Chapter 1 of 1

Chapter 1

いろいろの店にまじって、一けんの筆屋がありました。おじいさんが、店先にすわって太い筆や、細い筆をつくっていました。でき上がった筆は、他へおろしうりにうるのもあれば、また自分の店において、お客へうるのもありました。昔とちがい、このごろは、鉛筆や万年筆をつかうことが多く、筆をつかうことはすくなかったのです。しかし、大きな字を書いたり、お習字をしたりするときは、筆をつかうのでした。

武男は、よくおじいさんのところへ遊びにきて、お仕事をなさるそばで、おじいさんから、お話をきくのを楽しみとしました。

「おじいさん、あの字は、だれが書いたの。」と、頭の上にかかっている額をさしました。

「ああ、あれはここへみえる、書家の方が、お書きなされたのだ。」

「うまく、書けているの。」

「みなさんが、おほめなさる。山高水長、やまたかく、みずながし、といってもよい。」

「おじいさんに、書いてくださったの。」

「そうだ、ここにある、この筆で、お書きになったのだ。私のつくった筆が、たいそう書きよいと喜ばれてな、一枚くださったのだよ。」

おじいさんは、箱の中から、一本太い筆をとりだして、いいました。それは、白い毛の筆でありました。

「ぼく、お習字のとき、つかう筆とよくにているな。」と、武男は、目をまるくしました。

「武坊のもよい筆だが、これとはちがっている。」と、おじいさんは、笑われました。

「ぼくのも白いね。この筆の毛は、やはり羊でない。」

「そう、羊の毛だ。」

武男は、筆をつかったあとで、かなだらいに、水をいれて洗うと、もくもくと、ちょうど汽車の煙のように、まっ黒い墨を、筆からはき出します。そして、そのあとの毛は、清らかな水をふくんで、美しい緑色に見えるのでした。

「おじいさん、どの毛でつくった筆が、いちばんよいのですか。」と、武男は、ききました。

「いちがいにいえぬが、細筆などは、たぬきの毛だろうな。」

「どうやって、たぬきをつかまえるの。」

「たぬきか。おとしや、わなでつかまえたり、また、子飼いにして育てたりするのだ。」

「山へいけば、たくさん、獣物がすんでいるのだね。」と、武男は、いいました。

「昔は、このあたりでさえ、いたちが出たものだ。」

おじいさんも、子供の時分から、町に育って、野生の動物を見る機会は、少なかったのです。

もう火ばちに火のほしい、ある日のことでした。武男が、おじいさんのところへいくと秋の薬売りが、額の字を見ながら、おじいさんと話をしていました。いつしか、字の話から、山の話になったらしいのです。

「なにしろ、中央山脈の中でも、黒姫は、険阻といわれまして、六、七月ごろまで、雪があります。やっと、草や木の芽が出はじめると、薬になるのばかり百種ほどつんで、ねり合わせたのが、この薬ですから、腹痛や、食あたりなどによくききます。これをおいてまいりましょう。」と、薬売りは、袋にはいったのを、おじいさんの前へおきました。

おじいさんは、その袋を手にとって、さもなつかしそうに、ながめながら、

「それから、さっきの話の筆草というのを、こんどきなさるとき、わすれずに、見せてもらえまいかな。」といいました。

「来年の夏は、方々の山へまいります。私が見つけなければ、おちおうた行者に頼んで、どうにかして、手に入れてまいります。」

「ふしぎですな、自然にそんな草があるとは。」

「てんぐや、隠者が、それで字を書いたといいます。」

「私は、この年で、もう高い山へ上れないから、たのしみに、待っていますよ。」と、おじいさんは、頼んでいました。

薬屋は、紺もめんの、大きなふろしきで四角な箱をつつみ、それを背中へ負い、足にきゃはんをかけ、わらじばきの姿で、立ち去りました。武男は、しばらく、その後ろ姿を見送っていました。

「筆草って、草があるの。」

「高い山へ、薬草をさがしにいくと、まだ人の知らない、ふしぎな草があるという話だ。」

「あの薬屋さんは、これからどこへいくの。」

「まだ方々を歩いて年の暮れに、山国の町へ帰るといった。」

武男は、その日の夕暮れが、いつもより、美しく、さびしく感じられました。

秋から冬へかけ、空は、青々と晴れていました。町のはずれへ出て、むこうを見ると、野や、森をこえて、はるかに山々の影が、うすくうき上がっていました。その中の高い頂には、すでに雪が、はがねのように光っています。武男は毎日ここへきて、山をながめていました。そして、正月の書き初めには、「山に雪光る」と、書きました。

よくできたと、学校の先生からも、お父さんからも、ほめられました。また、筆屋のおじいさんは、字に、たましいがはいっていると、たいへんほめてくれました。

●図書カード

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