Chapter 1 of 10

月のかげが低い屋根に落ちている。場所は博多、中洲の水茶屋、常盤館の裏門の前で俥のとまる音がした。――入ってきたのは洗いざらしの白い薩摩絣を着ながしにした長身肥大の杉山茂丸である。杉山は、右が納屋、左が薪の束の堆高く積んである狭い通路を大股に歩いて植込のふかい中庭の前へ出た。

壊れかかった柴折戸をあけると、池の水蓮に灯かげがぼうと映っている。杉山は竹垣にそって庭石づたいに池をひと廻りして大きい石灯籠のかげになっている茶室の横へ出た。片手で松の幹を抱え、身体を斜めにして池の正面にある広間を透かすように眺めると通常「豪傑部屋」と呼ばれている宴会専用のほそ長い部屋は、襖も障子もあけ放しにされて、そこから真正面に見える欄間の上には、何時も見馴れている山陽外史の、「雲耶山耶呉耶越」――と達筆にまかせて伸び放題に書きなぐった天草夜泊の詩がうすい翳を刻んでいる。新任の福岡県令安場保和をかこむ実業家たちの小宴であった。安場は玄洋社とも多少のつながりがある。元を洗えば、その頃元老院議官であった安場を説いて、福岡県知事たらしめようとしたのも、杉山であるし、「明治の聖代に筑前の梁山泊なぞに誘拐されてたまるものか」――と一蹴する安場を追窮して、「いや、明治の聖代に藩閥高給のお鬚の塵を払うのと青年子弟の高邁な気風の中で日を過すのとどっちがいい」と、大言壮語して磊落豪宕をもって聞えた安場にひと泡吹かせたのも白面空手の一書生である杉山であった。彼は安場を説得したばかりではない。親分である山田顕義に一身の運命を托しているから相談の上で返事しようと、最後の逃口上を打った安場の言葉をしっかりとおさえてすぐひらき直った。「――よろしい、然らば山田閣下のことはわが輩がひきうけました。山田閣下に一身を托されるのは少々心ぼそいが、人物払底の今日であってみれば九州統一を図るにはどうしても先生をさらってゆくよりほかに道はない、こうなればわが輩も命がけです、やるところまではやりますぞ」。

杉山はその足ですぐ後藤象次郎を訪ね、無理矢理に紹介状をもらって山田顕義を自邸に訪れすぐ膝詰談判をはじめたのである。剛愎な山田が杉山の法螺に吹きまくられたと解釈するのは必ずしも穏当でないかも知れぬが、しかしその安場が福岡県令となって赴任してきたのはそれから一ト月経つか経たぬうちであった。してみると杉山が投じた一石が多少の効果を奏したことを否定するわけにはゆくまい。

宴席には人の姿が入りみだれ、びっこをひいた安場の顔は何処にあるのかわからなかったが、しいんと大気をひきしめるようにひびいてくる博多節の音じめさえ、さすがに浪人や書生たちの酒宴の席に聴くボロ三味線とはちがっておのずから一つの格を示している。やっているな、――と思うと、杉山の顔にはかくしきれぬ微笑がうかんできた。兎にも角にも安場を此処まで引きずりだしてきた力が自分の胸三寸にあったと思うと、誰に対してともなく、ざまァみやがれ、という気持がどっとこみあげてきたのである。

そのまま杉山は茶室の濡れ縁の方へ廻った。――その夜、同志の来島と星成とそこで会食する手筈になっているのだ。時間には少しおくれたが、杉山は無造作な声で、

「よう」。

と呼びかけながら入っていった。若い妓をよんで、よろしく接待させるようにと女中に頼んでおいたのだが、部屋の中には小卓を挟んで、双肌脱ぎになった星成喬太郎と、垢じみた棒縞の手織木綿の単衣に茶っぽい小倉袴をつけた来島が不興そうな顔をして向いあっている。

「何や」。

片手で団扇をつかいながら星成がとげとげしい声でいった。「二時間も客を待たしといて、あんた何処をうろついて御座った?」。

「御免、御免、――用があって八幡へ行ったけん遅うなった、駅から俥で駈けつけたところじゃよ、汗びっしょりじゃ」。

沈鬱そうな来島の眼にふれると杉山はそっと視線を外らしながら、

「それに、ちゃんと女中に言いつけといたんじゃが、妓たちはどうしおったんじゃ、気の利かんやつ等じゃのう、――県令の宴会で逆上せあがっているわけでもなかじゃろに、どっちにしてもおくれたのはおれが悪か、機嫌を直して飲め!」。

杉山は星成のコップに酒をなみなみと注ぎ入れた。それから、大きく手を鳴らそうとするのを、

「来てくれたらもう文句は言わん、あんたのことじゃけん、何処かで大法螺でも吹いているうちにおれたちのことはケロリと忘れたのかと思うとった」。

「バカをいうな、――それよりも妓を聘ぼう」。

「いや、――」

と、黙っていた来島が窪んだ眼をパチパチと動かした。

「妓はいらん、――さっきも二、三人来おったがかえしたばかりじゃ」。

「かえした?」。

「――妓がいると気が散っていかん。今夜は宴会じゃないからのう」。

「どうも貴様には歯が立たん、――何か急いでいることでもあっとや?」。

「今夜、――吉見屋でみんなが待っとるけんのう」。

「下名島町か、そんなものはほっとけ、それよりも貴様と膝を交えて話したいことがある」。

「そうもゆかん、送別会じゃでのう」。

「送別会というのは貴公のか?」。

「そうじゃよ、――あんたもいっしょに行かんか」。

「そんなら」。

杉山の眉が不意に曇った。「いよいよ出発と決めたのか、――」。

「うん、何よりも実行じゃ」。

来島はむっつりとして口を噤んだ。杉山はそっとあたりへ気を配るようにうしろを振りかえった。縁先までのびた八ツ手の葉が灯かげの中にキラキラと光っている。

「それで、――」。

杉山は来島の眼から来る殺気をひやりと胸の底にかんじた。「何時立つんじゃ?」。

「今夜おそく船に乗る、――予定は一ト月もあればよか、東京の形勢次第では二、三日でかえるかも知れん、送別会というと大袈裟ばってん、事の次第によっちゃ同志の結束は固めておかんきゃならんからのう」。

「うん」。

杉山は大きくうなずきながら手酌でついだ盃の酒をひと息に吸いこんでから、

「――何しろ容易ならん時勢じゃ、何れはおれたちも命を捨てる覚悟はせにゃなるまいが、どうも貴公は血気に逸りすぎる。短気のために大策を誤っちゃいかんぞ、むろん大隈の条約改正問題は天下の大事にちがいない、――しかしだ、憤りを発すべき問題はこれだけじゃない、志あるものは誰も彼も憤慨悲憤を胸におさめている」。

「そこたい」。

星成が皮肉そうに唇を歪めた。「胸におさめたところでどうもならんじゃないかな、事態は一刻の猶予も許さぬところにある」。

「まァ、待ちゃい」。

と、杉山は片手で軽くおさえながらむっつりと圧しだまっている来島の顔を覗きこんだ。

「おれはそのことで貴公等二人に会いたかったのじゃ、――事態が切迫しているだけに一歩誤ったらとり返しのつかないことになる。去年の鹿鳴館騒ぎをどう思う。廟堂の諸公は腸まで腐っている。その中でも大隈はまだましなくらいのものじゃ、伊藤や井上は骨がらみにひとしい、そこでおれはこう考える、条約改正を中止させることも肝要じゃが、それよりもこれを機会に天下の正論を激化させることの方がはるかに重大だぞ、大隈事件にぶつかることによっておれたちは天下の積弊を掃蕩する機会をつかまえんと出来ん、昔、沛公が志を得たのは秦の無道をおさえて一世の正論を激化させたからじゃ、こいつを踏みちがえると大へんなことになる、――何といっても今日の時勢に備えるのは言論のほかにはなか、去年貴公が松島屋で井上(馨)を刺していたら、あの老奸の息の根を止めることが出来ていたかも知れんが、それがために今日のように正論を激化させる機会は失ってしまったかも知れぬ、おれの恐るるところはそこじゃ、博浪沙の一撃は効を奏しても玄洋社は根こそぎにぶっ倒れていたかも知れん」。

「待ちゃい」。

来島の眼が不意にするどく輝きだしたのである。「そりゃあ、――あんたのいうとおりかも知れんが、しかし言論は言論じゃ、国論をいかに激化させたところで、もし条約改正が実行されてしまったら、日本中の老若男女がことごとく志士仁人に変ったとしても、もうあとの祭じゃ、あんたはおれが井上をやっつけなかったことを正論のために祝福すべきことのように言うばってん、果してどげんなったか、そんなことはやってみなくっちゃわかるまいが」。

「いや、わかる、――大西郷があれだけの衆望を担いながら、武力をもってしてはどうにも出来なかったじゃなかや、君側の奸を掃蕩しようと思うなら、言論のほかにはなか、もし西郷が言論をもって九州を風靡して立ったらおそらく天下は意の儘になっていたろう、貴公そう思わんか」。

膝に置いた杉山の手首がわなわなと顫えている。――来島はこみあげてくる感情をおさえるようにじっと唇を噛みしめた。「まるでちがう、――なるほど当節は武力の時代じゃなか、そうかといって言論の時代でもなか、あんたは土佐の言論風にあてられすぎているぞ」。

「それなら何の時代だ?」。

「――一騎打ちじゃ」。

来島は懐ろに入れた左手でぐっと臍下丹田をおさえた。「単刀直入事を決する時代じゃよ、今日の急務は天下の輿論を捲き起すことじゃなくて、条約改正を是が非でも中止させるということにある、――言論の起るのはそれから先きの話じゃ、大西郷が兵を挙げて失敗したことはたしかに貴公のいうとおりだが、おれはあれだけの人傑が揃っていて何故一騎打ちの勝負をしなかったか、それだけを今でも残念に思うとる、死を決した人間が百人あったら大戦争を起して途方もない犠牲を払わなくとも立派に目的を貫徹することが出来たろう」。

ぼそぼそと語る来島の声には次第に底力が加わってきた。杉山は動かすことのできない来島の決意をハッキリ見究めたような気もちになった。急に冷めたい水が脊筋に伝わるような不安に襲われたのである。去年、井上を刺そうとして行方を晦ました彼を社中の同人が総がかりで探しだし、やっと頭山満の説得によって事無きを得たときのことがふと杉山の頭にうかんできた。今夜の会見も、所詮はそのときと同じ不安の実体を突きとめようとする魂胆の故に外ならぬのだ。――それが、今、彼の眼の前にいる来島は去年の来島ともちがっている。去年の来島は感情の動きに唆しかけられながら井上に対する私憤を脱しきれないでいるところがあった。しかし、今夜の来島の顔にはかすかな感情の曇りもない。何時もならば、言葉が乱れ、論理もしどろもどろになる彼が熱するにつれてますます冷静になってくるのも不思議であるが、しかし、それよりも一層不思議なことは、大抵の場合自分の方が圧倒的にぐいぐい対手をおさえつける習慣を持っている杉山が、ともすれば逆にねじ伏せられそうになるもどかしさをどうすることもできないことであった。

「じゃが」。

と、杉山はそわそわした調子で言葉を濁した。「大隈と井上とは違うぞ」。

「何が違う――?」。

「大隈は井上ほど老獪じゃなかぞ」。

「そのことか、――そりゃちがうじゃろう、大隈が井上よりも良心があるということならそれもわかる、しかし、そんなことはどっちでもいいことじゃ、大隈と井上の人物の優劣論をやるときじゃなか、あんた、少しどげんかしとるぞ、わしは大隈を憎んじゃおらん、条約改正を中止させる、そのほかに余計なことを考える必要が何処にある」。

庭石を踏む下駄の音が聞え、若い女中が銚子を持って近づいてきたが、杉山を見ると、すぐ、

「だん(旦那)さん」。

と呼びかけた。安場県令がちょっとでもいいから杉山に顔をだしてくれというのである。

「おれが此処にいるのがどうしてわかった?」。

「そりゃ、だんさん、――さっき御りょん(女将)さんが」。

杉山は忌まいましそうに顔をしかめた。すると、すかさず来島が、

「おれたちもそろそろ引きあげるか、――杉山、あんたは用がすんだら吉見屋へ来るといいが」。

「まア、待っとれ、おれはちょっと顔を出してすぐかえってくるけん、――今夜はいよいよ貴公たちと別れともない晩になってきたぞ」。

二人が東上するということは数日前から知友のあいだに伝わっていた。事態の急を告げていることを知らぬ杉山ではない。――知らぬどころか彼はあらゆることを知りつくしているのだ。しかし輿論の大勢が圧倒的に改正案反対に傾いているときに果して大隈が民論を押しきって実行するかどうかこいつは疑わしい。反対論は在野の政客だけではなく廟堂の意見さえ決定しようとしている。井上(馨)よりも大隈よりも最初の張本人である伊藤(博文)の腰がぐらつきだしている今日、伊藤の傀儡(杉山はそう解釈していた)であるにすぎぬ大隈が、彼の政治的生命を犠牲にしてまで実行に着手するかどうか、――杉山は民論の急先鋒であることを自任しながらも腹の底では高を括っていたのである。それよりも、彼はこの機運をつかんで藩閥政治を倒すことの方がはるかに重要だと考えていた。それに、玄洋社からは頭山と美和(作次郎)が同志をつれて中央に乗りだしていっている。彼は一ト月前に後藤(象二郎)の胸の底を打診してかえったばかりだ。谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太等を中心とする反対論の火の手は日に日に高まっているし、大隈の支配下にある外務省の中でさえ若い外交官の小村寿太郎なぞは反対論を唱えているではないか。九州でも、長いあいだ犬猿の感情を持ちあつかいかねていた玄洋社と熊本国権党が、どっちから先に寄り進んだというわけでもなしに近づいて、条約改正中止を断行する意気込をもって筑前協会を組織し、大隈が唯一の恃みとする九州改進党に対抗しようとしているのだ。井上の保安条令以来狂い立った民論はもう防ぎようのないところまで来ている。そのように沸騰する民論の動きの見えぬ大隈ではない。彼は唯乗りかかった船の始末に迷っているのだ。――頑張りきれるところまでがんばって、民論の潮流が自分に有利な方向へ展開して来そうなところでひと芝居打とうとする大隈の腹を、杉山は彼一流の人間認識によって簡単に読みとろうとしていたのである。そこへ来島がとびだしていって途方もないことをやりだしたら、大隈の決意を逆な方向へ導く結果になるかも知れぬ。来島が何のために上京するかということが朧気ながら見当のついている彼にとっては、厭が応でも防ぎとめなければならないのだ。民論の動きを誤ることを恐れるだけではない。玄洋社の将来にとっても、――否々もう一歩踏込んで言えば、ようやく動きだす方向に動いてきた天下の大勢を自分の筋書どおりに導いてゆくためにも。

策士をもって自任する杉山は来島を説得するくらいのことは朝飯前だと高を括っていたのである。ところが、今夜の来島は並大抵の覚悟ではないものを持っているらしい。言ってみれば、推せども敲けども動かぬ巌乗な岩のような冷たさが彼の心に犇々とくる。そこへ、ほかの女中がやってきた。――安場がどうしても顔を出してくれという。じゃあ、すぐ行くからといって女中を返すと、杉山は急に深刻な表情をして言った。

「――これからはいよいよおれたちが命がけで君国に奉公しなけりゃならんときがくる、上京するのもいいが命だけは大切にしろよ、貴公は命を粗末にしすぎる、これだけはくれぐれも頼むぞ、のう、恒喜」。

杉山の眼には涙がにじんでいる。「約束してくれよ、決して軽はずみなことをしないということを」。

「おれは何も考えてはおらん」。

と恒喜が渋りがちな声で言った。「用がすんだら吉見屋へ来るといいのう、――みんなも久しぶりで杉山の長広舌を聴きたがっとるよ」。

「よし、きっとゆく」。

「待っとる、――時間はたっぷりあるから急がんでもいい」。

Chapter 1 of 10