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潜航艇「鷹の城」
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潜航艇「鷹の城」
小栗虫太郎
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Nguyên bản Public Domain
Chapter 5 of 13

5

ですから、あの室に入って夫の屍体を一瞥すると同時に、私の眼は、まるで約束されたもののようにヴィデさんに向けられました。

すると、あの方だけは、椅子の上で落着きすましていて、まるでその態度は、当然起るべきものが起ったとでも云いたいようで、とにかくヴィデさんだけには、夫の変死がなんの感動も与えなかったらしいのです。

まったくあの方には、底知れない不思議なものがあるのですわ」

とはいえウルリーケとて同じことで、夫の死に慟哭するようなそぶりは、微塵も見られなかったのであるが、まもなく法水は、その理由を知ることができた。

現場の扉は、鉄板のみで作られた頑丈な二重扉で、その外側には鍵孔がなかった。というのは、万が一クローリン瓦斯が発生した際を慮ったからで、むろん開閉は内側からされるようになっていた。

そして、扉が開かれると、そこに漲っている五彩の陽炎からは眩まんばかりの感覚をうけ、すでに彼には現場などという意識がなかった。

そのせいか、眼前に横たわっている八住の死体を見ても、色電燈で照し出された惨虐人形芝居の舞台としか思われず、わけてもその染められた髪には、老女形の口紅とでも云いたい感じがして、この多彩な場面をいっそうドギついたものに見せていた。

ところがその時、死体とは反対の側に、一人の盲人が佇んでいるのに気がついた。

それは、詩人の犬射復六だったが、そのおり屍体に何を認めたのか、法水は振り向きざま犬射に訊ねた。

と云うのは、なんともいえぬ薄気味悪い事だが、すでに死後十時間近く経過していて、傷口は厚い血栓で覆われているにもかかわらず、現在そこからは、ドス黒く死んだ血が滾々と流れ出ているのである。

その瞬間、この室の空気は、寒々としたものになってしまった。

犬射は美しい髪を揺すり上げて、割合平然と答えた。

「なに、私なら、今しがたここへ来たばかりなんですよ。艇員の方に手を引かれて――さあ五分も経ちましたかな。

それに、用というのが、実は向うの室にありまして、御承知のとおり、乗り込むとすぐこの騒ぎだったものですから、てんで艇長の遺品には、手を触れる暇さえなかったのです。

なに、私が死体を動かしたのではないかって。ああほんとうに、位置が変っているのですか……ほんとうに死体が……」

と犬射の顔色はみるみる蒼白に変っていって、なにか心中の幻が、具象化されたのではないかと思われた。

その流血は、ほんの一、二分前から始まったらしく、硝子の上を斜めの糸がすういと引いているにすぎなかった。けれども、死体の位置が異ったという事は、以前の流血の跡に対照すると、そこに判然たるものが印されているのだった。

最初仰向けだったものを俯向けたために、出血が着衣の裾を伝わって、身体なりに流れたからである。しかも傷口には、厚い血栓がこびりついていて、とうてい屍体の向きを変えたくらいで、破壊されるものではなかったし、また、気動一つ看過さないという盲人の感覚をくぐって、知られず、この室に侵入するという事も不可能に違いないのだった。

してみると、死体を動かしたのは当の犬射復六か、それとも――となると、再びそこに「鷹の城」遭難の夜が想起されてくるのだ。

「慄っとするね。十時間もたった屍体から、血が流れるなんて……。だが法水君、結局犯人の意志が、あれに示されているのではないだろうかね」

そう云って、検事が指差したところを見ると、その前後二様の流血で作された形が、なんとなく卍に似ていて、そこに真紅の表章が表われているように思われたからである。

この暗い神秘的な事件の蔭には、その潤色から云っても、迷信深い犯人の見栄を欠いてはならないのではないか。

しかし、法水は無言のまま死体に眼を落した。

八住衡吉は、肩章のついたダブダブの制服を着、暑さに釦を外していたが、顔にはほとんど表情がなかった。

強直はすでに全身に発していて、右手を胸のあたりで酷たらしげに握りしめ、右膝を立てたところは俯伏しているせいか、延ばした左足が太い尾のように見えて、それには、巨きな爬蟲の姿が連想されてくる。

創は心臓のいくぶん上方で、おそらく上行大動脈を切断しているものと思われたが、円形の何か金属らしい、径一糎ほどの刺傷だった。

そして、その一帯には、砕けた検圧計の水銀が一面に飛散っていて、それを見ると、最初一撃を喰らうと同時に、検圧計を掴んだのが、ほとんど反射的だったらしい。そして、握ったままくるりと一廻転して、引きちぎった検圧計もろとも、背後に倒れたのではないかと推断された。

そうすると、案外刺傷の位置がものをいって、心臓を突かなかったのも、事によったら突き損ねたのであって、あるいは三人の盲人のうちでか――とも考えられるが、一方には、兇器がこの室になく、というよりも不可解至極な消失を演じ去ったのであるから、その点にゆき当たると、依然盲人は、この血の絵に凄気を添えている、三つの点景にすぎないとしか思われないのであった。

その時、片隅にいる一団に遠慮したような声で、法水は検事に囁いた。

「見給え支倉君、これも、今までの定跡集にはなかったことだよ」

と検事に、赤のような形をしたドス黒いものを示した。

それは、創口を塞いでいる凝血の塊だったが、底を返して見て、検事は真蒼になってしまった。

「どうだ! 細い直線の溝があるじゃないか。たしか針金か何かで、皮膚と平行に突っ込んだにちがいないよ」

「たぶんそうだろうと思うがね。そうすると、これほど手数のかかる微細画をだ。しかも、犬射復六を前に、堂々と描き去った者がなけりゃならんわけだろう。

ところが、この奥の室には、先刻から朝枝という娘がいるそうだけど、こんな静かな中で、盲人の聴覚が把手の捻り一つ聴きのがすものじゃない。それにあの娘は、今朝この『鷹の城』には、乗り込んでいなかったのだ。

そこで支倉君、この結論を云えばだ――絶対に盲人のなし得るところではないということ。それから、一人の妖精じみた存在が、どうやら明瞭しかけてきたという事なんだ」

それから法水は、ウルリーケを手招いて、当時四人が占めていた位置を訴した。

すると、一々椅子を据えてウルリーケは右端から指摘していった。

「ここが、石割さんでございました。それからヴィデさん、次が主人、そして最後が、犬射というのが順序なのです。

ところが、先ほども申しましたように、犬射さんは立ち上がってうろうろしていたのです、だが、ヴィデさんだけは泰然と構えておりました。

また石割さんときたら、それは滑稽にもまた惨めな形で、肩をぴくんと張った厳つさに似合わず、両膝を床について、ぶるぶる顫えていたのでしたわ」

ウルリーケが再び片隅に去ると、法水はしばらく額の皺を狭めて考えていたが、やがて、検事をニコリともせず見て、別の事を云いだした。

「ねえ支倉君、できることなら、見当ちがいの努力をせんように、おたがいが注意しようじゃないか。

何より怖ろしいのは、僕らの方で心気症的な壁……それを心理的に築き上げてしまうことなんだよ。現にこの卍の形がそうなんだが、いつぞやの黒死館で、クリヴォフの死体の上に何があったと思うね。

あの時、それが手の形をして、壇上の右手を指差していた。なるほど、それには犯人の伸子がいたにはちがいないが、しかし理論的に、なんといって証明するものではない。

こんなつまらん小細工に引っかかって、心の法則というやつを作られては堪らんからね」

けれども、その卍の形は、絶えず嘲るかのごとくびくびく蠢いていて、舷側で波が砕け散るときには薄紅く透いて見え、また、その泡が消え去るまでの間は、四つの手が、薄気味悪く蠕動していて、それには海盤車の化物とでも思われるような生気があった。

しかし、法水は振り向きもせず、奥の室の扉を開けた。

その室には、前部の発射装置がそっくりそのままになっていて、その複雑な機械の影は、市街の夜景ででもあるように錯覚を起してくる。

その前で、朝枝は茫んやりと、一つの鉢を瞶めていた。

その鉢は一本の紅いアマリリスだったが、そうしている朝枝を一瞥したとき、なにかしら透き通ったような人間ばなれのしたものを法水は感じた。

朝枝は水っぽい花模様の単衣を着、薄赤色の兵児帯を垂らしているが、細面の頸の長い十六の娘で、その四肢は、佝僂のそれのように萎え細っていた。

全体が腺病的で神経的で、なにかの童話にある王女のように、花の雨でも降れば消え失せるのではないかと危ぶまれる――それほどに、朝枝は痛々しく蝋のような皮膚色をしていたが、一方にはまた、烈しい精神的な不気味なものがあって、すべてが混血児という、人種の疾病がもたらせたのではないかとも思われるのだった。

ところが、入ってくるウルリーケを見ると、長い睫毛の下がキラリと光った。

彼女は母に、とげとげしい言葉を吐いたのである。

「お母さん、貴女はこのアマリリスを、どうしてここへ持っていらっしゃったのです。ああ判った。貴女は私を殺そうとお考えになっているのでしょう。

だってこの花のことは、ようく御存知のはずなんですもの……私をまた床に就かせようとしたって……ああ、きっと、そうにちがいありませんわ」

朝枝のヒステリックな態度には、何かひたむきな神々しいような怖ろしさがあって、それには何より、法水が面喰らってしまった。

すると、瞬間ウルリーケの顔には狼狽したようなものが現われたが、彼女は動ぜず、静かに云い返した。

「まあ朝枝さん、私が持って来たのですって、……いったい貴女は、何を云うのです? お母さんは、貴女を癒してくれたこの花に、感謝こそすれ、なんで粗略に扱うものですか。

サア家へ帰って、すぐ床にお入りなさい……貴女はまだ、本当ではないのですよ」

その思いもよらぬ奇異な場面にぶつかって、しばらく法水は、花と朝枝の顔を等分に見比べていたが、

「なんだか知りませんが、僕にこの花のことを聴かせていただけませんか」

「それは叔父さま、こうなのですわ」

と朝枝は、法水の顔にちらついている、妙に急迫した表情も感ぜず語りはじめた。

「私は一月ほど前から、得体の知れない病いに罹りました。熱もなくただ瘠せ衰えてゆきまして、絶えずうつらうつらとしているのです。

あとで聴きますと、医者は憂鬱病の初期だとか何かの腺病だとか云ったそうですが、どんなに浴びるほど薬を嚥んでも、私の身体からは日増しに力が失せてゆくのでした。そうして、だんだんと指の間が離れてゆくのが、朝夕目立ってゆくうちに、このアマリリスの蕾が、ふっくらと膨んでまいりました。

私はそれを見て、果敢ない望みをこの花にかけてみたのです。もし私が癒るようなら、蕾をそれまで鎖ざしておいて下さいまし――と。

ほんとうを云えば、力を出そうとして、血の気が上ったようなこの花の生々しさに、私、妬みを感じたのでしたわ、ところが叔父さま、まあ不思議な事には、今にも開きそうなこの蕾が、五日たっても十日たっても、何日になっても開こうとはしないのです。

そうして、私の病いも、それと同時に薄皮を剥がすように癒ってゆきました。

ところが、はじめて床を出た今朝、ふと気がついてみますと、この花が私の枕辺から消えているのです。それが叔父さま、いつのまにか『鷹の城』に来ていて、このとおりパッと開いているのではございませんか」

その不思議なアマリリスが、赤い舌のような花瓣をダラリと垂らしているところは、何かもの云いたげであった。

そして、そのいいしれぬ神秘と詩味は、蒼味の強い童話本の挿画のようであったが、今朝の惨劇に時を同じくして起ったこの奇蹟には、なにか類似というよりも、底ひそかに通っている整数があるのではないかと思われた。

法水は、次々と現われてくる謎に混乱してしまったが、まもなく一同を去らしめて、この室の調査を開始した。

そして、最初にまず、艇長の遺品二点を取り上げた。

二、ニーベルンゲン譚詩

作者はここで、艇内にあらわれた「ニーベルンゲン譚詩」について語らねばならない。

Chapter 5 of 13
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