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「お旦那の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」
店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人宛でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。その多人数の何処か一角から起つたひとつの話題が、全体へ行き渡るまでには余程の時間がかゝる。そしてその話題によほどの確実性と普遍性がなければ、多くはある一角、または半数、三分の一くらゐなところで、いつも立ち消えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎に角今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。
山城屋宗右衛門のその一瞥で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。
宗右衛門に二人の娘があつた。上のお小夜は楓のやうな淋しさのなかに、どこか艶めかしさを秘めてゐた。妹のお里はどこまでも派手であでやかであつた。宗右衛門の幸福は、巨万の富を一代にかち得たばかりで満足出来なくて、あの春秋を一時にあつめた美貌を二人まで持つたと人々は羨んだ。その二人の娘が――お小夜は十九、お里は十七になつたばかりの今年の春、激しい急性のリヨーマチで、二人が二人とも前後して、俄跛になつてしまつた。人々の驚き、まして宗右衛門夫婦にとつては、驚き以上の驚きであり、悲しみ以上の悲しみであつた。妻のお辻はそれがため持病の心臓病を俄かに重らして死んで行つた。お辻は宗右衛門に添つて三十年、宗右衛門の頑強と鋭才との下をくゞつて、よく忍従に生きて来た。お辻は一日に三度か、四度侍女や乳母にかしづかれる愛娘達の部屋を覗くばかりが楽しみで、だまつて奉公人と共に働いて、別に人から好いとも悪いとも、批判されるほど目立ちもしない性分であつた。が、支へを失つた巨木のやうに、宗右衛門はがつかりとお辻の死顔の前へ座り込んでしまつたのである。俄跛の姉妹のことを呉れ/″\も夫にたのんで逝つたお辻の死顔の蒼ざめた萎びた頬――お辻は五十で死んだのである。
五月下旬の或る曇日の午後、山城屋の旦那寺の泰松寺でお辻の葬儀が営まれた。宗右衛門は一番々頭の清之助や親類の男達に衛られながら葬列の中ほどを練つて歩いた。
今、お辻の寝棺が悠々と泰松寺の山門――山城屋宗右衛門の老来の虚栄心が、ひそかに一郷の聳目を期待して彼の富の過剰を形の上に持ち来らしめた――をくぐつて行つた。宗右衛門には久しぶりに来て見たこの仰々しい山門が、背景をなす寺の前庭の寂びを含んだ老松の枝の古色に何となくそぐはなく見えるのであつた。いつものやうな彼のこの山門に対する誇りと満足とは、決して彼には感じられなかつた。彼はむしろ、そのけばけばしい磨き瓦の艶が、低く垂れた曇天の雲の色に、にぶく抑圧されてゐるのに安心した。彼は腫れぼつたい眼を山門から逸らして、ほつと溜息をついた。彼は門脇の寄進札の劈頭に、あだかもこの寺門の保護者のやうに掲げ出されてある自分の名を、出来るだけ見まいとした。無頓着な老師に先んじて、平常斯うした俗事にまめな世話役某の顔を莫迦/\しく思ひ浮べた。
泰松寺は寺格の高い割りに貧乏であつた。新らしい堂々たる山門に較べて、本堂はほんの後れ毛のやうに古くてみすぼらしい。お辻の棺がその赤ちやけた本堂の畳敷の真中に置かれて、ます/\豊かに立派に見えた。宗右衛門は正座に据つて自分のこの土地に於ける勢力を象徴するものゝやうに、本堂もひしめくばかり集つた大勢の会葬者の群を見廻した。そしてあらためてまたお辻の棺に眼をやつた。その中に横はる蒼く萎びたお辻の死体……彼は、小さくても肉付きのよい顔かたちの人並すぐれてよく整つてゐた若い頃のお辻が、いつの間にか年をとつて、こんなに蒼く萎びたかと、納棺前のお辻の死体の傍で感じたことを思ひ出した。彼はそのとき、ろく/\妻の姿かたちさへ心にとめないで何十年間稼いで稼ぎ抜いた自分が、何となくあさましく思はれたのであつた。
二人の娘を飾るための衣装の費用よりほか――それだけはむしろ宗右衛門自身が進んで出したがる費用でもあつた――何一つ出費の厳しい夫にねだつたこともないお辻の為めに、最後のお辻の衣装である棺を立派にしてやらうと、宗右衛門は思ひ付いたのであつた。角厚な檜材の寝棺をお辻の死体が二つほども這入れるくらゐ広く造つた。家の奥座敷でお辻の死体をそれに入れる時「出し惜しみが急に気張つたのでお辻さんは風邪をひくわい」と兼々気まづかつた親類の一人が、わざと聞えよがしの陰口をきいた。いつもの宗右衛門が、かつと怒るかはりに、成程と思考して死体のまはりの空所に色々なものを詰めてやつた。いつの間にかお辻が丹念に蓄へて置いた珊瑚の根掛けや珠珍の煙草入れ、大切に掛け惜んでゐた縞縮緬の丹前、娘達の別れがたみの人形、宗右衛門自身が江戸の或る大名家老から頂戴した羽二重の褥が紅白二枚、死出の旅路をひとりで辿るお辻の小さな足にも殊更に絹足袋を作つて穿かせ、穿きかへまでも一足添へた。宗右衛門は俄か覚えの念仏をぶつぶつ口のなかで唱へながら、何もかにも手伝つてやつた。するとまた「お旦那も我が折れた。お嬢さん達があんなになりなさつて気が弱つたからだ。」と、どこかで奉公人達が、ひそひそ言ふけはひもしたが(俺はもう誰にも何にも言はぬぞ)観念すれば何事にも意志の強い自分であることを宗右衛門は知つてゐた。そして、それがまた何となく淋しいやうにも感じられて、棺を見つめてゐた眼をしばたゝいた。そのまゝ何もかも黙つてお辻の棺について寺へ来たのである。
宗右衛門は軽い眩暈を感じて眼を閉ぢた。何か哀願するやうなお辻の声が何処かでした。それから、また、閉ぢた瞼の裏にまざ/\と二人の娘の跛姿が描かれるのであつた。宗右衛門は首をひとつ強く振つて、それをかき消さうとするのであつたが、却つて場面を廻転したいまはしいシーンが、はつきりとあとへ描き出されるのであつた。やはりお辻の棺がまだ寺へ来ぬまへのことであつた。いよ/\家の奥座敷から、それを出さうとする時であつた。幾度も人の尠ない時を見計らつてはお辻の死床に名残をおしみに来た二人の娘が、最後に揃つて庭を隔てた離れ家から出て来た。その時は如何に憚らうにも人は棺の前後にあふれ、座敷の上下に渦をなしてゐた。低声ではあつたが、今まで何となくざわざわしてゐた人々の声が、俄かに静まつた。宗右衛門もふと奥庭の奥深くへ眼をやつた。白無垢のお小夜とお里が、今、花のまばらな梔の陰から出てつはぶきに取り囲まれた筑波井の側に立ち現はれたところである。若い屈強な下婢が二人左右に――姉も妹も痩せ形ながら人並より高い背丈を、二人の下婢の肩にかけた両手の力で危ふく支へて僅かに自由の残る片足を覚束なげに運ばせて来る。黒紋付を着た宜い老婢が一人、小婢を一人随へて、あとから静かに付き添つて来る、……やがて薄い涙で曇つた宗右衛門の眼に、拡大されて映つた二人の娘の姿が、静まり返つた人々の間を通つて、お辻の寝棺の傍に近づいた。宗右衛門はあわてゝ立ち上つた。そして棺に高い台をかふやうに急いで命じた。人々も娘達も呆気にとられた。宗右衛門は娘を其処へ座らせまいとしたのであつた。座ればその下半身は、曲らぬ片足を投げ出したまゝの浅ましい異様なもののうづくまりになるからである。棺は丁度、娘達の胸まで達した。あらためて娘達は棺に近づいた。姉も妹も並んで一所に額付いた……二人の白羽二重の振袖が、二人がなよやかな首を延べて身をかゞめようとするその拍子に、丸い婢の肩を滑つて、あだかも鶴の翼のやうに左右へ長く開いたのである……人々はこの清艶な有様に唾を呑んだ。娘達はそのまゝ黙つてしばらく泣いた。顔を上げた時、二人の頬から玉のやうな涙が溢れ落ちた。御殿女中上りの老婢に粧装られる二人の厚化粧に似合つて高々と結ひ上げた黒髪の光や、秀でた眉の艶が今日は一点の紅をも施さない面立ちを一層品良く引きしめてゐる。とりわけ近頃憂ひが添つて却つてあでやかな妹娘の富士額ひが宗右衛門には心憎いほど悲しく眺められたのであつた。
「ごーん」と低い丸味を帯びた鐘の音が、本堂の隅々まで響いた。夢のさめたやうな宗右衛門の追想が打ち切られた。彼はあわてゝ眼を開いた。読経が始まらうとするのである。泰松寺の老師が、五六人の伴僧を随へて、しづ/\棺前に進み寄つた。宗右衛門は幾度も眼をしばだたいて老師のにび色の法衣をうしろから眺めた。老師の後頭部の薄い禿へ仏前の蝋燭の灯がちらちらとうつつた。宗右衛門はいつもならばひそかに得意の微笑を洩らすのである。老師は宗右衛門より三つ四つ年も若い。宗右衛門にはまだ白髪交りでも禿はない。かなり名の知れた名僧でありながらいつも貧乏たらしいにび色の粗服で、何処かよぼよぼして見えるのが、無信心の宗右衛門にむしろ平常は滑稽にも思はれた。だが、今日の宗右衛門には老師のにび色姿が何となく尊く見える。
「不思議だな、俺も変つたわい」
宗右衛門は腹の中で独り言つた。
夏になつて二人の娘達はいよ/\美しかつた。片輪の身のあはれさが添つて、以前の美しさに一層清艶な陰影が添つた。が、今年もお揃ひの派手な縮み浴衣を着は着ても、最早やその裾から玉のやうな踵をこぼして蛍狩や庭の涼みには歩かなかつた。異様な醜いうづくまりをその下半身にかたちづくつて、二人は離れ家の居室にひつそりとしてゐた。退屈な悩ましい――しかしそれを口にはあまり出し合ひもせず、二人は美しい額の汗ばかり拭いてゐた。
「御覧あそばせな、今朝は紅が九つ、紫が六つ、絞りが四つと白が七つ、それから瑠璃色が……」
老女が小女によく磨いた真鍮の耳盥を竹椽へ運ばせた。うてなからちぎり取られた紅、紫、瑠璃色、白、絞り咲きなどの朝顔の花が、幾十となく柄を抜いた小傘のやうに、たつぷり張つた耳盥の水面に浮んでゐる。この毎朝のたのしみを老女は若い頃の大名屋敷勤めの間に覚えた。
「あ、お旦那が」
小女が老婢の後で言つた。皆、水面に集まつてゐた眼をあげた。古いきびらを着た宗右衛門が母屋へ通ふ庭の小径をゆつくりと歩いて来る。
「お珍らしい」
老女は顔を皺めて微笑した。
「まあ、お父様」
おとなしいお小夜は、たゞうれしくなつかしかつた。俄かに居ずまひを直しにかゝつた。が、敏感なお里は何事か胸にこたへた。お里は、ぢつとしたまゝ黙つてゐた。前庭の一番大きな飛石の上に、宗右衛門は立つて淋しく微笑した。
「まあ、お珍らしい」
老女はひたすら宗右衛門を座敷の方へ招じ入れようとした。
今朝もまた、彼が見る毎に二人の娘の美しさは増して行つた。醜い下半部の反比例をますます上半身に現はすのではないか。皮肉の美しさを、ます/\宗右衛門は見せつけられる。美しい娘達の上半身を見る宗右衛門の苦痛は、醜い下半部を見る苦痛と変らなかつた。
宗右衛門はこの苦痛の為めに、追々娘達の部屋を訪れなくなつたのであつた。母の無いのちの一層たよりない娘達を却つて訪ねて来なくなつたのであつた。
「おとふ様、どう遊ばしました」
お小夜が懐かしげに父親を仰いだ。
「どうも商売の方が忙しくてな。それにお母さんが亡くなつて、家の方もなにやかや……」
ぢつと眼を伏せてゐるお里を見て、宗右衛門はだまつてしまつた。
「おう、朝顔が綺麗だな」
その耳盥から少し視線を上げれば、そこにはお小夜の異様な脚部――宗右衛門はぞつとして、逆に老女の顔を見上げた。
「どうだな、二人とも毎日元気かな」
宗右衛門は四日前の夕方、こゝを訪ねたきりであつた。娘達が忙しいお辻の手から育ての侍女の手に移つてこゝの離れ家に棲み始めて十何年間、朝夕二回の屋敷へ往くさ帰るさ、必ず宗右衛門はこの部屋へ立ち寄つた。時には夜ふけて寝酒の微酔でやつて来る時さへあつたのに、江戸への出入も店の商売もとかく怠り勝ちになつたといふ此頃の忙しさとは何であるか、老女には判り兼ねた。