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十月に入ると急に形勢が変ってきた。来島の最初の計画では、外務省の門の前にかくれていて、大隈の退出してくる突嗟の機会をねらってピストルをぶっぱなすのだ。もし外れたら一気に短刀を握ってとびだすつもりでいた(そのピストルは金玉均の朝鮮事件以来肌身離さず持っていたのである)。
そのために彼は毎日のようにこっそり霞ヶ関の附近をうろつき、もっとも都合のいい足場や距離を丹念に研究していたのであるが、外務省の警戒がだんだん厳重になってくるにつれて、いっそのこと早稲田の自邸から出てくる大隈を覘おうという気にもなったが、しかし、人通りのうすい場所で、そのあたりには身をひそめるところのないことがわかると、やっぱり霞ヶ関以外に好適の場所はなかった。自分の行動に曇りと疑惑を残さぬ意味においても、外務大臣としての大隈をやっつける場所は霞ヶ関のほかにはないことが、彼の心の中でいよいよ確定的になってきたのである。
しかし、十月が半ばを過ぎると、もう普通の身装でそのあたりへ出入することが困難なほど警戒は一層厳重になってきた。星成とは絶えず連絡をとって機会を覘うための打合せをしていたが、ある夜、星成の下宿している神田錦町河岸の馬力屋の二階へ訪ねてゆくと、
「今、貴様を訪ねようと思うとったところじゃ」。
と、星成はとびつくようにして彼の肩をおさえた。
「よか話がある」。
「何じゃい?」。
「こっちへ来い」。
といって、彼は机の前へながながと寝そべった。「いつかの晩、貴様がドカン! とやるというたのが頭について仕方がなかったが、そのドカンが手に入りそうになってきたぞ」。
「そいつは耳よりじゃ、――何処にある?」。
「同じドカン! でもふとかぞ、近頃ではもう大隈の身辺に近づくことも容易ならんような状態じゃ、――ピストルは打ちそこねたらそれきりだし、短刀はこの様子じゃどうも覚束ない、やっぱりドカン! じゃよ」。
星成はそっと起きあがってわざと街に向いた窓の障子をあけ放し、貴様の下宿の泥溝の臭いとくらべるとおれの家の馬の糞の臭いはまだましじゃぞ、――と途方もない冗談を言いながら窓框に腰をおろした。それから、ハ、ハ、ハ、ハ、と腰をゆすぶって笑いだしたが、すぐ前かがみになって声をひそめた。「昨日、大井憲太郎さんに会うたんじゃ、ほかに人がいて雑談をしとるうちに、大井さんが妙なことを言いだしなさった、――話はその上にドカン! じゃが、それが横浜の外人墓地の裏に埋めてあるそうじゃ」。
「どげんして?」。
「詳しいことは知らん、――加波山事件のときの遺物だそうじゃ、大井さんもそれ以上の話はせんかったが、こいつはうまいと思ったからおれはすぐ素知らぬ顔をしてかえってきた、――貴様、今夜にでも頭山さんとこへ行て、大井に紹介状を書いてもらえ、大井なら決心をうちあけてもよかろ、早うせんと出来んぞ」。
「そいつはええ」。
来島の顔がみるみるうちにひきしまってきたのである。その晩、彼は無けなしの財布をはたいて辻俥を赤坂にいる頭山の宿屋へ走らせた。頭山は大井に会いたいという来島の言葉の底から何事かをかんじとったらしい。事はせかんでもええ、大井ならおれが明日の朝自分で出かけて貴様の思いどおりにしてやる、おれも今から飯を食うところじゃ、――いっしょに牛肉でもつついてゆかんか、といって手を鳴らし、女中に牛鍋の用意をさせてから、二、三日前に谷干城の屋敷で開かれた密議の模様を、しずかなとぎれがちな言葉で話しだした。その晩あつまったのは条約改正反対運動に狂奔している政界論壇の長老たちで、浅野長勲(侯)、三浦観樹、杉浦重剛、高橋健三、三宅雄二郎(雪嶺)、千頭清臣、福富孝季、頭山満、古荘嘉門、佐々友房、広瀬千麿の顔触が揃うと、最後の手段についての相談が開かれた。とるだけの方法はもうとりつくしているのだ、いよいよ上奏のほかはあるまい、と谷が切りだすと、一座がしいんとなった。上座にいた浅野侯爵がすぐ、
「では」。
と言いながら一座を見わたしたのである。
「自分が上奏して御中止をお願いすることに致そう」。
言葉がとぎれるとみんな同じように顔を見合せた。たった一つ残された頼みの綱がそのほかにないことはわかっているが、しかし、それだけに浅野侯爵を代表者として選ぶことにはかすかな不安があった。役に不足だというわけではないが、侯爵では、――という気もちは誰の心の底にもあったのであろう。だが、そうかといって浅野の面前でそれを言いきることのできないもどかしさが、何時の間にか沈鬱な空気を醸しだしたのである、すると谷が恭々しく礼をするような身構えをして浅野の顔を見あげた。「御好意はまことに結構には存じますが、――わざわざ侯爵を煩わすまでもなく」。
言葉が消えるようにとぎれると、
「私が参内いたしましょう」。
決然とした面もちを見せて言った。それでみんなはほっとした思いになったが、浅野が言いだしたときに黙っていて、谷が口を切ってから急に賛成するというわけにもゆかなかった。それがために座が一時白けたようになったが、谷と向い合って坐っていた三浦がそのとき慌てて坐りなおした。
「それよりも、おれが行こう、――おれに参内させてくれ」。
谷の表情がとげとげしくひきしまった。「だしぬけに君は何をいうか、――おれでは役に立たんというのか?」。
「そうじゃないよ、誤解しちゃいかん」。
「いや、誤解はせんが可笑しいじゃないか、身分から言えば君も子爵だし、おれも子爵だ、君が中将ならおれも中将だ、それをおれが行こうというのに、横合いから何だ」。
三浦はにやにやと笑いながら頭をかいた。
「そいつは君、ちょっとちがう、――此際君が行ったんじゃあ、宮内省で警戒して拝謁の手続をしないよ、殊に条約改正反対案につきという願書を出したんじゃ、到底受付けそうにもないぞ」。
「じゃあ、君ならいいのか?」。
「おれだって同じ願書を出したんじゃ同じことだろう、ところがおれには別の方法がある」。
「何じゃ、それは?」。
「そこだよ、――おれは君を出し抜こうなぞと思っとるんじゃない、資格は君とおれと変るところはないが、おれが行けば拝謁を許されるわけがある」。
「それは何じゃ?」。
「――おれは学習院長だ、忝くも皇太子の御教育を仰せつかっているぞ」。
三浦の声はかすかに顫えている。谷も、気を呑まれたようにきょとんと眼を瞠っていたが、急に、
「そいつは」。
と言いながら不安そうな声で言った。「三浦、たしかに君の考えどおりだが、しかし、――もう一度考え直した方がいい」。
俯向いていた三浦が顔をあげた。
「考え直す余地はない、黒田と大隈が内閣にがんばっているかぎり、やるところまでやることは眼に見えている。大隈の息の根を止めない以上は御前会議を開いてもあいつはきっとがんばりとおすだろう、そうだとしたら、どんな非難を受けても上奏するよりほかに道はない」。
「うん」といったまま谷は黙ってしまった。三浦は咽喉にかすれるような低い声で、
「だから、――」。
ぐっと息を呑んだのである。「おれはもう覚悟をしている、――三浦にとってもこれが最後の御奉公になるじゃろう」。
一座が粛然としずまりかえった。ぽつりぽつりと話す頭山の言葉にじっと耳を澄ましながら、来島は空腹に沁みわたるような牛鍋の焦げつくにおいをじっと噛みころしていた。