Chapter 1 of 59

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遁れて都を出ました。鉄道線路のガードの下を潜り橋を渡りました。わたくしは尚それまで、振り払うようにして来たわたくしの袂の端を掴む二本の重い男の腕を感じておりましたが、ガードを抜けて急に泥のにおいのする水っぽい闇に向き合うころからその袂はだん/\軽くなりました。代りに自分で自分の体重を支えなくてはならない妙な気怠るさを感じ出しました。これが物事に醒めるとか冷静になったとかいうことでしょうか。

道は闇の中に一筋西に通っております。両側は田圃らしく泥の臭いに混った青くさい匂いがします。蛙が頻りに鳴いております。フェルト草履の裏の土にあたる音を自分で聞きながらわたくしは足に任せて歩いて行きました。わたくしの眼にだん/\闇が慣れて来ますと道の両側に几帳面な間隔で電柱の並び立っているのや、青田のところ/″\に蓮池のあるのや、おぼろに判って来ました。もう一層慣れてきますと青田の苗の株と株との間に微に水光りのしていることや、そういえばわたくしの行く手の街道の路面も電信柱もわたくしの背後の空から遠い都の灯の光の反射があるので僅に認められるのです。おゝ、都の灯――

わたくしは顧るのを何度、我慢したか知れません。それを、なお背後に近い電車の交叉点でポールを外ずしでもするのでしょうか、まるでわたくしを誘惑するようにちら/\とあのマグネシューム性の光りが闇の前景に反射します。では口惜しい東京ながら一度だけゆっくり見納めて置こう――わたくしは哀しい太々しい気持を取出して道端の草の上に草履を並べ、その上へハンカチを敷き、白足袋の足を路面に投げ出しました。膝がしらに肘を突き、頬杖の掌の間に挟んで東北の方、東京の夜空に振り向かしたわたくしの顔には、左様――たぶん娘時代のモナ・リザの表情でも浮んでいたことでしょう。

三月越しの母の看病で、月も五月の末やら六月の始めに入ったのやらまるで夢中で過しました。けれども兎に角、夏の始めの闇の夜空です。墨の中に艶やかな紺が溶かし込まれています。その表に雨気のあるきららが浮いています。星は河豚の皮の斑紋のように大きくうるんで、その一々の周囲の空を毒っぽく黄ばんでみせています。

下の方は横一文字の鉄道線路の土手で遮られているから見えません。それを熔鉱炉の手前の縁にして、その向うに炉中の火気と見えるほど都の空は燃えています。心臓がむず痒くなるような白熱の明るさです。あゝ、また其処を見る眼が身に伝えて来て袂の端に重たく感じる。訣れて来た男の二本の腕の重み。それを振り切ったときの微かな眩暈い。いやになる、またしても。――そして扇形に空に拡がる火気の中にちろ/\と煌めくネオン。捲けども/\尾が頭に届かない蛔虫のような広告塔の灯。そうだ都はまだ宵なのだ。前景の闇に向っては深夜のつもりでいたわたくしの気持がまた、ぱっと華やいで来たとは何という頼もしくない自分の気持でしょう。

訣れに池上は昼、霞ヶ関の茶寮で会席料理を御馳走して呉れました。葛岡は晩、下谷の腰掛け店で厚揚げのカツレツを御馳走して呉れました。いずれも身分相応です。そして母は一昨日の朝、嫌な人生のお芝居を遺身に残して呉れました。実は母は一昨日死んだのですけれども、どうしても死んだとは思えません。この世界の何処かにいて、またぺろりと舌を出しているような気がしてなりません。「わが母」はそういう性分の女でした。

わたくしが物ごゝろついた六七歳時分の、家の事を考えてみますと、小ぢんまりしたしもた屋で細い川の河岸に在りました。家の中は綺麗に片付いて長火鉢なぞぴか/\拭き込んでありました。しまという女中とコロという赤砂糖色の猫が一匹いました。

母は眼は少し窪んでいましたが瓜実顔に肉附きのよい美人で、その当時はやりの花月巻というのを結って黒襟の小紋縮緬の袷でも着たら品もあり仇っぽくもあり、誰でもみな顧りました。父というのがとき/″\来て泊って行きました。わたくしはどちらかというと母をあまり好きませんでした。剥いでも剥いでも本心の判らない、それでいてその場限りで利の行く方に就くという軽薄な愚かさがありました。それに引かえ父というのは、何か思い入ると大きい黒い瞳がじっと凝って来て、間違ったことは許さぬという代りに相手を庇えばどこまでも庇い切る一徹さを備えた人でした。髪の毛も髭も濃く縮れて高い額は蒼白うございました。とき/″\母は打たれて泣真似をしました。

「先生は、肺病で気狂筋と来てるんだから始末が悪いよ」

母はこう言って、しまと眼顔で冷笑し合いました。しまの言うところに依ると父は大変な学者で大学の先生もしている。母は下谷の雛妓だった時分に父に見染められて、それからずっと囲われている。父は母の美人を愛してはいるが、母の諂曲の性質が嫌いでそれで打つ。しかし打てども打てども諂曲が母の本性である以上、打ち直される時期があるだろうか。

わたくしが十三になった頃、父はぱったり来なくなりました。父は肺病で死にました。

そのずっとまえ、わたくしのごく幼い頃から母はわたくしに気に入らないことがあると妙なことを申すのです。

「へん、お菰の子の癖に」

するとしまは、むっとした様子を見せ、

「お新造さん、いくら何でも、それだけはおよしなさいませ」

母は「なに関うものか」と言いますが、多少の後悔の色は見せます。しかしこれをはしたないとでも申すのでしょうか、そういう口の下からまた罵ります。「お菰の子はやっぱりお菰だ」

そのわけはしまの口からだん/\判って来ました。この中老の女とて終始、子供のためを想うとか幼なごゝろを飽くまで労るとかそういう筋目の徹った性質ではございません。母がぱっぱという出任せのわが子に対しても見境いない憎悪の言葉を耳に咎めて、反射的にたしなめるそのことが一時の忠義立てや侠気の做す業にしても、も一つその底の慾には朝夕虐げられつけている母に向って一ときでも立優った気持になり姐御になり度いのでございましょう。で、ございますから、しまはこれをいうとき右手で袖口をちょっと掻い繕ろい、取仕切った薄笑いを片唇に泛べながら気取った首の振り方をいたします。

「お蝶さまはご自分のお腹をお痛めなすったお子さまじゃございませんか。何が憎くてそうも酷いことが仰しゃられるんでございましょう」

このしまという女は小さいときから父の本宅、豊島家に雇われていて、父がわたくしの母を囲ったのを夫人が知った時分に「若い女あるじに不慣れな女中では不取締でしょう。しまをやりましょう」と言って夫人の手元からわたくしの母の家へ譲られた女なのですが、始めは夫人からの目付役の意味もあったのでしょうけれども、永い月日のうちにはその役目気も鈍ってしまって、わたくしの母の方へついてしまったり、また夫人側に立戻ったり、わたくしの家へ来てからも豊島家へは自由に出入りしていました。そんなわけで豊島家のことはわたくしたちに何もかも手に取るように知れるのでした。

おなじ取仕切った微笑の唇から彼女は楽しそうに、またわたくしの父の身の上の秘密をまるで物語のようにして話すのでした。

憲法発布の明治の頃、日暮里の貧民窟の東西長屋に住んでいて、日々、市中の山の手を貰って歩く子連れの乞食がありました。扇を半扇にひらいて発明節というのを唄って門に立ちました。

もとは伊勢藩の儒者の子とだけ判っていて、発明に凝ったため頭がおかしくなっていると当時噂されていました。むっつりして眼鼻立ちが立派についている。そのあまりに完全な立派さが却って悲運を想わせるような顔立ちでした。子供は癇持ちらしい鋭く羸弱な子でした。

当時赤坂の竜土町に甲州出で天下の豊島と呼ばれている事業家がいました。もっともその頃は天下の糸平をはじめ少し剛腹で山気のある人間には天下という名をつけて呼び慣わす癖がありましたから、この豊島もそれほどの商人ではなかったかも知れませんが、三方窓の張出し玄関の広間の中央に大火鉢を据えつけ、その前に胡床を掻き、赤銅の煙管を火鉢の縁にうち付けながら早朝から誰でも引見して談論風発するという豪傑肌でした。

発明節の親子乞食は一週間に一度ぐらいずつこの方面へ立廻って来て、豊島の応接間の窓に立ちます。すると豊島は煙草入れの中に入っている小銭を与えながら、乞食の仲間の貰いの様子、家々の屑の捨て方の塩梅、盛り場の食物店の仕込みの多寡――そんなことを小さい声で訊ねます。発明節の乞食は鬚だらけの顔をさも億劫そうに動かしながら、ごく簡単に返事を致します。しかし、これだけぐらいのことでもこの商人に取っては世間の景気の機微は掴めるのでもございましょう。豊島は人に向うと「乞食を三年、幇間を三年、モグリ弁護士を三年やって来てからでなくちゃ、本当の仕事師には成れねえ」こんなことをしょっちゅう言い放っていたような処世哲学を持っていた男だそうでございますから。

ある朝、親子乞食が来たので豊島は窓へ来ますと、子供が紙片れを差出しました。それは同じ長屋に住む浮浪人たちの毎度の食べものを表に作って記したものでありました。

ヅケとか川越チャブとか鮒チャブとか、それは子供が僅に同宿者に教えて貰った片仮名と数字だけで印づけられたものであって、かなり口の説明を添えねばならぬものがありましたけれども、豊島が、親に向って一番煩く聴き度がる貧窮者の景気の状態を食事の種類で見て取ろうとするその要領を幼く整理図計して呉れたものでありました。豊島は喜んで訊きました。

「これ、おまえ一人で考えて書いたのか」

「あゝ、そうだよ、おじさん」

豊島は、うーむと唸りました。

「この小僧、見どころがあるぞ。おやじ、この小僧を俺の家へ置いて行け」

発明乞食の父親は眼を放心したように瞠っていましたが、やがて雑嚢の中から子供の巾着を取り出し窓框の上へ置き、億劫そうに一つお辞儀をすると立去りました。この親乞食の行衛はその後まったく知れません。巾着の中には戸籍抄本と子供の臍の緒が入っていました。

子供の蝶造は利発に育ちました。豊島家の玄関番から給費生、大学の秀才、天下の豊島の眼がねに叶って娘の婿、大学教授、まずとん/\拍子でございましたでしょうか。豊島が乞食の子でも婿にするところに彼の肚の大きさがあり、褒めるもの、くさす者、相半ばしましたがその範囲も広くなく、やがて少数の人の外、蝶造の身分に就ての記憶も残りませんでした。

豊島家には元来、姉と弟とありまして、弟が相続人です。で娘は婿につけて目黒の別邸の方へ家を持たせられました。この姉娘の婿――すなわち蝶造がわたくしの父だったのでございました。

父はこの結婚に満足したのでしょうか。しまに言わせると満足していたと言います。なにしろ淑かで底がしっかりもので恵み深い夫人だったそうですから。ではなぜ父がわたくしの母のようなものを別に持ったのでしょうか。しまに言わせると父は大学時代から大酒飲みで遊びが好きだった、その上、面食いだから遂に美人の母に引っかゝってしまったのだと申します。

もちろん、それもございましょう。しかし、それだけではあゝまで永く母のような女を持ち切れるものではございません。わたくしに言わせますれば――これはわたくしがずっと育った後の観察ですけれども――父は母に妙なものをあさっていたのではないかと思います。母は浅墓ですけれども、その浅墓さが幾枚も重なり合っていて、剥く骨折さえ厭わなかったら、その芯に何かありそうにさえ見える女でございました。父はそれに引っかゝった。頭が鋭くて穿鑿症にまで意固地が募って、知性の過剰に苦しむ性質の男は、えて、このらっきょのような女に引っかゝるようです。殊にその上皮が美人であったなら尚更のことでしょう。賢夫人といわれている豊島の娘のような女の底は父のような男にはすぐ見破れます。却って浅墓なものに謎をつけて自分から引っかゝったのでしょう。父の悲劇の渦紋はまだこの先わたくしの身の上にかゝって波打ちますけれどもあまり筋がもつれて判らなくなるといけません。ほんの序の口にこれだけ申上げて置きましょう。それから父は自分の幼ない時の身分に就てはどう考えていたかと申しますと、却って大ぴらに公表して得意になっていたとさえ申します。「俺の身元は巷のベッガーでね、」すると賢夫人も気さくに笑って「えゝ/\また落魄れたらいつでも二人でお菰を着て門に立ちますよ」。何の拘泥りもない夫妻の掛合い話は、その夫の立志美談を語るように聞こえて傍にいる者達の間の好評をさえ受けるのに充分でございました。

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