Chapter 1 of 33

「ほう、よい月じゃ。まるで白銀の鏡を磨ぎすましたような」

あらん限りの感嘆のことばを、昔から言いふるしたこの一句に言い尽くしたというように、男は晴れやかな眉をあげて、あしたは十三夜という九月なかばのあざやかな月を仰いだ。男は今夜の齢よりも三つばかりも余計に指を折ったらしい年頃で、まだ一人前の男のかずには入らない少年であった。彼はむろん烏帽子をかぶっていなかった。黒い髪をむすんでうしろに垂れて、浅黄無地に大小の巴を染め出した麻の筒袖に、土器色の短い切袴をはいていた。夜目にはその着ている物の色目もはっきりとは知れなかったが、筒袖も袴も洗いざらしのように色がさめて、袴の裾は皺だらけに巻くれあがっていた。

そのわびしい服装に引きかえて、この少年は今夜の月に照らされても恥ずかしくないほどの立派な男らしい顔をもっていた。彼に玉子色の小袖を着せて、うす紅梅の児水干をきせて、漢竹の楊条を腰にささせたらば、あわれ何若丸とか名乗る山門の児として悪僧ばらが渇仰随喜の的にもなりそうな美しく勇ましい児ぶりであった。しかし今の彼のさびしい腰のまわりには楊条もなかった。小さ刀も見えなかった。彼は素足に薄いきたない藁草履をはいていた。

「ほんによい月じゃ」

彼に口をあわせるように答えたのは、彼と同年か一つぐらいも年下かと思われる少女で、この物語の進行をいそぐ必要上、今くわしくその顔かたちなどを説明している余裕がない。ここでは唯、彼女が道連れの少年よりも更に美しく輝いた気高い顔をもっていて、陸奥の信夫摺りのような模様を白く染め出した薄萌黄地の小振袖を着て、やはり素足に藁草履をはいていたというだけを、記すにとどめて置きたい。

少年と少女とは、清水の坂に立って、今夜の月を仰いでいるのであった。京の夜露はもうしっとりと降りてきて、肌の薄い二人は寒そうに小さい肩を擦り合ってあるき出した。今から七百六十年も前の都は、たとい王城の地といっても、今の人たちの想像以上に寂しいものであったらしい。ことにこの戊辰の久安四年には、禁裏に火の災いがあった。談山の鎌足公の木像が自然に裂けて毀れた。夏の間にはおそろしい疫病がはやった。冬に近づくに連れて盗賊が多くなった。さしもに栄えた平安朝時代も、今では末の末の代になって、なんとはなしに世の乱れという怖れが諸人の胸に芽を吹いてきた。前に挙げたもろもろの災いは、何かのおそろしい前兆であるらしく都の人びとをおびやかした。

そのなかでも盗賊の多いというのが覿面におそろしいので、この頃は都大路にも宵から往来が絶えてしまった。まして片隅に寄ったこの清水堂のあたりは、昼間はともあれ、秋の薄い日があわただしく暮れて、京の町々の灯がまばらに薄黄色く見おろされる頃になると、笠の影も草履の音も吹き消されたように消えてしまって、よくよくの信心者でも、ここまで夜詣りの足を遠く運んで来る者はなかった。

その寂しい夜の坂路を、二人はたよりなげにたどって来るのであった。月のひかりは高い梢にささえられて、二人の小さい姿はときどきに薄暗い蔭に隠された。両側の高藪は人をおどすように不意にざわざわと鳴って、どこかで狐の呼ぶ声もきこえた。

「のう、藻」

「おお、千枝まよ」

男と女とはたがいにその名を呼びかわした。藻は少女の名で、千枝松は少年の名であった。用があって呼んだのではない、あまりの寂しさに堪えかねて、ただ訳もなしに人を呼んだのである。二人はまた黙ってあるいた。

「観音さまの御利益があろうかのう」と、藻はおぼつかなげに溜息をついた。

「無うでか、御利益がのうでか」と、千枝松はすぐに答えた。「み仏を疑うてはならぬと、叔母御が明け暮れに言うておらるる。わしも観音さまを信仰すればこそ、こうしてお前と毎夜連れ立って来るのじゃ」

「それでも父さまはこの春、この清水詣でに来たときに、三年坂で苔にすべって転んだのがもとで、それからどっと床に就くようにならしゃれた。三年坂でころんだものは、三年生きぬと聞いている」と、藻の声はうるんでいた。

邪魔な梢の多いところを出離れたので、月はまた明かるい光りを二人の上に投げた。玉のような藻の頬には糸を引いた涙が白くひかっていた。千枝松は又すぐに打ち消した。

「三年坂というのは嘘じゃ。ありゃ産寧坂というのじゃ。ころんだとて、つまずいたとて、はは、何があろうかい」

むぞうさに言い破られて、藻はまた口を結んでしまった。二人は山科の方をさして夜の野路を急いで行った。いったんは男らしく強そうに言ったものの、少年の胸の奥にも三年坂の不安が微かに宿っていた。

「お前の父御の病気も長いことじゃ。きょうでもう幾日になるかのう」と、彼は歩きながら訊いた。

「もうやがて半年じゃ。どうなることやら、心細いでのう」

「医師はなんと言わしゃれた」

「貧に暮らす者の悲しさは、医師もこの頃は碌ろくに見舞うて下さらぬ」と、藻は袖を眼にあてた。「まだそればかりでない。父さまが長のわずらいで、家じゅうのあるほどの物はもうみんな売り尽くしてしもうた。秋はもう末になる。北山しぐれがやがて降り出すようになったら、わたしら親子は凍えて死ぬか。飢えて死ぬか。それを思うと、ほんに悲しい。きのうも隣りの陶器師の婆どのが見えられて、いっそ江口とやらの遊女に身を沈めてはどうじゃ。煩うている父御ひとりを心安う過ごさせることも出来ようぞと、親切にいうて下されたが……」

「陶器師の婆めがそのようなことを教えたか」と、千枝松は驚きと憤りとに、声をふるわせた。「して、お前はなんと言うた」

「なんとも言いはせぬ。ただ黙って聴いていたばかりじゃ」

「重ねてそのようなことを言うたら、すぐわしに知らしてくれ、あの婆めが店さきへ石塊なと打ち込んで、新しい壺の三つ四つも微塵に打ち砕いてくるるわ」

罵る権幕があまりに激しいので、藻はなにやら心もとなくなった。彼女はなだめるように男に言った。

「わたしらの難儀を見かねて、あの婆どのは親切に言うてくれたのじゃ」

「なにが親切か」と、千枝松は冷笑った。「あの疫病婆め。ひとの難儀に付け込んでいろいろの悪巧みをしおるのじゃ。世間でいうに嘘はない。ほんに疫病よりも怖ろしい婆じゃ。あんな奴の言うこと、善いにつけ、悪いにつけ、なんでも一切取り合うてはならぬぞ」

兄が妹をさとすようにませた口吻で言い聞かせると、藻はおとなしく聴いていた。千枝松はまだ胸が晴れないらしく、自分が知っている限りの軽蔑や呪詛のことばを並べ立てて、自分たちの家へ帰り着くまで、憎い、憎い、陶器師の疫病婆を罵りつづけていた。

秋の宵はまだ戌の刻(午後八時)をすぎて間もないのに、山科の村は明かるい月の下に眠っていた。どこの家からも灯のかげは洩れていなかった。大きい柿の木の下に藻は立ちどまった。

「あすの晩も誘いに来るぞよ」と、千枝松はやさしく言った。

「きっと誘いに来てくだされ」

「おお、受け合うた」

ふた足ばかり行きかけて、千枝松はまた立ち戻って来た。

「途みちも言うた通りじゃ。疫病婆めが何を言おうとも、必ず取り合うてはならぬぞよ。よいか、よいか」

小声に力をこめて彼は幾たびも念を押すと、藻は無言でうなずいて、柿の木の下から狭い庭口へ消えるように姿をかくした。彼女が我が家へはいるのを見とどけて、千枝松はぬき足をして隣りの陶器師の門に立った。年寄り夫婦は早く寝付いてしまったらしく、内には物の音もきこえなかった。彼は作り声をして呶鳴った。

「愛宕の天狗の使いじゃ。戸をあけい」

表の戸を破れるばかりに二、三度たたいて、千枝松は一目散に逃げ出した。

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