Chapter 1 of 3

第一章 明治

マニラをバギオに結ぶベンゲット道路のうち、ダグバン・バギオ山頂間八十キロの開鑿(さく)は、工事監督のケノン少佐が開通式と同時に将軍になったというくらいの難工事であった。

人夫たちはベンゲット山腹五千フィートの絶壁をジグザグによじ登りながら作業しなければならず、スコールが来ると忽ち山崩れや地滑りが起って、谷底の岩の上へ家守のようにたたき潰された。風土病の危険はもちろんである。

起工後足掛け三年目の明治三十五年の七月に、七十万ドルの予算をすっかり使い果してなお工事の見込みが立たぬいいわけめいて、

「……山腹は頗る傾斜が急で、おまけに巨巌はわだかまり、大樹が茂って、時には数百メートルも下って工事の基礎地点を発見しなければならない。しかも、そうした場所にひとたび鶴嘴を入れるや、必らず上部に地滑りが起り、しだいに亀裂を生じて、ついにはこれが数千メートルにも及ぶ始末である……」

もって工事の至難さを知るべしという技師長の報告が、米本国の議会へ送られた時には、土民の比律賓(フィリッピン)人をはじめ、米人・支那人・露西亜人・西班牙(スペイン)人等人種を問わず狩り集められていた千二百名の人夫は、五メートルの工事に平均一人ずつの死人が出るという惨状におどろいて、一人残らず逃げだしてしまっていた。

けれど、本国政府は諦めなかった。熱帯地にめずらしく冬は霜を見るというくらい涼しいバギオに避暑都市を開いて、兵舎を建築する計画の附帯事業として、ベンゲット道路の開鑿は、比島領有後の合衆国の施政に欠くことの出来ないものであった。

工事監督が更迭して、百万ドルの予算が追加された。新任のケノン少佐はさすがにこれらの人種の恃むに足らぬのを悟ったのか、マニラの日本領事館を訪問して、邦人労働者の供給を請うた。邦人移民排斥の法律を枉げてまでそうしたのは、カリフォルニヤを開拓した日本人の忍耐と努力を知っていたからであろうか。日本は清国との戦いにも勝っていた……。

領事代理の岩谷書記は神戸渡航合資会社の稲葉卯三郎をケノン少佐に推薦した。稲葉卯三郎が通訳長尾房之助を帯同、政庁を訪れると、ケノン少佐は移民法に接触してはならぬからと口頭契約で、人夫九百名、石工千名、人夫頭二十名、通訳二名、合計千九百二十二名の労働者の供給を申込んだ。

日給は道路人夫一ペソ二十五セント、石工二ペソ、人夫頭二ペソ五十セント、通訳は月給で百八十ペソと百ペソ、労働時間は十時間、食事及び宿舎は官費で病気の者は官営病院で無料治療、なおマニラ・ダグバン間の鉄道運賃は政府負担という申し分のない条件であった。

第一回の移民船香港丸が百二十五名の労働者を乗せて、マニラに入港したのは明治三十六年十月十六日であった。

股引、腹掛、脚絆に草鞋ばき、ねじ鉢巻きの者もいて、焼けだされたような薄汚い不気味な恰好で上陸した姿を見て、白人や比律賓人は何かぎょっとし、比人労働組合は同志を糾合して排斥運動をはじめ、英字新聞も日清戦争の勇士が比律賓占領に上陸したと書き立てた。

それを知ってか知らずにか、百二十五名の移民はマニラで二日休養ののち、がたがたの軽便鉄道でダグバンまで行き、そこから徒歩でベンゲットの山道へ向った。

まず牛車(カルトン)を雇って荷物を積み込み、そして道なき山を分け進んだが、もとより旅館はなく日が暮れると、ごろりと野宿して避難民めいた。

鍋釜が無いゆえ、飯は炊けず、持って来たパンはおおかた蟻に食い荒されておまけにひどい蚊だ。

そんな苦労を二晩つづけて、やっと工事の現場へたどり着いて見ると、断崖が鼻すれすれに迫り、下はもちろん谷底で、雲がかかり、時にはぐらぐらした岩を足場に作業して貰わねばならぬと言う。

ただでさえ異郷の、こんなところで働くのかと、船の中ではあらくれで通っていた連中も、あっと息をのんだが、けれど今更日本へ引きかえせない。旅費もなかった。

石に噛りついてとはこの事だと、やがて彼等は綱でからだを縛って、絶壁を下りて行った。

そして、中腹の岩に穴をうがち、爆薬を仕掛けるのだ。点火と同時に、綱をたぐって急いで攀じ登る。とたんに爆音が耳に割れて、岩石が飛び散り、もう和歌山県出身の村上音造はじめ五人が死んでいた。

間もなくの山崩れには、十三人が一度に生き埋めになった。

十一月にはコレラで八人とられた。

死体の見つかったものは、穴を掘って埋めたが、時には手間をはぶいて四五人いっしょに一つの穴へ埋めるというありさまであった。

坊主も宣教師も居らず、線香もなく、小石を立てて墓石代りの目じるしにし、黙祷するだけという簡単な葬式であった。ひとつには、毎日の葬式をいちいち念入りにやっていては、工事をするひまが無くなるためでもあったろう。それ程ひんぱんに死人が出た。

そんな風にだんだんに人数が減って行き、心細い日が続いたが、やがて第二回、第三回……と引き続いて移民船が来て、三十六年中には六百四十八名が、三十七年中にはほぼ千二百名がマニラへ上陸し、マニラ鉄道会社やマランガス・バタアン等の炭坑へ雇われた少数を除き、日給一ペソ二十五セントという宣伝に惹かれて殆んど全部ベンゲットへ送られて来た。内地では食事自弁で、五六十銭が精一杯だった。一ペソは一円に当る。しかも、ベンゲットでは食事、宿舎、医薬はすべて官費だということだ。

けれど、来て見ると、宿舎というのは、竹の柱に草葺の屋根で、土間には一枚の敷物もなく、丸竹の棚を並べて、それが寝台だ。蒲団もなく、まるで豚小屋であった。

食物もひどかった。

虫の喰滓のような比島米で、おまけに鍋も釜もないゆえ、石油鑵で炊くのだが、底がこげついても、上の方は生米のまま、一日一人当り一ポンド四分ノ三という約束の量も疑わしい。

副食物は牛肉又は豚肉半斤、魚肉半斤、玉葱又はその他の野菜若干量という約束のところを、二三尾の小鰯に、十日に一度、茄子が添えられるだけであった。

たちまち栄養不良に陥ったが、おまけに雨期になると、早朝から濡れ鼠のまま十時間働いてくたくたに疲れたからだで、着がえもせず死んだようになって丸竹の寝台に横たわり、一晩中蚊に食われているという状態ゆえ、脚気で斃れる者が絶えなかった。

三十七年の七、八、九の三ヵ月間に脚気のために死んだ者が九十三人であった。平均一日に一人の割合である。なお、マラリヤ、コレラ、赤痢で死ぬ者も無論多かった。

契約どおり病院はあった。が、医療設備など何ひとつなく、ただキナエンだけは豊富にあると見えて、赤痢にもキナエンを服まされた。なお、病院で食べさせられる粥は米虫の死骸で小豆粥のように見えるというありさま故、入院患者は減り、病死者がふえる一方であった。

すべては約束とちがっていたのだ。

こんな筈ではなかったと、鶴田組の三百名はとうとう人夫頭といっしょに山を下ってしまった。

そうしたものの、しかし雇われるところといってはマラバト・ナバトの兵営建築工事か、キャビテ軍港の石炭揚げよりほかになく、日給はわずかに八十セントで、うち三十五セントの食費を差し引かれるようではお話にならず、また、比律賓人の空家にはいりこんで自炊しながらの煎餅売りも乞食めく。

良い思案はないものかと評定していると、関西移民組合から派遣されて来たという佐渡島他吉が、

「言うちゃなんやけど、今日まで生命があったのは、こら神さんのお蔭や。こないだの山崩れでころッと死てしもたもんやおもて、もういっぺんベンゲットへ戻ろやないか。ここで逃げだしてしもてやな、工事が失敗(すかたん)になって見イ、死んだ連中が浮かばれへんやないか。わいらは正真正銘の日本人やぜ」

と、大阪弁で言った。すると、

「そうとものし、俺(うら)らはアメジカ人やヘリピン人や、ドシア人の出来なかった工事(こうり)を、立派(じっぱ)にやって見せちやるんじゃ。俺(うら)らがマジダへ着いた時、がやがや排斥さらしよった奴らへ、お主(んし)やらこの工事(こうり)が出来るかと、いっぺん言うて見ちやらな、日本人であらいでよ」

と、言う者が出て、そして、あとサノサ節で、

「一つには、光りかがやく日本国、日本の光を増さんぞと、万里荒浪ね、いといなく、マニラ国へとおもむいた」

と、唄いだすと、もう誰もベンゲットへ帰ることに反対しなかった。

そうして、元通り工事は続けられたが、斃れた者を犬死ににしないために働くという鶴田組の気持は、たちまち他の組にも響いて、何か殺気だった空気がしんと張られた。

屍を埋めて日が暮れ、とぼとぼ小屋に戻って行く道は暗く、しぜん気持も滅入ったが、まず今日いちにちは命を拾ったという想いに夜が明けると、もう仇討に出る気持めいてつよく黙々と、鶴嘴を肩にした。

鉛のように、誰も笑わず、意地だけで或る者は生き、そして或る者は死んだ。

三十七年の十月の或る夜、暴風雨が来て、バギオとは西班牙(スペイン)語で暴風のことだと想いだした途端に、小屋が吹き飛ばされ、道路は崩れて、橋も流された。それでも腑抜けず、ぶるぶるふるえながら夜を明かすと、死骸を埋めた足で早速工事場へ濡れ鼠の姿を、首垂れて現わした。

マニラのキャッポ区に雑貨商を出している太田恭三郎が、アメリカ当局と交渉して、ベンゲット移民への食料品納入を請負い、味噌、醤油、沢庵、梅干などを送って来てくれたのは、そんな時だった。

全長二十一マイル三十五のベンゲット道路が開通したのは、香港丸がマニラへ入港してから一年四ヵ月目の明治三十八年一月二十九日であった。

千五百名の邦人労働者のうち六百名を超える犠牲者があったと、開通式の日に生き残った者は全部泣き、白人・比律賓人・支那人たちが三年の日数と七十万ドルの金を使ってもなお一キロの開鑿も出来なかった難工事を、われわれ日本人の手で成しとげたのだという誇りはあっても、喜びはなかった。

おまけに工事が終ると、翌日からひとり残らず失業者で、なんとかしてくれと泣きつくには、アメリカ当局はあまりに冷淡であった。山を下り、マニラの日本人経営の旅館でごろごろしているうちに、儲けた金も全部使い果して、帰国するにも旅費はなく、うらぶれた恰好で、マニラの町をぞろぞろうろうろしているのを、見兼ねて、

「皆んな、ダバオの麻山へ働きに行け!」

太田恭三郎はすすめたが、ダバオはモロ族やバゴボ族以外に住む者のないおそろしい蛮地で、おまけにマラリヤのたちの悪さはベンゲット以上で、医者もいない。ダバオの麻山からベンゲット道路工事の方へ逃げだして来た者もあるくらいだ、そんなところへ誰が命を捨てに行くものかと、誰ひとり応じようとしなかったのを、日本人の医者も連れて行く、味噌も野菜も送ってやる、わるいようには計らぬ故、おれに任せろと太田は説き伏せた。

「このまま餓死すると思えば、ダバオも極楽だぞ」

言われてみると、なるほど背に腹はかえられず、やがてマニラからぼろ汽船で二十日近く掛ってダバオにつき、遠くの森から聴えて来るバゴボ族の不気味なアゴンの音に肝をひやしながら、やがて麻山で働きだし、暫らくすると、バギオにサンマー・キャピタル(夏の都)がつくられて、ベンゲット道路がダンスに通う米人たちのドライヴ・ウェーに利用されだしたという噂が耳にはいった。

そんな目的でおれたちの血と汗を絞りとっていたのかと、皆んなは転げまわって口惜しがり、工事が済むといきなりおっぽり出されたことへの怒りも砂を噛む想いで、じりじり来たが、とりわけ佐渡島他吉はいきなり血相をかえて、ダバオを発って行き、何思ったのかマニラの入墨屋山本権四郎の所へ飛び込んだ。

そうして、背中いっぱいに青龍をあばれさせた勢いで、マニラじゅうへ凄みを利かせ、米人を見ると、

「こらッ。ベンゲット道路には六百人という人間の血が流れてるんやぞオ。うかうかダンスさらしに通りやがって見イ。自動車のタイヤがパンクするさかい、要心せエよ。帰りがけには、こんなお化けがヒュードロドロと出るさかい、眼エまわすな。いっぺん、頭からガブッと噛んでこましたろか」

と、あやしい手つきでお化けの恰好をして見せた途端に、いきなり相手の横面を往復なぐりつけた。

「文句があるなら、いつでも来い。わいはベンゲットの他(た)あやんや」

それで、いつか「ベンゲットの他あやん」と綽名がつき、たちまち顔を売ったが、そのため敬遠されて、やがて僅かな貯えを資本にはじめたモンゴ屋(金時氷や清涼飲料の売店)ははやらなかった。

国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。

神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。

給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。

その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、

「いま、帰ったぜ」

しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。

不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると、

「誰方――?」

ぬっと軒口(かどぐち)から顔を出した者がある。

「よう〆さんか?」

相変らずでっぷりして、平目のような頬ぶくれした顔は、六年会わぬが、隣家に住んでいる〆団治だと、一眼でわかった。

「なんや、おまはんやったんか。今時分人の家へ留守中にはいって、何やらごそごそしてるさかい、こらてっきり泥的やと思たがな……」

前座ばかり勤めているが、さすがに落語家で、〆団治のものの言い方は高座の調子がまじっていて、他吉は大阪へ帰って来たという想いが強く来た。

「――しかし、他あさん、よう帰って来たな。いったいいつ帰って来てん? 言や言うもんの、お前、もう足掛け六年やで」

「いま帰ったとこや」

他吉はちょっと固垂をのみ、

「――ところで、皆どこイ行きよってんやろ。影も形も見えんがな」

夜逃げでもしたのではないかという顔で、訊くと、

「声はすれども、姿は見えぬ、ほんにお前は屁のような……」

〆団治はうたうように言って、

「――今日はお午(うま)の夜店やさかい、そこイ行ったはんネやろ」

「さよか。――」

他吉はああ、よかったと、ほっとしたが、急に唇をとがらせて、

「このくそ寒いのに、夜店みたいなもん、見に行かんでもええのに……。子供が風邪ひいたらどないすんねん。ほんまに、うちのかかはど阿呆やぜ」

そう言うと、〆団治は、なにを莫迦なこと言うてんねん、他あやんよう聴きやと、一喋り喋る弾んだ口つきになって、

「お鶴はんが、何の夜店見物に行くひとかいな。お鶴はんはな、お初つぁんと一緒に夜店へ七味(なないろ)唐辛子を売りに行ったはるねんぜ」

「えっ? ほな、なにか。夜店出ししとんのんか」

他吉は毛虫を噛んだような顔をした。

「さいな。おまはんがヘリピンとかルソンとか行ったはええとして、ちっとも金は送っては来んし……」

「送ったぜ」

「はじめの二三年やろ? あとはお前鐚一文送って来ん、あとに残った二人がどないして食べて行けるねん? 夜店出しなとせんと、餓死してしまうやないか。ほんにお前は薄情な亭主やぜ。お鶴はんは築港に二階つきの電車が走っても、見に行きもせんと、昼は爪楊子の内職をして、夜はお前、夜店へ出て、うちのくそ親爺め言うて、ぽろぽろ涙こぼしこぼし、七味混ぜたはんねんぜ」

いかにもそれらしい表情で、七味唐辛子を混ぜる恰好をして見せた〆団治の手つきを見るなり、他吉は胸が熱くなり、寒い風が白く走っている戸外へ飛び出した。

谷町九丁目の坂を駈け降りて、千日前の裏通りに出ているお午の夜店へ行くと、お鶴が存外小綺麗な店にちょこんと坐って、ガラス箱の蓋を立てかけた中に前掛けをまいた膝を見せ、赤切れした手で七味を混ぜていた。娘の初枝は白い瀬戸火鉢をかかえて、まばらな人通りを、きょとんと見あげていた。

物も言わずにしょんぼり前に立った。

「おいでやす」

言って見上げて、お鶴は他吉だとすぐ判ったらしく、

「阿呆んだら!」

「御機嫌さん。達者か」

他人にもの言うような口を利くと、もう一度、

「阿呆んだら!」

お鶴は泣いていた。

それが六年振りの夫婦の挨拶であった。初枝は父親の顔を忘れているらしかった。水洟を鼻の下にこちこちに固めて、十一歳よりは下に見えた。

「あんた、なんぜ、手紙くれへんかってん。帰るなら帰ると……」

お鶴の髪の毛は、油気もなくばさばさと乱れて、唐辛子の粉がくっついていた。

唐辛子の刺戟がぷんと鼻に眼に来て、他吉は眼をうるませた。

「出せ言うたカテ、出せるかいな。わいに字が書けんのは、お前かてよう知ってるやろ。亭主に恥かかすな」

他吉はわざと怒ったような声で言い、

「――しかし、大阪は寒いな」

と、初枝のかかえている火鉢の傍へ寄った。

翌日から、他吉がひとりで夜店へ出て、七味唐辛子の店を張った。

場割りの親方が、他吉を新米だと思ってか、

「唐辛子はバナナ敲きの西隣りや」

と、いちばんわるい場所をあてがうと、他吉はいきなり「ベンゲットの他あやん」の凄みを利かせて、良い場所へ振りかえて貰ったが、

「ああ、七味や、七味や、辛い七味やぜ、ああ、日本勝った、日本勝った、ロシヤ負けた。ああ、七味や、七味や!」

普通爺さん婆さんがひっそりと女相手に売っている七味屋に似合わぬ、割れ鐘のような掛け声をだしたので、客は落ち着いて、七味の調合にこのみの注文をつけることも出来ず、自然客足は遠ざかった。

招き猫の人形みたいに、ちょこんと台の上に坐って、背中を猫背にまるめてごしごし七味を混ぜていると、いっぺんに精が抜けてしまい、他吉はベンゲットのはげしい労働がかえってなつかしく、人間はからだを責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうという想いが、背中の青龍へじりじり来て、いたたまれず、むやみに赤いところを多くして、あっと顔をしかめるような辛い七味を竹筒に入れていたが、間もなく七味屋を廃してしまった。

「あんた、またヘリピンへ行く積りとちがうか」

お鶴は気が気でなかったが、さすがに帰った早々、二人を見捨てて日本を離れることも出来ず、神戸で三月いた間にためて置いた金をはたいて、人力車の古手を一台購い、残ったからだ一つを資本に、長袖の法被(はっぴ)のかわりに年中マニラ麻の白い背広の上着を羽織った異様な風態で俥をひいて出て「ベンゲットの他吉」の綽名はここでも似合った。

二年経った夏、お鶴は冷え込みで死んだ。

他吉の留守中、まる四年夜店出しをしていた間にぬれた夜露が女の身にさわったのかと、博覧会も見ず、二階つき電車がどこを走っているかも知らなかったということもなにか不憫で、他吉は男泣いたが、死んで行くお鶴はその愚痴はいわず、ただ、

「初枝の身がかたづくまで、あんたもベンゲットの他あやんや言われて、ええ気になって、売り出したり、うかうかよその国へ行ってしまわんようにしなはれや。大体、あんたは昔からおっちょこちょいやさかい、気イつけて、阿呆な真似をしなはんなや」

西日のかんかん射し込む奥の四畳半に敷いた床の上で、蚊細い声の意見をして、息絶えた。

夏になると、しきりに比律賓への郷愁にかり立てられる他吉の腹の虫を、お鶴は見抜いていたのだろうか。

お鶴の死に足止めされて、八年が経った。

一日何里俥をひいて走っても、狭い大阪の町を出ることは出来ないと、築港へ客を送るたび、銅羅の音に胸をどきどきさせているうちに、もう娘の初枝は二十一歳であった。

節分の日、もうその歳ではいくらか気がさす桃割れに結って、源聖寺坂の上を、初枝が近所の桶屋の職人の新太郎というのと、肩を並べて歩いている姿を、他吉は見つけた。

すぐ寺の境内に連れ込み、新太郎の横面を殴りつけた勢いで、初枝の顔にも手が行ったが、折角の髪をつぶしてはと、この方はさすがに力を抜いて、他吉の眼がさきに火が出るくらい、情けなかった。

こんな不仕鱈(ふしだら)な女をひとり放って置いて、比律賓へ行ってしまえば、どうなっていたことかと、他吉はひやっとしたが、間もなく行われた町内のマラソン競争で桶屋の新太郎は一等をとった。

新太郎は少年団の世話役で、毎夜子供たちを集めて、生国魂(いくだま)神社の裏の空地でラッパを教え、彼の吹くラッパの音は十町響いて、銭湯で冬も水を十杯あびるのは、他吉のほかは町内で新太郎ただひとりであった。なお、銭湯の帰り、うどん屋でラムネ一杯のまず、存外律儀者であった。

マラソン競争のあった翌日、他吉はれいの上着のポケットに、季節はずれの扇子を入れて、桶屋の主人を訪れ、

「早速やが……」

と、新太郎を初枝の婿にする話を交渉した。

「さあ、わいには異存はないけど、新太郎の奴がどない言いよりまっしゃろか」

桶屋の主人が言うと、

「どないも、こないも、あんた、おまはんやわいの知らん間にあいつらもうちゃんと好いた同志になっとりまんねんぜ。阿呆らしい。ほんまに、こんな、じゃらじゃらした話おまっかいな」

他吉はぷりぷりしたが、しかし、新太郎の身体の良いところを見込んでの話だと、万更でも無い顔つきだった。

新太郎の年期ももうとっくに済んでいたので、話はすぐ纒った。

やがて、新太郎は玉造で桶屋を開業したが見込んだ通り、働き者で、夫婦仲のよいのは勿論である。

他吉はやれやれと思い、河童路地(がたろろじ)の朝夕急にそわそわしだした。

が、新太郎が開業する時に借りた金は、未だすっかり済んでいない。比律賓へ行くのはもうすこしの辛抱だと、じっと腹の虫を圧えている内、新太郎の家の隣りから火が出て、開業早々丸焼けになった。

焼け出されて、新太郎は一時河童路地の他吉の家へうつって来たが、げっそりして、頭から蒲団をかぶって、まるで暖簾に凭れて麩噛んだような精のない顔をしていた。

もう一度、立ち直って、桶屋をはじめる気もないらしく、また、職を探しに歩こうともしなかった。

ぶつぶつ何やら呟いているのを聴けば、開業資金に借りた金の残額を、おろおろ勘定しているのだった。

「阿呆んだらめ!」

他吉は叱りつけて、

「家の中でごろごろして借金がかえせる思てるのか。いったい、これからどないする気や。もちっと、はんなりしなはれ」

「さあ、どないしたらええやろ。もう、こうなったら、冷やし飴でも売りに歩かな、仕様(しよ)おまへんな。ほんまに、えらい災難や」

心細い声で、ぼそんと言った。

「仕様(しよう)むないこと言いな。お前みたな気イで冷やし飴売りに歩いてたら、飴が腐敗(くさ)ってしまう……」

言って、他吉はふと眼をひからせた。

「――それとも、よっぽど冷やし飴が売りたけりゃ、マニラへ行きなはれ」

「なんぜまた、マニラへ……?」

黙っている新太郎に代って、初枝がおどろいて訊くと、

「マニラは年中夏やさかい、モンゴ屋商売して、金時(氷)や冷やし飴売ってても、結構商売になる。大阪にいてては、お前、寒なったら、冷やし飴が売れるか」

「冬は甘酒売ったら、ええ」

初枝に肱を突かれて、新太郎が言うと、他吉は噛んだろかというような顔をした。

「情けないこと言う男やな。新太郎、よう聴きや、人間はお前、若い時はどこイなと、遠いとこイ出なあかんネやぜ。――お初はわいが預っててやるさかい、マニラへ行って、一旗あげて来い」

「…………」

二度焼け出されたようなものだと、新太郎が首垂れていると、

「行くか、行けへんか。どっちやねん? 返事せんか。行かんと言うネやったら、わいにも考えがある。お初を……」

「お父つぁん。何言うてんねん。死んだお母(か)はんの……」

遺言忘れたかと、初枝が言いかけるのを、

「お前は黙ってエ」

「黙ってられるかいな」

と、壁一重越しにきいていた〆団治が、くるくるした眼で、はいって来て、

「――他あやん、お前の言い分は、そら目茶苦茶や」

助け船を出したが、もう他吉はきかず、無理矢理説き伏せて、新太郎をマニラへ発たせた。

他吉は初枝とふたりで、神戸にまで見送りに行ったが、

「わいもこの船でいっしょに……」

……行きたい気持をおさえるのに、余程苦労した。

その代り、銅羅が鳴るまで、他吉はベンゲット道路の話をし、なお、

「モンゴ屋商売しても、アメリカ人の客には頭を下げんでもええぞ。毎度おおけにと頭が下りかけたら、いまのベンゲットの話を想い出すんやぜ。――それから、歯抜きの辰いう歯医者に会うたら、忘れんと二円返しといてや。わいが虫歯抜いてもろた時の借りやさかい、他あやんがよろしゅう申してました言うて、二円渡しといてや」

と、言った。

「コレラに罹らんように、気イつけとくなはれや」

初枝はおろおろして、やっとこれだけ言った。

初枝は〆団治の世話で、新世界の寄席へ雇われて、お茶子をした。

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