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海島冐檢奇譚 海底軍艦
押川春浪
はしがき
一。太平洋の波に浮べる、この船にも似たる我日本の國人は、今や徒らに、富士山の明麗なる風光にのみ恍惚たるべき時にはあらざるべし。
光譽ある桂の冠と、富と權力との優勝旗は、すでに陸を離れて、世界の海上に移されたり。
この冠を戴き、この優勝旗を握らむものは誰ぞ。
他なし、海の勇者なり。海の勇者は即ち世界の勇者たるべし。
一。天長節の佳日に際し
子爵 伊東海軍大將
肝付海軍少將
伯爵 吉井海軍少佐
子爵 小笠原海軍少佐
上村海軍少佐
各位の清福を賀※、つたなき本書のために、題字及び序文を賜はりし高意にむかつて、誠實なる感謝の意を表す。
一。上村海軍少佐の懇切なる教示と、嚴密なる校閲とを受けたるは、啻に著者の幸福のみにはあらず、讀者諸君若し此書によりて、幾分にても、海上の智識を得らるゝあらば、そは全く少佐の賜なり。
一。遙かに、獨京伯林なる、巖谷小波先生の健勝を祈る。
著者※るす
(海島冐檢奇譚)海底軍艦目次
第一回 海外の日本人
子ープルス港の奇遇――大商館――濱島武文――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
第二回 魔の日魔の刻
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
第三回 怪の船
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
第四回 反古の新聞
葉卷煙草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水兵――奇妙な新體詩――秘密の發明――二點鐘カーンカン
第五回 ピアノと拳鬪
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の閉口――曲馬師の虎
第六回 星火榴彈
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な――三個の舷燈――船幽靈め――其眼が怪しい
第七回 印度洋の海賊船
水雷驅逐艦か巡洋艦か――往昔の海賊と今の海賊――潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
第八回 人間の運命
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
第九回 大海原の小端艇
亞尼の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
第十回 沙魚の水葬
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや/\變な味になりました――またも斷食
第十一回 無人島の響
人の住む島か魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱はした――海軍士官の顏
第十二回 海軍の家
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
第十三回 星影がちら/\
歡迎――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか/\面白いよ――三年の後
第十四回 海底の造船所
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻――秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
第十五回 電光艇
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
第十六回 朝日島
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の紀念塔――成程妙案々々――其處だよ
第十七回 冐險鐵車
自動の器械――斬頭刄形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ帝國の萬歳を唱へませう
第十八回 野球競技
九種の魔球――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
第十九回 猛獸隊
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ/\の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
第二十回 猛犬の使者
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
第二十一回 空中の救ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
第二十二回 海の禍
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
第二十三回 十二の樽
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
第二十四回 輕氣球の飛行
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く/\
第二十五回 白色巡洋艦
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの船は!
第二十六回 顏と顏と顏
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
第二十七回 艦長室
鼻髯を捻つた――夢ではありますまいか――私は何より嬉しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
第二十八回 紀念軍艦
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間の萬事は天意の儘です
第二十九回 薩摩琵琶
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
第三十回 月夜の大海戰
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗大軍刀をブン/\と振廻した――大佐來! 電光艇來!―朝日輝く印度洋
目次終
第一回 海外の日本人
ネープルス港の奇遇――大商館――濱島武文――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
私が世界漫遊の目的をもつて、横濱の港を出帆したのは、既に六年以前の事で、はじめ亞米利加に渡り、それから大西洋の荒浪を横斷つて歐羅巴に遊び、英吉利、佛蘭西、獨逸等音に名高き國々の名所古跡を遍歴して、其間に月を閲すること二十有餘箇月、大約一萬五千里の長途を後にして、終に伊太利に入り、往昔から美術國の光譽高き、其さま/″\の奇觀をも足る程眺めたれば、之より我が懷かしき日本へ歸らんと、當夜十一時半拔錨の弦月丸とて、東洋行の船に乘組まんがため、國の名港ネープルスまで來たのは、今から丁度四年前、季節は櫻散る五月中旬の或晴朗な日の正午時分であつた。
市街はづれの停車塲から客待の馬車で、海岸附近の或旅亭に着き、部室も定まり軈て晝餉もすむと最早何も爲る事がない、船の出港までは未だ十時間以上。長い旅行を行つた諸君はお察しでもあらうが、知る人もなき異境の地で、車や船の出發を待ち暮すほど徒然ぬものはない、立つて見つ、居て見つ、新聞や雜誌等を繰廣げて見たが何も手に着かない、寧そ晝寢せんか、市街でも散歩せんかと、思案とり/″\窓に倚つて眺めると、眼下に瞰おろす子ープルス灣、鏡のやうな海面に泛んで、出る船、入る船停泊つて居る船、其船々の甲板の模樣や、檣上に飜る旗章や、また彼方の波止塲から此方へかけて奇妙な風の商舘の屋根などを眺め廻しつゝ、たゞ譯もなく考想へて居る内にふと思ひ浮んだ一事がある。それは濱島武文といふ人の事で。
濱島武文とは私がまだ高等學校に居つた時分、左樣かれこれ十二三年も前の事であるが、同じ學びの友であつた。彼は私よりは四つ五つの年長者で、從て級も異つて居つたので、始終交るでもなかつたが、其頃校内で運動の妙手なのと無暗に冐險的旅行の嗜好なのとで、彼と私とは指を折られ、從て何ゆゑとなく睦ましく離れがたく思はれたが、其後彼は學校を卒業して、元來ならば大學に入る可きを、他に大望ありと稱して、幾何もなく日本を去り、はじめは支那に遊び、それから歐洲を渡つて、六七年以前の事、或人が佛京巴里の大博覽會で、彼に面會したとまでは明瞭だが、私も南船北馬の身の其後の詳なる消息を耳にせず、たゞ風のたよりに、此頃では、伊太利のさる繁華なる港に宏大な商會を立てゝ、專ら貿易事業に身を委ねて居る由、おぼろながらに傳へ聞くのみ。
伊太利の繁華なる港といへば、此處は國中隨一の名港子ープルス、埠頭から海岸通りへかけて商館の數も幾百千、もしや濱島は此港で、其商會とやらを營んで居るのではあるまいかと思ひ浮んだので、實に雲を掴むやうな話だが、萬が一もと旅亭の主人を呼んで聽いて見ると、果然! 主人は私の問を終まで言はせず、ポンと禿頭を叩いて、
『オヽ、濱島さん よく存じて居ますよ、雇人が一千人もあつて、支店の數も十の指――ホー、其お宅ですか、それは斯う行つて、あゝ行つて。』と口と手眞似で窓から首を突出して
『あれ/\、あそこに見へる宏壯な三階の家!』
天外萬里の異邦では、初對面の人でも、同じ山河の生れと聞けば懷かしきに、まして昔馴染の其人が、現在此地にありと聞いては矢も楯も堪らない、私は直ぐと身仕度を整へて旅亭を出た。
旅亭の禿頭に教へられた樣に、人馬の徃來繁き街道を西へ/\と凡そ四五町、唯ある十字街を左へ曲つて、三軒目の立派な煉瓦造りの一構、門に T. Hamashima, と記してあるのは此處と案内を乞ふと、直ぐ見晴しのよい一室に通されて、待つ程もなく靴音高く入つて來たのはまさしく濱島! 十年相見ぬ間に彼には立派な八字髯も生へ、其風采も餘程變つて居るが相變らず洒々落々の男『ヤァ、柳川君か、これは珍らしい、珍らしい。』と下にも置かぬ待遇、私は心からしかつたよ。髯は生へても友達同士の間は無邪氣なもので、いろ/\の話の間には、昔倶に山野に獵暮して、※て農家の家鴨を射殺して、辛き目に出逢つた話や、春季の大運動會に、彼と私とはおの/\級の撰手となつて、必死に優勝旗を爭つた事や、其他さま/″\の懷舊談も出て、時の移るのも知らなかつたが、ふと氣付くと、當家の模樣が何となく忙がし相で、四邊の部室では甲乙の語り合ふ聲喧しく、廊下を走る人の足音もたゞならず速い、濱島は昔から極く沈着な人で、何事にも平然と構へて居るから夫とは分らぬが、今珈琲を運んで來た小間使の顏にも其忙がしさが見へるので、若しや、今日は不時の混雜中ではあるまいかと氣付いたから、私は急に顏を上げ
『何かお急がしいのではありませんか。』と問ひかけた。
『イヤ、イヤ、决して御心配なく。』と彼は此時珈琲を一口飮んだが、悠々と鼻髯を捻りながら
『何ね、實は旅立つ者があるので。』
オヤ、何人が何處へと、私が問はんとするより先に彼は口を開いた。
『時に柳川君、君は當分此港に御滯在でせうねえ、それから、西班牙の方へでもお廻りですか、それとも、更に歩を進めて、亞弗利加探險とでもお出掛けですか。』
『アハヽヽヽ。』と私は頭を掻いた。
『つい昔話の面白さに申遲れたが、實は早急なのですよ、今夜十一時半の船で日本へ皈る一方なんです。』
『えい、君も?。』と彼は眼を見張つて。
『矢張今夜十一時半出帆の弦月丸で?。』
『左樣、殘念ながら、西班牙や、亞弗利加の方は今度は斷念しました。』と、私がキツパリと答へると、彼はポンと膝を叩いて
『やあ、奇妙々々。』
何が奇妙なのだと私の審る顏を眺めつゝ、彼は言をつゞけた。
『何んと奇妙ではありませんか、これ等が天の紹介とでも云ふものでせう、實は私の妻子も、今夜の弦月丸で日本へ皈國ますので。』
『え、君の細君と御子息』と私は意外に※んだ。十年も相見ぬ間に、彼に妻子の出來た事は何も不思議はないが、實は今の今まで知らなんだ、况んや其人が今本國へ皈るなどゝは全く寢耳に水だ。
濱島は聲高く笑つて
『はゝゝゝゝ。君はまだ私の妻子を御存じなかつたのでしたね。これは失敬々々。』と急はしく呼鈴を鳴らして、入來つた小間使に