Chapter 1 of 9

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箕輪心中

岡本綺堂

お米と十吉とは南向きの縁に仲よく肩をならべて、なんにも言わずに碧い空をうっとりと見あげていた。

天明五年正月の門松ももう取られて、武家では具足びらき、町家では蔵びらきという十一日もきのうと過ぎた。おととしの浅間山の噴火以来、世の中が何となくさわがしくなって、江戸でも強いあらしが続く。諸国ではおそろしい飢饉の噂がある。この二、三年はまことに忌な年だったと言い暮らしているうち、暦はことしと改まって、元日から空っ風の吹く寒い日がつづいた。五日の夕方には少しばかりの雪が降った。

それから天気はすっかり持ち直して、世間は俄かに明るくなったように春めいて来た。十吉の庭も急に霜どけがして、竹垣の隅には白い梅がこぼれそうに咲き出した。

この話の舞台になっている天明のころの箕輪は、龍泉寺村の北につづいた寂しい村であった。そのむかしは御用木として日本堤に多く栽えられて、山谷がよいの若い男を忌がらせたという漆の木の香いがここにも微かに残って、そこらには漆のまばらな森があった。畑のほかには蓮池が多かった。

十吉の小さい家も北から西へかけて大きい蓮池に取り巻かれていた。

「いいお天気ね」と、お米はうららかな日に向かってまぶしそうな眼をしばだたきながら、思い出したように話しかけた。

「たいへん暖かくなったね。もうこんなに梅が咲いたんだもの、じきに初午が来る」

「よし原の初午は賑やかだってね」

「むむ、そんな話だ」

箕輪から京間で四百間の土手を南へのぼれば、江戸じゅうの人を吸い込む吉原の大門が口をあいている。東南の浮気な風が吹く夜には、廓の唄や鼓のしらべが手に取るようにここまで歓楽のひびきを送って、冬枯れのままに沈んでいるこの村の空気を浮き立たせることもあるが、ことし十八とはいうものの、小柄で内端で、肩揚げを取って去年元服したのが何だか不似合いのようにも見えるほどな、まだ子供らしい初心の十吉にとっては、それがなんの問題にもならなかった。

たとい昼間は鋤や鍬をかついでいても、夜は若い男の燃える血をおさえ切れないで、手拭を肩にそそり節の一つもうなって、眼のまえの廓をひと廻りして来なければどうしても寝つかれないという村の若い衆の群れから、十吉は遠く懸け離れて生きていた。ありゃあまだ子供だとひとからも見なされていた。十六の秋、母のお時といっしょに廓の仁和賀を見物に行ったとき、海嘯のように寄せて来る人波の渦に巻き込まれて、母にははぐれ、人には踏まれ、藁草履を片足なくして、危うく命までもなくしそうになって逃げて帰って来たことがあった。十吉が吉原の明るい灯を近く見たのは、あとにもさきにもその一度で、仲の町の桜も、玉菊の燈籠も、まったく別の世界のうわさのように聞き流していた。

「あたし、まだ一度も吉原の初午へ行ったことがないから、ことしは見に行こうか知ら。え、十さん、一緒に行かないか」

顔を覗いて少し甘えるように誘いかけられても、十吉はなんだか気の乗らないような返事をしているので、お米もしまいには面白くないような顔をして、子供らしくすねて見せた。

「お前、あたしと一緒に行くのはいやなの」

「いやじゃないけれども詰まらない。初午ならば向島へ行って、三囲りさまへでも一緒にお詣りをした方がいいよ」

「でも、吉原の方が賑やかだというじゃあないか」と、お米はまだ吉原の方に未練があった。

「賑やかでもあんなところはいやだ、詰まらない」

十吉は頻りに詰まらないと言った。二人は来月の初午について今から他愛なく争っていたが、結局らちが明かなかった。

「十さん、吉原は嫌いだね」

「むむ」

二人はまた黙って空を仰ぐと、消え残った雲のような白い雪が藁屋根の上に高くふわりと浮かんでいた。遠い上野の森は酔ったように薄紅く霞んで、龍泉寺から金杉の村々には、小さな凧が風のない空に二つ三つかかっていた。どこかで鶏が啼いていた。二人はさっきから一面の明るい日を浴びて、からだが少しだるくなるほどに肉も血も温まって来た。二人の若い顔は艶やかに赤くのぼせた。

「阿母さんは遅いなあ」と、十吉は薄ら眠いような声でつぶやいた。

「番町のお屋敷へ行ったの」

「むむ。もう帰るだろう」

こんな噂をしていたが、母は容易に帰らなかった。お時が家を出たのはけさの四つ(午前十時)であった。女の足で箕輪から山の手の番町まで往復するのであるから、時のかかるのは言うまでもないが、それにしてもちっと遅過ぎると十吉は案じ顔に言った。お米もなんだか不安に思われたので、七つ(午後四時)過ぎまで一緒に待ち暮らしていると、お時は元気のない顔をしてとぼとぼと帰って来た。

「おや、お米坊も一緒に留守番をしていておくれだったの」

「おばさん、又あした来ますよ」

母が無事に帰ったのを見とどけて、お米も自分の家へいそいで帰った。お米の家は同じ村のはずれにあった。今まで長閑そうにかかっていた凧の影もいつか夕鴉の黒い影に変わって、うす寒い風が吹き出して来た。

お時は一張羅の晴れ着をぬいで、ふだん着の布子と着替えた。それから大事そうに抱えて来た大きい風呂敷包みをあけて、扇子や手拭や乾海苔や鯣などをたくさんに取り出した。

「お屋敷から頂いて来たんだね」と、十吉もありがたそうに覗いた。

お時は番町のお屋敷へあがるたびに、いろいろのお土産を頂いて帰るのが例であった。殊にきょうは初春の御年始に伺ったのであるから、何かの下され物はあるだろうと十吉は内々予期してはいたものの、いつもと違ってその分量の多いのに驚かされた。

日が落ちると急に冷えて来て、春のまだ浅い夕暮れの寒さは、江戸絵を貼った壁の破れから水のように流れ込んで来た。十吉は炉の火をかきおこして夕飯の支度にかかった。お時は膳にむかったが、碌ろく箸もとらないでぼんやりしていた。

「きょうはお屋敷で御馳走でもあったのかね」と、十吉は笑いながら訊いた。

「どうも困ったことが出来たもんだよ」

溜め息をついている母の屈託らしい顔をのぞいて、十吉も思わず箸をやめた。

「なんだね。お屋敷に何か悪いことでもあったのかね」

「むむ。だが、滅多にひとに言うのじゃないぞ」と、お時は小声に力をこめて言った。

話さないさきから厳重に口止めをされて、十吉も変な顔をして黙っていた。

「番町の殿様、飛んでもない道楽者におなりなすったとよ。情けない」

お時はほろりとした。十吉はまた箸をやめて、炉の火にひかる母の眼の白い雫をうっかりと見つめていた。

この母子がお屋敷というのは、麹町番町の藤枝外記の屋敷であった。藤枝の家は五百石の旗本で、先代の外記は御書院の番頭を勤めていた。当代の外記が生まれた時に、縁があってこのお時が乳母に抱えられた。お時はそのときにお光という娘をもっていたが、生まれて一年ばかりで死んでしまったので、彼女は乳の出るのを幸いに藤枝家へ奉公することになった。それはお時が二十二の夏であった。

殿様も奥様も情けぶかい人であった。いい主人を取り当てたお時は奉公大事に勤め通して、若様が五つのお祝いが済んだとき無事にお暇が出た。それから三年目に奥様は更にお縫という嬢様を生んだが、その頃にはお時も丁度かの十吉を腹に宿していたので、乳母はほかの女をえらばれた。しかし御嫡子の若様にお乳をあげたという深い縁故をもっている彼女は、その後も屋敷へお出入りを許されて御主人からは眼をかけられていた。正直いちずなお時はよくよくこれを有難いことに心得て、年頭や盂蘭盆には毎年かかさずお礼を申上げに出た。

そのうちに年が経って、殿様も奥様もお時に泣く泣く送られて、いずれも赤坂の菩提寺へ葬られてしまった。家督を嗣いだ嫡子の外記は十六歳で番入りをした。勿体ないが我が子のようにも思っている若様、どうぞ末長く御出世遊ばすようにと、お時は浅草の観音さまへ願をかけて、月の朔日と十五日には必ず参詣を怠らなかった。

「おれが家督をとるようになったら、きっとお前の世話をしてやるぞ」

子供の時からそう言っていた外記は、約束を忘れるような男ではなかった。彼が家督を相続した頃には、運のわるいお時はもう嬬婦になってしまって、まだ八つか九つの十吉を抱えて身の振り方にも迷っているのを、外記が救いの手をひろげて庇ってくれた。そのおかげで先祖伝来の小さい田畑も人手に渡さずに取り留めて、十吉がともかくも一人前の男になるまで、母子が無事に生きて来たのであった。

「番町さまのありがたい御恩を忘れちゃ済まないぞ」と、お時は口癖のように我が子に言い聞かしていた。外記とはいわゆる乳兄弟のちなみもあるので、お時が番町の屋敷へ行くたびに、外記の方からも常に十吉の安否をたずねてくれた。それがまたお時に取っては此の上もない有難いことのように思われていた。

ことしは外記が二十五の春である。もうそろそろ奥様のお噂でもあることかと、お時はことしの御年始にあがるのを心待ちにしていたが、それでも相手は歴々のお武家であるから、具足びらきの御祝儀の済むまではわざと遠慮して、十二日のきょう急いで山の手へのぼったのである。行って見ると、主人の外記は留守であった。妹のお縫がいつもの通りに愛想よくもてなしてはくれたが、なんとなくその若い美しい顔に暗い影が掩っていた。屋敷のうちも喪にこもったようにひっそりと沈んでいて、どこにも春らしい光りの見えないのがお時の眼についた。

久し振りに訪ねて来たお時に、春早々から悪い耳を聞かせたくないと思ったのであろう、お縫も初めはなんにも言わなかったが、話がだんだん進むにつれて、いくら武家育ちでも女は女の愚痴が出て、お縫の声は陰って来た。

お時もおどろいた。

外記は今まで番士を勤めていたが、去年の暮れに無役の小普請入りを仰せつかったというのであった。尤もお役を勤めていると余計な費用がかかるというので、自分から望んで小普請組にはいる者も無いではないが、無役では出世の見込みはない。一生うもれ木と覚悟しなければならない。年の若い外記が自分から進んで腰抜け役の小普請入りなどを願う筈がないのは、彼が日ごろの性質から考えても判っている。これには何か子細があるに相違ないと、さらに進んで詮索するとお時はまた驚かされた。外記が小普請入りの処分を受けたのは身持放埒の科であった。

お縫の話によると、外記はおととしの秋頃から吉原へかよい始めて、大菱屋の綾衣という遊女と深くなった。それについてはお縫も意見した。用人の堀部三左衛門も諫めた。取り分けて叔父の吉田五郎三郎からは厳しく叱られたが、叔父や妹や家来どもの怒りも涙も心づかいも、情に狂っている若い馬一匹をひきとめる手綱にはならなかった。馬は張り切った勢いで暴れまわった。暴馬は厩に押しこめるよりほかはない。外記は支配頭の沙汰として、小普請組という厩に追い込まれることになった。

家の面目と兄の未来とをしみじみ考えると、これだけのことを話すにも、お縫は涙がさきに立った。俯向いて一心に聴いているお時も、ただ無暗に悲しく情けなくなって、着物の膝のあたりが一面にぬれてしまうほどに熱い涙が止めどなしにこぼれた。

「まあ、どうしてそんな魔が魅したのでござりましょう」

学問も出来、武芸も出来、情け深いのは親譲りで、義理も堅く、道理もわきまえている殿様が、廓の遊女に武士のたましいを打ち込んで、お上の首尾を損じるなどとは、どう考えても思い付かないことであった。魔が魅したとでも言うよりほかはなかった。

しかし今となっては、誰の力でもどうすることも出来ないのは判り切っていた。小普請入りといっても、必ず一生涯とばかりは限らない。本人の身持ちが改まって確かに見どころがあると決まれば、またお召出しとなるかも知れないというのをせめてもの頼みにして、お時はお縫に泣いて別れた。

帰りぎわに用人の三左衛門にも逢った。彼は譜代の家来であった。五十以上の分別ありげな彼の顔にも、苦労の皺がきざんでいるのがありありと見えた。

「いろいろ御苦労がございますそうで……」と、お時は涙を拭きながら挨拶した。

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