Chapter 1 of 5

父親

三十五歳のとき、長女が生れた。昭和八年である。私にとっては、まったく思いがけない出来事だった。そのとき、ある婦人雑誌から、はじめて父親になった感想を求められ、父親たるべき腹の出来ていないことを答えたことを覚えている。当時の日記をひろげてみると、つぎのような感想が書きなぐってあった。

「わが子一枝(カズエ)、一日ごとに変化の兆、歴然たるものあり。成長に向う変化である。その変化を前にしていると、父親というかんじが、どこからともなく湧きあがって、われながら思いがけない荘厳な霊気にふれ、ひやりとすることがある。しかし、子供の変化を知覚するごとに、父親であるという意識がひとりでに伸びあがってくるから不思議である。犠牲、献身の尊とさが子供への愛情の中から湧きあがってくるのも、今は唯、不思議だと思うだけである。それにつけても、わが子への愛情が日に夜に高まるにもかかわらず、厭世虚無の思いがどっしりと心の底に根をおろしてくるのはどうしたわけであろうか。夜ふけて、わが子の行末を思う佗しさがこの世への厭離の念を唆るわけでもあるまい。わが子への愛情が、ひとすじに澄みとおってくればくるほど、子供を失ったあとの悲しさや、子供とわかれてゆく心の慌しさが、まぼろしのごとくにわれを追いかけてくるが故でもあろうか。生活の惨苦に沈む世の親たちが愛し子を殺す心の切なさが今こそ、しみじみとわが心に迫る。私の幸福は、わが子への愛情の中に穢れの意識をまじえないことにある。妻は私にとっては神様だ。ときどき手を合せて拝みたい気もちのするのも、悪しき情慾の奴隷となって、のたうち廻った思い出のなせる仕業とのみはいえまい。何に対しても無鉄砲で、放胆で、自分勝手だった私は、いつのまにか臆病になり、小胆になり、生きることのおそろしさに身の毛がよだつようである。一枝は、「オッパイ」という言葉をやっとおぼえた。この愛すべき唇が恋愛の嘆きのために濡れるころまで私は生きているであろうか。過去の悪業への罪の意識は夢にまでも私に襲いかかる。わが子よ。お前を産んだ、おろかなる父が、お前への愛情故に、かくのごとく悩み苦しんだということを忘れてはなるまい。云々」

私の親馬鹿は、このへんから端を発しているらしい。その後、数年経って私は長女が小学校へ入学したとき、『親馬鹿の記』という随筆を書いた。

これは親ごころの阿呆らしさに解説を加えたものであるが、まだ三十をすぎて間のない私は、身体も健康だったし、前途は洋々たる希望と野心にふくれあがっていた。昭和十二、三年頃だから中日事変が勃起したばかりの頃である。

私は生活の虚無感に陶酔しながら、連日酒を呷り、流連荒亡の夢を追って時の過ぎるのを忘れるような暮し方をしていた。

そのとき、私が自ら進んで、『親馬鹿の記』を書くような気持になったのは、子供がようやく物ごころづき、長じて小学校に入学するに及んで、これは冗談ではないぞ、という気持に唆しかけられたことが動機を成している。その頃私の近所に、私よりもひと廻り下の文学青年で、若いくせに早くから二人も子供を産んだ男がいて、よく街の銭湯で会うと、やっと二つか三つになった赤ん坊を流し場にならべ、楽しそうに鼻唄をうたいながら、格のついた親爺らしい落ちつきを示して、赤ん坊の身体に石鹸をつけ、タオルで、ごしごしこすっている。

これは恐るべき度胸だと、感嘆したことを今でもおぼえているが、二十年を経た今となると私自身が、まったく、それと同じ境地に落ちつこうとしているのだ。まったく十余年の歳月は、うかうかと夢のごとくに過ぎていった。紅唇いずれの日にか恋愛のために濡るるべき、――と冗談口をたたいた娘は早くも二十一歳になっていた。私は、そのときまで娘の成長を、ほとんど意識の上においていなかった。その成長過程についても、いちいち考えてやることのできないような気忙しい生活である。時代も環境も、また戦争一本によってうごいていたときだったので、風に吹きまくられるような慌しい気持で、大陸へ従軍したり、徴用をうけてフィリッピンへ行ったりしているうちに小刻みな時間が流れるように過ぎてしまった。そこへ、だしぬけに十六年ぶりで長男が生れたのである。

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