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「今日、来なかったかしら、多吉は?」
「じゃあ会わないんだね、――夕方かえった筈なんだが」
「夕方?」
丈吉の眼が嶮しくつりあがった。「何をしてるんだろう、困っちまうな、――あいつは家のことだけを心配してるんだから、それはそれでいいんだけれど」
前の晩にも多吉は「うなぎ屋」の店で一杯やっているうちに別のテーブルで飲んでいた仕立屋の職人とこんどの事件のことがきっかけで喧嘩をはじめ、「表へ出ろ!」と威勢よく怒鳴って大見得を切ったまではよかったが、表へ出るとすぐにしたたかうちのめされてそのまま路上にへたばってしまったというのである。
「とにかく軽率すぎますよ、あいつはもう自分の一生涯が終ったような気もちでいるんですからね、――もう少し落ちついたらいいと思うんだけれど」
丈吉はヒステリカルな調子でだしぬけに笑いながら、
「とにかく最初の日の威勢のよさったら大へんなものですよ、近所に住んでいる自動車の運転手をうまくだまして、一日じゅう危険区域を乗り廻していたんだそうですからね、運転手もまた妙なやつで、多吉といっしょにいさえすれば何かいいことがあると思ったんですね、到頭二日目の午後になってから大損をしたといってさわぎだしたというんですが」
「なるほどね」
伍一の眼には皺くちゃのニコニコ絣を着た多吉が勝手放題な法螺を吹きちらしながら自動車の中にふんぞりかえっている恰好までがありありと見えるようであった。その日ぐらしの運転手が「ことによったら」と思うのももっともであったが、しかしこのどさくさの中で望み得べくもない奇蹟を夢みてうろついている人間が、いよいよ駄目だという見当がつくと急に自分の姿に立ちかえるときのおどろきが彼の頭に笑い去ることのできない幻影となって残るのであった。二、三本の酒で急に調子づいてきた丈吉は伍一と同じ部屋で枕をならべて横になってからでも、かすかな寝息を立てたと思うと急にゲラゲラと笑いだしたり、しばらく経つと落ちついた声で外廓的な政治団体についてこまごまとはなしだしたかと思うと、途中で言葉を途切らせ、「やっぱり自首すべきじゃない」なぞとひとりごとを言ったりしていたが、となりの人声で眼をさました四つになるマユミが眠っている母の腕をすべりぬけてむくむくと床を這いだし、「おじちゃん!」と呼びながら襖をあけて入ってくると、
「ああ、――」
と、丈吉は感傷的な瞳をかがやかしながら蒲団の上へ起きなおって、マユミを膝の上へしっかりと抱きあげた。「ああいいな、いい子、どうしたの、――今夜はおじちゃんとねんねしようね」
彼は自分の背中を狭苦しい蒲団のそとへはみ出すようにしてマユミの寝る場所をつくってやり、きょとんとしている子供の顔を長いあいだ見つめていた。しかし、この感傷的な場面さえも伍一の頭の中では何時の間にか戯画化されたかたちに変っている。――哀愁が彼の胸の底を足早に通りすぎる陽ざしのようにかすめ去ったことも事実ではあるが、それがために丈吉の感傷に調子を合せようという気もちにはならず、胸をわくわくさせるような幻影の一掃されてしまったあとの寒々とした感情だけが堪えがたきもの、忍びがたきものの中につづいてきた自分の生活を思い出させるのであった。それはやがて、彼の頭の中で蒼ざめた青年将校たちの顔になり、うすぼやけた黄昏の空気をゆすぶってひびいてくるラッパの音になり、希望でもなければ絶望でもないあらゆる悲惨な事実を歴史のひと閃きの中で見失ってしまう宿命的なたよりなさに変ってきた。すると事件は何一つ終ったのではなく、あとからあとから起ってくるということにまだ堪えてゆかれそうな自分が始末に負えない人間のようにも思われてくるのであった。
*
丈吉が大阪にいる友人をたずねて東京を逃げ落ちる決心をしたのはあくる日の朝だった。玄関で前かがみになって靴の紐を結んでいる丈吉のうしろから、伍一が「駅まで送ってゆこうか?」と声をかけると彼は慌てて立ちあがり、
「いいんですよ、――そんなことをされたんじゃあ」
と、言いかけてから、障子のかげから顔を出してきゃっきゃっとさわいでいるマユミを見るとこみあげてくる気もちを微笑にまぎらし、
「いい子だね、――待っているんだよ、今におじちゃんがおみやをどっさり持ってかえってくるからね」
肩をおさえようとして伸ばした手をマユミは無心な素振りでそっと外らしながら障子のかげにかくれたが、丈吉は上から見おろしている伍一の顔に愛惜の思いをこめた視線を投げて、「御厄介ですが多吉のことだけよろしく」と急に紋切型の言葉で挨拶してから格子戸をあけると、マユミがぬっと顔をだし、
「おじちゃん」
と、疳高い声で呼びかけた。「おみやを忘れちゃ駄目よ」
すると丈吉は眼をしょぼしょぼとさせながら、
「さよなら、――ね、さよなら」
と、幾度となく会釈をして出ていった。雨になりそうな空模様で、木の根や垣根の下に氷りついている雪が埃をあびてうす黒い色に変っているのが急に伍一の胸に痛々しいかんじを唆った。その朝の新聞は事件の報道でうずまっていたが、青年の将校はNという大尉がひとり自決しただけであとは憲兵隊の手にひきわたされたという記事のすぐあとに民間の関係者で前の日の夕方までにつかまった人たちの名前が書きつらねてあった。伍一は急に丈吉を追窮する官憲の手がだんだんちかづいてくることをかんじ、その日の朝、登代が丈吉からあずかったという手帳をすぐ焼きすてるように登代に命じてからすぐ二階へあがったが、事件がようやく鎮まったあとであたらしい噂に湧きかえる街々のざわめきが頭ににじむようにひろがってきて机の前に坐ってみても仕事は少しも手につかなかった。階下では登代が女中に内密で丈吉の手帳を焼きすてる場所に困り狼狽した揚句、まだ火の燃え残っている煉炭風呂のかまどの中へ投げ入れたのでぶすぶすと音を立てて夕方まできな臭い紙のにおいを発散させながらくすぶっていた。多吉の家の前へ憲兵が一人と私服の刑事が二人張番をするようになったのはその日の午後だったが、家のものは近所へ用達しにゆくほかには禁足同様に外出を禁じられ訪問者は片っぱしから厳重に調べられた。四、五日経つと憲兵はいなくなって私服の刑事だけになったが、多吉は何時の間にか刑事たちとも親しくなり、彼もいっしょになって丈吉の行方をさがしているのであった。ある日の午後、こっそり伍一の家へやってきた。「このままにしてほうっておいたら何時までつづくかも知れませんよ、――それに丈ちゃんだって一生涯かくれているというわけにはゆかないんだから」
と、彼は家に残ったものの迷惑を考えないで勝手に逃げ廻っている丈吉に対する非難をまじえた言葉をもらしながら何とかして自首させる工夫はあるまいかと考えあぐんでいる様子だったが、伍一あてに届いた大阪の友人からの、「ニモツトドイタアンシンセヨ」という電報を見ると、急に悲壮な気もちになり、
「どうでしょう、――いっそのこと支那へでも逃げてしまったら」
と、ひとりごとを言ったりするのであったが、しかし、次第に追求が烈しくなるにつれてやっぱり丈吉に自首させるよりほかに仕方がないということに彼の一家の意見が一致してくると、多吉は、自分にも多少心あたりがあるからと、刑事をうまく説き伏せて伍一から旅費をうけとり一人で大阪へ立っていったが、二、三日経つと丈吉とつれだってかえってきた。
彼以外の民間関係者がことごとく挙げられたという新聞の報道がもう逃げ場所のなくなっていることを観念させたらしく、丈吉はその夜、伍一の家で別れの小宴をひらいたときにも、前とはがらりと変ったあかるい調子で逃亡中につくったという漢詩風の文章を読みあげたりして愉快そうにはしゃいでいた。やるだけのことをやったというかんじにやっと落ちついたらしく、ひと晩ぐっすり眠ってから、次の朝、多吉につれられてN署へ出頭していったが、多吉は夜になってかえってくると「バカにしていやがる」と忌まいましそうに顔をしかめてみせた。「まるで一杯喰わされたようなものですよ、丈ちゃんを迎えにゆく前に僕はあの刑事と約束をしていたんですがね、きっと君の署へ自首させるからというと顔色を変えて、是非そうしてくれというんです、そしたらこっちも礼を厚うして待遇するからというんで僕は意気揚々と乗込んだんですがね、ところが行ってみると僕等を待たせておいてからすぐ丈ちゃんを検束してしまったんです、だから僕が、それじゃあ君、話がちがうじゃないかと突込むと、いや順序としてこうやっておくだけですと言うんです」
「仕方がないさ」
と、伍一が無感動な声で答えた。その夜、久しぶりで訪ねてきた内狩と彼は二階の書斎でしばらく話していたが話が少しもはずまなかった。「考えてみるとあの二、三日は楽しかったな」と、げっそりした声でうすら笑いをもらす内狩の顔にみずみずしい青春のおとろえが目立ち退屈な生活の翳がながれていた。もう四月も終りにちかづいて、銀座裏の酒場では「まだおそくはない」という叛乱軍の兵士に呼びかけた師団長の言葉が女給の殺し文句に変ってひとしきり流行っていたが、情熱に彩られた青年たちの幻像はようやく民衆の記憶からうすれかけようとしていた。丈吉の取調は延びのびになって、憲兵隊に呼び出されたのは間もなく梅雨期に入ろうとする頃で、しかし、それも一応の形式を整えるだけのものにすぎなかった。一日で取調が終ると彼はそのまま元の留置場へつれ戻されたが、同じことが何べんとなくくりかえされているうちに病弱な彼の肉体はじりじりと衰ろえていった。はじめのあいだはときどき差入れにゆく多吉に、このつぎはうなぎ飯、そのつぎは天丼と好きな註文をならべていたが、外の形勢が変ってくるにつれてだんだん自由が許されなくなり、多吉が面会に行っても無駄足を踏むことが多く、五月も終りにちかづこうとしているのに憲兵隊からの呼出しは来なかった。何とかして都合をつけて一ぺんだけ会いに来てくれという丈吉の言葉を多吉が伍一につたえたのは七月のはじめであったが、それから二、三日経って伍一が多吉といっしょに出かけてゆくとすぐ高等視察室に通され、しばらく待っていると五ヶ月ぶりで見る丈吉が歩くのも大儀そうな足どりで入ってきた。彼は、しかし想像していたよりもずっと元気でマユミと同じ蒲団の中で眠ったことがどうしても忘れられないと言い、二、三日前も七つになる妹の夢を見て、「信子!」と大声でさけんだ声を看守が部長に報告したので、「信子」という女の存在について取調べられたというようなはなしをして寂しそうな微笑をうかべた。多吉が、持ってきたアイスクリームの缶をテーブルの上において、
「どうかね、一口」
と、すすめると、彼は横の席にいた刑事の方を向いて、「どうです、吉川君」と呼びかけた。垢のしみついたワイシャツの上からうすい褞袍を着ている男が窓にもたれていたが、狡るそうな眼でちらっとうしろを振りかえると黙って立ちあがり丈吉のすすめるアイスクリームをうまそうに頬ばった。丈吉はちらっと伍一の顔を見て、
「同志の本堂君です、――二人で同じ留置場にいるんでまだ助かるんですが」
と、ささやきかけると、やっと二十五、六に見える頬骨のとがった本堂が消えるようなうす笑いをうかべた。しかし、そのまま彼は元いた窓のそばの椅子に腰をおろし、正午ちかい夏の照りつける陽ざしに乾いた下の電車みちにじっと視線を落していた。電車線路のすぐ上は小高い丘になっていて、丘の上には高い銀杏の木がそびえ、右へだらだらにのびた崖の上には掘立小屋のような小さい家が雑然とならび、高い物干竿におしめの乾してあるのが見える。そのうしろには赤松の林がつづき、低い崖の下には丸い土管がつみかさねてある。その横にある小ぢんまりとした一軒家の竹垣がくずれて生活のにおいが何処からともなくながれてくるような一廓であった。丈吉の話によると本堂青年は宣伝用のパンフレットを印刷したことが祟ってあげられたのだという。
「兄弟二人とおっかさんとの三人ぐらしで、小さい印刷屋をやっていたのが兄弟二人ともやられているんです」