いところと一重になってしまって、舌尖で扱いても指先きを突き込んでも除かれなかった。復一はあわてるほど、咽喉に貼りついて死ぬのではないかと思って、わあわあ泣き出しながら家の井戸端まで駆けて帰った。そこでうがいをして、花片はやっと吐き出したが、しかし、どことも知れない手の届きかねる心の中に貼りついた苦しい花片はいつまでも取り除くことは出来なくなった。

そのあくる日から復一は真佐子に会うと一そう肩肘を張って威容を示すが、内心は卑屈な気持で充たされた。もう口は利けなかった。真佐子はずっと大人振ってわざと丁寧に会釈した。そして金魚は女中に買わせに来た。

真佐子は崖の上の邸から、復一は谷窪の金魚の家からおのおの中等教育の学校へ通うようになった。二人はめいめい異った友だちを持ち異った興味に牽かれて、めったに顔を合すこともなくなった。だが珍らしく映画館の中などで会うと、復一は内心に敵意を押え切れないほど真佐子は美しくなっていた。型の整った切れ目のしっかりした下膨れの顔に、やや尻下りの大きい目が漆黒に煙っていた。両唇の角をちょっと上へ反らせるとひとを焦らすような唇が生き生きとついていた。胸から肩へ女になりかけの豊麗な肉付きが盛り上り手足は引締ってのびのびと伸びていた。真佐子は淑女らしく胸を反らしたまま軽く目礼した。復一はたじろいで思わず真佐子の正面を避けて横を向いたが、注意は耳いっぱいに集められた。真佐子は同伴の友達に訊ねられてるようだ。真佐子はそれに対して、「うちの下の金魚屋さんとこの人。とても学校はよくできるのよ、」と云った。その、「学校はよくできる」という調子に全く平たい説明だけの意味しか響くものがないのを聞いて復一は恥辱で顔を充血さした。

世界大戦後、経済界の恐怖に捲込まれて真佐子の崖邸も、手痛い財政上の打撃を受けたという評判は崖下の復一の家まで伝わった。しかし邸を見上げると反対に洋館を増築したり、庭を造り直したりした。復一の家から買い上げて行く金魚の量も多くなった。金魚の餌を貰いに来た女中は、「職人の手間賃が廉くなったので普請は今のうちだと旦那様はおっしゃるんだそうです」といった。崖端のロマネスクの半円祠堂型の休み場もついでにそのとき建った。

「金儲けの面白さがないときには、せめて生活でも楽しまんけりゃ」

崖から下りて来て、珍らしく金魚池を見物していた小造りで痩せた色の黒い真佐子の父の鼎造はそう云った。渋い市楽の着物の着流しで袂に胃腸の持薬をしじゅう入れているといった五十男だった。真佐子の母親であった美しい恋妻を若い頃亡くしてから別にささやかな妾宅を持つだけで、自宅には妻を持たなかった。何か操持をもつという気風を自らたのしむ性分もあった。

復一の家の縁に、立てかけて乾してある金魚桶と並んで腰をかけて鼎造は復一の育ての親の宗十郎と話を始めた。

宗十郎の家業の金魚屋は古くからあるこの谷窪の旧家だった。鼎造の崖邸は真佐子の生れる前の年、崖の上の桐畑を均して建てたのだからやっと十五六年にしかならない。

新住者だがこの界隈の事や金魚のことまで驚くほど鼎造はよく知っていた。鼎造の祖父に当る人がやはり東京の山の手の窪地に住み金魚をひどく嗜好したので、鼎造の幼時の家の金魚飼育の記憶が、この谷窪の金魚商の崖上に家を構えた因縁から自然とよみがえった。殊に美しい恋妻を亡くした後の鼎造には何か瓢々とした気持ちが生れ、この生物にして無生物のような美しい生きもの金魚によけい興味を持ち出した。

「江戸時代には、金魚飼育というものは貧乏旗本の体のいい副業だったんだな。山の手では、この麻布の高台と赤坂高台の境にぽつりぽつりある窪地で、水の湧くようなところには大体飼っていたものです。お宅もその一つでしょう」

あるとき鼎造にこういわれると、専門家の宗十郎の方が覚束なく相槌を打ったのだった。

「多分、そうなのでしょう。何しろ三四代も続いているという家ですから」

宗十郎が煤けた天井裏を見上げながら覚束ない挨拶をするのに無理もないところもあった。復一の育ての親とはいいながら、宗十郎夫婦はこの家の夫婦養子で、乳呑児のまま復一を生み遺して病死した当家の両親に代って復一を育てながら家業を継ぐよう親類一同から指名された家来筋の若者男女だったのだから。宗十郎夫婦はその前は荻江節の流行らない師匠だった。何しろ始めは生きものをいじるということが妙に怖しくって、と宗十郎は正直に白状した。

「復一こそ、この金魚屋の当主なのです。だから金魚屋をやるのが順当なのでしょうが、どういうことになりますか、今の若ものにはまた考えがありましょうから」

宗十郎は淡々として、座敷の隅で試験勉強している復一の方を見てそういった。

「いや、金魚はよろしい。ぜひやらせなさい。並の金魚はたいしたこともありますまいが、改良してどしどし新種を作れば、いくらでも価格は飛躍します。それに近頃では外国人がだいぶ需要して来ました。わが国では金魚飼育はもう立派な産業ですよ」

実業家という奴は抜け目なくいろいろなことを知ってるものだと、復一は驚ろいて振り返った。鼎造は次いでいった。「それにしても、これからは万事科学を応用しなければ損です。失礼ですが復一さんを高等の学校へ入れるに、もしご不自由でもあったら、学費は私が多少補助してあげましょうか」

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