Chapter 1 of 3

O君は語る。

大正の初年から某商会の満洲支店詰を勤めていた堀部君が足かけ十年振りで内地へ帰って来て、彼が満洲で遭遇した雪女の不思議な話を聞かせてくれた。

この出来事の舞台は奉天に近い芹菜堡子とかいう所だそうである。わたしもかつて満洲の土地を踏んだことがあるが、その芹菜堡子とかいうのはどんなところか知らない。しかし、それがいわゆる雲朔に近い荒涼たる寒村であることは容易に想像される。堀部君は商会の用向きで、遼陽の支店を出発して、まず撫順の炭鉱へ行って、それから汽車で蘇家屯へ引っ返して、蘇家屯かち更に渾河の方面にむかった。蘇家屯から奉天までは真っ直ぐに汽車で行かれるのであるが、堀部君は商売用の都合から渾河で汽車にわかれて、供に連れたシナ人と二人で奉天街道をたどって行った。

一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰って剣のように尖った北風がひゅうひゅうと吹く。土地に馴れている堀部君は毛皮の帽子を眉深にかぶって、あつい外套の襟に顔をうずめて、十分に防寒の支度を整えていたのであるが、それでも総身の血が凍るように冷えて来た。おまけに途中で日が暮れかかって、灰のような細かい雪が突然に吹きおろして来たので、堀部君はいよいよ遣り切れなくなった。たずねる先は渾河と奉天との丁度まん中で、その土地でも有名な劉という資産家の宅であるが、そこまではまだ十七清里ほどあると聞かされて、堀部君はがっかりした。

日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられては堪まらないと思ったので、堀部君は途中で供のシナ人に相談した。

「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」

供のシナ人は堀部君の店に長く奉公して、気心のよく知れている正直な青年であった。彼は李多というのが本名であるが、堀部君の店では日本式に李太郎と呼びならわしていた。

「劉家、遠いあります。」と、李太郎も白い息をふきながら答えた。「しかし、ここらに客桟ありません。」

「宿屋は勿論あるまいよ。だが、どこかの家で泊めてくれるだろう。どんな穢い家でも今夜は我慢するよ。この先の村へはいったら訊いて見てくれ。」

「よろしい、判りました。」

二人はだんだんに烈しくなって来る粉雪のなかを衝いて、俯向きがちにあえぎながら歩いて行くと、葉のない楊に囲まれた小さい村の入口にたどり着いた。大きい木のかげに堀部君を休ませて置いて、李太郎はその村へ駈け込んで行ったが、やがて引っ返して来て、一軒の家を見つけたと手柄顔に報告した。

「泊めてくれる家、すぐ見付けました。家の人、たいそう親切あります。家は綺麗、不乾浄ありません。」

綺麗でも穢くても大抵のことは我慢する覚悟で、堀部君は彼に誘われて行くと、それは石の井戸を前にした家で、ここらとしてはまず見苦しくない外構えであった。外套の雪を払いながら、堀部君は転げるように門のなかへ駈け込むと、これは満洲地方で見る普通の農家で、門の中にはかなり広い空地がある。その左の方には雇人の住家らしい小さい建物があって、南にむかった正面のやや大きい建物が母屋であるらしく思われた。

李太郎が先に立って案内すると、母屋からは五十五、六にもなろうかと思われる老人が出て来て、こころよく二人を迎えた。なるほど親切な人物らしいと、堀部君もまず喜んで内へ誘い入れられた。家のうちは土竈を据えたひと間をまん中にして、右と左とにひと間ずつの部屋が仕切られてあるらしく、堀部君らはその左の方の部屋に通された。そこはむろん土間で、南側と北側とには日本の床よりも少し高い寝床が設けられて、その上には古びた筵が敷いてあった。土間には四角なテーブルのようなものが据えられて、木の腰掛けが三脚ならんでいた。

老人は自分がこの家の主人であると言った。この頃はここらに悪い感冒がはやって、自分の妻も二人の雇人もみな病床に倒れているので碌々にお構い申すことも出来ないと、気の毒そうに言訳をしていた。

「それにしても何か食わしてもらいたい。李太郎、お前も手伝ってなにか温かいものを拵えてくれないか。」と、堀部君は寒気と疲労と空腹とにがっかりしながら言った。

「よろしい、よろしい。」

李太郎も老人に頼んで、高粱の粥を炊いてもらうことになった。彼は手伝って土竈の下を焚き始めた。その煙りがこちらの部屋まで流れ込んで来るので、堀部君は慌てて入口の戸を閉めたが、何分にも寒くて仕様がないので、再びその戸をあけて出て、自分も竃の前にかがんでしまった。

老人が堀部君を歓待したのは子細のあることで、彼は男女三人の子供をもっているが、長男は営口の方へ出稼ぎに行って、それから更に上海へ移って外国人の店に雇われている。次男は奉天へ行って日本人のホテルに働いている。そういう事情から、彼は外国人に対しても自然に好意をもっている。殊に奉天のホテルでは次男を可愛がってくれるというので、日本人に対しては特別の親しみをもっているのであった。その話をきいて、堀部君はいい家へ泊り合せたと思った。粥は高粱の中へ豚の肉を入れたもので、その煮えるのを待ちかねて四、五椀すすり込むと、堀部君のひたいには汗がにじみ出して来た。

「やれ、ありがたい。これで生き返った。」

ほっと息をついて元の部屋へ戻ると、李太郎は竈の下の燃えさしを持って来て、寝床の煖炉に入れてくれた。老人も枯れた高粱の枝をかかえて来て、惜し気もなしに炉の中へたくさん押込んだ。

「多謝、多謝。」

堀部君はしきりに礼を言いながら、炉のあたたまる間、テーブルの前に腰をおろすと、老人も来ていろいろの話をはじめた。ここの家は主人夫婦と、ことし十三になる娘と、別棟に住んでいる雇人二人と、現在のところでは一家内あわせて五人暮らしであるのに、その三人が枕に就いているので、働くものは老人と小娘に過ぎない。仕事のない冬の季節であるからいいようなものの、ほかの季節であったらどうすることも出来ないと、老人は顔を陰らせながら話した。それを気の毒そうに聞いているうちに、外の吹雪はいよいよ暴れて来たらしく、窓の戸をゆする風の音がすさまじく聞えた。

ここらの農家では夜も灯をともさないのが習いで、ふだんならば火縄を吊るしておくに過ぎないのであるが、今夜は客への歓待ぶりに一挺の蝋燭がテーブルの上にともされている。その弱いひかりで堀部君は懐中時計を透かしてみると、午後六時を少し過ぎた頃であった。ここらの人たちはみな早寝であるが、堀部君にとってはまだ宵の口である。いくら疲れていても、今からすぐに寝るわけにもいかないので、幾分か迷惑そうな顔をしている老人を相手に、堀部君はまたいろいろの話をしているうちに、右の方の部屋で何かがたりという音がしたかと思うと、老人は俄かに顔色を変えて、あわただしく腰掛けを起って、その部屋へ駈け込んで行った。

その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。

「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっと覗いてみろ。」

ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し躊躇しているらしかったが、これも一種の不安を感じたらしく、とうとう抜き足をして真ん中の土間へ忍び出て、右の方の部屋をそっと窺いに行ったが、やがて老人と一緒にこの部屋へ戻って来た。老人の顔の色はまだ蒼ざめていた。

「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。

しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。

「じゃ、どうしたんだ。」

「雪の姑娘、来るかも知れません。」

「なんだ、雪の姑娘というのは……。」

雪の姑娘――日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。

「雪の娘――鬼子であります。」

「幽霊か。」と、堀部君もいよいよ眉を皺めた。「そんか化け物が出るのか。」

「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」

「娘を取る……。その化け物が……。おかしいな。ほんとうかい。」

「嘘ありません。」

なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。

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