一 晩年の作物
天皇は 神にしますぞ。天皇の勅としいはゞ、畏みまつれ
天の下清くはらひて、上古の御まつりごとに復る よろこべ
橘ノ曙覧が、越前福井三橋の志濃夫廼舎で、五十七年の生涯を終へたのは、慶応四年八月二十八日であつた。
「此日、早旦自ら起たざるを知り、一二、後事を遺命し、且つ、如キレ斯クノ古来未曾有の大御代に遭ひながら、眼前、復古の盛儀大典を見奉るに至らず、況や、かねての抱負も、将に達するに向はむとして、今日はかなく世を去るこそ、返す/″\も口惜しけれとて、切歯瞑目せられたり。聞く人、其志のほどを悲しまざる者なかりき」と、臨終の様を追懐したのは、彼の長男井出今滋である。(明治卅六年作、橘曙覧小伝)
この英雄風な最期の記述せられてゐる日は、京都では、既に東京行幸の為の訓諭が出るまでに、新代の光りが照りわたつてゐた。
その前日、八月廿七日には、紫宸殿に御して御即位式を行はせられた。大礼の則る所は古典にあつて、中古以来、儀装・冠服皆唐制に拠つたのを廃せられた。越前福井までは、まだ其御儀の仔細が、伝聞せられるに到らなかつたであらう。今数日、世を去ることが遅かつたなら、彼の末期の心は、如何ばかり明らかであつたことであらう。三日前(廿五日)には、越後柏崎で、日柳燕石が死んでゐる。彼とは風馬牛の生活を終つたのだが、同じ越路に来て、同じ思ひに没したことが、ある因縁を感ぜしめる。八月廿三日には、会津城の一部が落ちた。廿二日、嘉彰親王新発田城に入城ある。廿一日には、即位礼を行はせ給ふ旨の奉告に、奉幣使が、皇大神宮に向ふ。北越地方では、その十六日に、長岡藩の反将河井継之助が敗死する。十五日には、西園寺公望が、村松に入つた。此より先、六月、北陸道鎮撫使を罷め、会津征討越後口総督府参謀となつて居たのである。十二日には、総督嘉彰親王、越後三条に進まれてゐる。この六月、軍務官知事として、会津征討越後口総督として征途に就かれ、廿七日には、敦賀に次られてゐる。その二日前、八月十日には、鹿児島から廻航した西郷隆盛が、柏崎に来着して、総督宮に拝謁して、新潟に向つてゐる。京都では、八月九日、加茂社行幸がある。
彼の死後、最近の日次を見ると、その翌日、山階陵・後月輪東陵に御参拝。四日目の九月二日には、嘉彰親王、新発田城を本営とせられる。三日には、福井藩主松平茂昭、命を受けて、永平寺の宗規を調べ定めることゝなる。九月八日改元。明治と号した。一世一元に定まつたのである。九日、丹羽長国(二本松藩主)降る。十一日、上杉斉憲、子茂憲を遣して、嘉彰親王に新発田に謁して謝罪し、会津征伐先鋒を命ぜられる。十三日、京都では、大久保利通、江戸の事態を陳べ、発輦の期が定められる。諸侯の国々の状況で目につくのは、九月十九日、仙石久利、但馬出石城を毀つことを請願して聴されてゐる。東北では、伊達慶邦(仙台藩主)謝罪降伏歎願書を、奥羽追討平潟口総督四条隆謌に上り、板倉勝尚(福島藩主)官軍に降る。
十六日には、皇学所・漢学所が設けられる。十七日には、和気清麻呂・楠木正成・児島高徳を岡山藩下に合祀することを許してゐられる。かうして、九月廿日には、愈、京都御発駕あり、廿一日石部、廿二日土山に著かせられてゐる。此日初めて、天長節の御儀を行はせられ、賜宴がある。之より先八月廿六日、聖誕日を天長節と称し、賀宴を賜ひ、刑戮を止めるよしの布告があつた。光仁天皇御宇の旧制に復したのである。此日、東北では、輪王寺宮使僧、総督四条隆謌の下に到つて謝罪する。廿三日、酒井忠篤(庄内藩主)降る。
九月廿四日、途上、皇大神宮御遥拝、四日市に入らせられる。南部藩・磐城泉藩。湯長谷藩・平藩皆降る。廿五日、桑名に到らせられる。長岡藩主牧野忠訓、謝罪降伏。廿六日、熱田に著かせられる。翌廿七日、熱田神宮御親謁。羽後松山藩・亀田藩降る。東征大総督参謀西郷隆盛、鶴岡入城。
十月三日、掛川に入らせられる。此日、伊達・上杉降伏の報せがある。又、六日、越前鯖江前藩主間部詮勝の出処疑はしきにより、帰国蟄居を命ぜられる。十月十日、藤沢に入らせられる。諸大名の扈従を多くして、自尊する弊を除かしめる命が出た。十一日、神奈川を過ぎさせ給ふ。その際、諸外国の船艦祝砲を奉る。十二日、品川に入り給ふ。此日、榎本武揚・大鳥圭介等、八隻を率ゐて箱館に出奔。大和柳本城主織田信及、崇神・景行二聖陵修繕の許しを請ふ。翌十三日、東京著御。江戸城を皇居と定め、東京城と称する。十七日、朝堂に臨ませられ、万機親裁の事告げ給ひ、詔して、祭政惟一の大典に基くことを示し給ふ。
これが、曙覧死去前後の世間の姿であつた。彼でなくとも、此間に生きて光栄を感じ、この休光を見ずして死なむことを悲しまぬ者はなかつたであらう。
彼はさすがに、詩人である。死ぬる恰も三月前、
五月廿八日より、病床にありけるまゝに、野山のけしきも見難く、臥してのみありけるにより、つれ/″\なぐさむため、大きなるうつはものに水いれ、小き魚放ちおきて、朝夕うちながむ。
湛へつる器の水に 鰭ふらせ、海川見ざる目をよろこばす
顔のうへに 水はしらせて飛ぶ魚を、見かへるだにも、眉たゆきなり
△窓の月 浮べる水に魚躍る。わが枕辺の広沢の池
ひれはねて 小き魚の飛ぶ音に、寝るともなくて 寝る目 あけらる
恰も明治代の正岡子規の境地である。而も其よりも、深く没入する所があり、又、時代の早さから来るうは調子の中にも、彼らしいものがある。曙覧がかうして臥してゐる間にも、天下のあり様は、刻々に著しく維新の大業に向つて変改して居たのである。如何に敏感であらうとも、一介の市井の隠士に過ぎない彼である。松平春嶽や、中根靱負(雪江)や、橋本左内等の福井藩の主従が、此間に経過した苦悩を、身を以て感じることは、固より出来なかつたであらう。江戸将軍家の親藩であつたゞけに、春嶽主従の忠誠は目立つたが、其と共に、板挟みの境遇に苦しみ、又薩州その他の圧迫に堪へ難かつたことは察しるにも、余りがある。だから、此等の人々の苦しみは、地下の彼の心にも、通じたのである。彼の家に来遊し、又彼に学んだ人々に、歌を詠んでは与へ/\してゐる。北陸道鎮撫使に従つて、会津其他の征討に向ふことを奨めたのである。各藩共に、藩論が一決した後すら、個々の人の志は、各別途に向うてゐた。だから、容易に藩士の動向は定らなかつた。殊に福井藩では、藩主初め在京する時の方が多かつたから、一致した気勢が、湧き立たなかつたことが察せられる。佐幕の気勢は示さなかつたまでゞ、進んで従軍しようとはせぬ者も多く、又其を鞭撻することも、強くは出来なかつたであらう。故老の間には、春嶽が他家より入つて、藩の運命に心を用ゐることの少いのを怨んだものもあるであらう。又、主の意のまゝに精励して刑死するに到つたのを、見殺しにするほかなかつた橋本左内の先例を見て、まだ十年にもならないのである。教養が上にばかりあつて、下は極めて昏かつたのは、福井藩ばかりではなかつた。僅か三百年の習癖によつて、動く事より知らぬ士人の寄りあひである。春嶽の誠意は、その藩国において、裏打ちして示さなければならない場合であつた。
さうした間に、自由な立ち場に居た彼は、彼だけの交友範囲において、風流にことよせて、激励することが出来た。其とて、町人と士分とでは、身分違ひである。単に「志濃夫廼舎歌集」や、「橘曙覧小伝」の印象を我々が受けるやうなものでは、なかつたに違ひない。たとへば、野邨恒見に与へた歌、
愚にも まどへるものか。大勅 たゞ一道にいたゞきはせで
勅にそむく そむかず 正し見て、罪の有無 うたがひはらせ
後の歌、現実味は十分調子に出てゐる。併し輪郭を描き過ぎて、却て表現不足に陥つてゐる。つまり心はやりと、あまりに特殊事情に囚はれ過ぎた為である。恐らく、罪の有無は、勅に背くか背かぬにある。おのが身そこに惑うてゐるか、どうか糺して見て、疑ひ迷ふ心を霽して、勅に従ひまつれ、と言ふのらしい。「愚にも」の方は、少し悠揚とし過ぎてゐて、実感が逸れてゐるやうだ。世間には、かうした愚者が多い。さうではないか、と同感を誘つたに過ぎぬやうにも見える。が、山田秋甫さんの橘曙覧伝によると、当時軍監附きの要職にあつた門下野邨氏の遅疑の挙動を憤つて、一時遠ざけたことがあつたのだとある。其ほど臆れてゐた人かどうかは、此歌だけでは、判断は出来ぬ。恒見(淵蔵)は、左内の手足となつて、密勅事件の裏に活躍した人である(永井環其他)。さすれば、景岳の最後に最痛切な感じを受けた人の筈である。其判断に迷うたとしても、一分の理はあるのである。其にしても、此は彼の弟子だつたから、かうしたことも言ひやられたのであらう。或は、中根雪江から、多少さうした方面を託せられてゐたかも知れない。又さうした事を託する雪江でなくとも、中根氏の腹中に入つて、衷情の察せられない曙覧ではなかつた。だがとにかく、彼の此憤りは、やはり時流を抜いた所がある。単に歌よみとしての歌ではない。此二首はよくないが、気魄は却て、後の方などには、強く出て居る。
此と時を同じくして詠んだと見られるものに、尚八首ある。皆彼の弟子に与へたのである。
大皇の醜の御楯といふ物は、如此る物ぞと進め。真前に――小木捨九郎主に
第三句聊か、平俗調に近づいた嫌ひはあるが、之を救ふに到るだけの力ある喜びが、一首に充ちてゐる。
さしたつる 錦の旗の下に立つ身をよろこびて、大刀とりかざせ――岩佐十助主に
三句以下の宜しさは、彼の純真な感情の出てゐる宜しさである。殊に四句を受けて、五句のおほまかで、邪のない詠み口は、唯企てゝ出て来るものではない。
佐々木久波紫が大御軍人に召されて、越後路に下れる馬のはなむけに
負気なく勅に 背く奴等を 罰め尽して帰れ。日を経ず
同じ時また、芳賀真咲に
大皇の勅に 背く奴等の首引抜て、八つもてかへれ
吉田重郎主に
大皇の勅 頭に戴きし功績あらはせ。戦ひの場
山内某 (佐左衛門)
大皇の勅 頭にいたゞきて ふるはん太刀に よる仇あらめや
上の歌の中、「勅」を言はぬものも、皆勅命を奉戴することの光輝に感激してゐる曙覧の心が、露はに出てゐる。其と共に、当時都鄙を分たず、野に在つた人々の歓喜したのは、此玉の御声の揺曳を、草莽の身に受け奉る心をどりであつた。此昂奮ばかりは、今の世の我々にも、常に心に響き来るものがある。
此と時を同じくして出来たらしいのは、最初にあげた二首を含む連作(四首)であつた。
示レ人
天皇は 神にしますぞ。天皇の勅としいはゞ、畏みまつれ
太刀佩くは 何の為ぞも。天皇の勅のさきを畏むため
天下清くはらひて、上古の御まつりごとに復る よろこべ
物部のおもておこしと 勇みたち、錦の旗をいたゞきて 行け
彼は日頃は、唯の歌人であつた。併し風流の外に常に心に蔵せられてゐたのは、此耿々の志である。日々に詠み、日々に楽しむ所を見れば、唯の市井に隠るゝみやび男に過ぎないのに、突如として、かうした気魄の歌を叫び出した。彼が、交る人々を多く武士に持つたからでもあらう。が又、彼の学問の伝統は、その志を文学に埋れしめなかつたのである。第一首は、辺土の武士の、進退に踟する者のあるのを、喩したのである。
天使の、はろ/″\下り給へりける(るに、?)あやしきしはぶるひ人ども、あつまりゐる中に、うちまじりつゝ、御けしきをがみ見まつる
隠士も、市の大路に匍匐ならび、をろがみ奉る 雲の上人
天皇の大御使と聞くからに、はるかにをがむ。膝をり伏せて
此もおなじ年の作であらうが、総督官の御通過のあつた頃は、もう病床から起つことが出来なくなつて居たらうから、此は、二月中の作であらう。慶応四年正月九日、北陸道鎮撫総督として高倉永、副総督として四条隆平が任命せられ、二十日、参謀を具して発足した。廿五日、若狭小浜に著いて、藩士等に、奉命の誓詞を出さしめた。廿六日である。二月に入つて、鎮撫総督を北陸道先鋒総督と改めた。十五日、一行福井に入つた。上の歌に見えた歌らしいのびやかな所のあるのは、まだ世間の響きが、最後の勢に達して居なかつたからであらう。「示レ人」四首の、本格を行くものほどには、堂々たる所はないが、却て軽みにおいて、正直を感ぜしめる。此よりも、前の歌と思はれるのに、
大御政、古き大御世のすがたに立かへりゆくべき御いきほひと成ぬるを、賤ノ夫の何わきまへぬ物から、いさましう思ひまつりて
百千歳 との曇りのみしつる空 きよく晴ゆく時 片まけぬ
あたらしくなる天地を 思ひきや。吾目眛まぬうちに見んとは
古書の、かつ/″\物をいひ出る御世をつぶやく 死眼人
廃れつる古書どもゝ動きいでゝ、御世あらためつ。時のゆければ
彼の歌の、感激によつて、頓みに歌口の変つて行くと謂つた所が、明らかに見えるものである。第一の連作には、稍及ばぬが、第二の四首よりは、遥かに立ち優つた古風の気魄が現れてゐる。其が「きよく晴ゆく時片まけぬ」「……時のゆければ」などの句に窺はれるのである。第三首目は、例の飄逸味が出過ぎてゐる嫌ひはある。此は前のを、鎮撫総督福井来着の時のものと見て、其よりも更に先だつ、慶応三年のものには違ひなからう。が、十月十四日の将軍の大政奉還上奏、十五日の勅許あつて直後の歌とは、断言は出来ない。なぜなら、彼の如き身分で、さうした出来事に対して、明確に事件推移の判断がつかうとは思はれぬ。其風聞が伝つた処で、必、半信半疑の間に彷徨したのに相違ない。「……立かへりゆくべき御いきほひ……」とあるのは、婉曲に言つたと言へば其までだが、大体もつと前から、察してゐたことでもあらうし、又彼にしては、極めて漠とした信念だつたのであらうから、十月よりも早く、又稍遅れて、さうした風聞が具体化して胸におちて来たのだらう。而も、之が古学・古典の効果だつたと言ふことを、沁々感じ、自分の専門だけに、自信を以て言うた所に意義がある。だが、小づくりに出来てゐて、感激よりも、機智の出て来る傾きのあるのが、くちをしい。その擬人法に似た言ひ方も、歌がらを低くしてゐると言はねばならぬ。併し考へて見れば、さうまで感激が一つ有様で、作物に続くといふことも考へられないから、かうした起伏も自然だ、と言へば言はれる。同時に、かう言ふことも言へる一面が、ありはすまいか。即、正義の道をとり違へて、江戸将軍に誠意を尽すを正しとする様な判断が、古書・古学に疎い人々の間には行はれてゐた。――道理から言へば、さうかも知れぬが、おのれ等に近い真実はこゝにあると言ふ風な、近きに溺れた人々が多かつたのである。共にいろはから説き訓すやうな事もせねばならなかつた。勤皇の為の啓蒙を、彼はその周囲に集る人にはして居たのだ。第一義の耿々の志を叫ぶのでなく、諄々と説いて教へると謂つた歌が、彼には相当にあつて、其が多少歌柄を落したといへよう。だが元々、彼の歌にはさう言ふ側もある。志士としての運動に携ることのなかつた、一人の学究らしい所が、其所にも顕れてゐる訣なのだ。
武士
尊かる天日嗣の広き道 踏まで 狭き道ゆくな。物部
真心といはるべしやは。真ごゝろも、正しき道によらで尽さば
大綱と 天日嗣を先とりて、もろ/\の目を編む国と知れ
天皇に 身もたな知らず 真心をつくしまつるが、吾国道
一・二・三はかうして導かねばならぬ蒙昧な武士の、まだ多かつたことを示してゐる。他藩すら、此と同じ佐幕党が多かつたのである。況して、福井ほどの親藩であつて見れば、江戸将軍に感謝の心を持つた者も、多かつたのである。見当に狂ひがなくば、此連作も、其頃に近いものであらう。大分くどい所はあるが、やはり二首目の歌に、境遇も、時代も出てゐる。達意は達意でも、「大綱と」は、道歌に近いもの言ひである。第四首は、之を文学化する情熱が足らぬ。此も亦、人を教へると言ふ目的に煩され過ぎて、文学を失うたのである。
示レ人
○君臣品さだまりて 動かざる神国といふことを まづ知れ
此歌などは、当時ひとゝほりの知識ある者でなくては、君は天子、臣は公家・将軍・諸侯、殊に、将軍をさしてゐるのだと言ふことは、明らかには悟らなかつたであらう。多少学に入り立つた者或は、此道を少しは知つた者に、与へた歌に相違ない。
曙覧の歌や、文章の中に、やゝ心得難いことが二つある。一つは、今までにあげたものゝ外に、存外王事に関聯して、情を抒べたものゝ少いことである。今一つは、明治以後の開化時代に遇うた古学者らの悲憤に似た歌の、既に相当にあるやうに見えることである。
此は、彼自身も自覚してゐたやうに、国事を憂ふるに値せぬ町人だつたに繋らず、其でも相応に、慨み、歎きはしてゐたのである。然るに、「藁屋文集」に採録せられた消息文などを見ても、自由に慷慨を述べたものもあつてよい等なのに、其ほど感じ深いのもない。中根雪江に与へたものなどには、殊に其があるべきであらうが、一向見当らないのは、一往思うて見てよい隠れた理由があるのではないか。
曙覧の死んだ当時、長男今滋は二十三であつた。「榊の薫」などに見える今滋の作物は、たとひ曙覧の添刪は加つてゐるとしても、相当な力量が窺はれる。其にしても、「志濃夫廼舎歌集」は、彼の自撰である。今滋の考へは加つて居ない筈である。明治十一年印行の時も、原本のまゝ出したに違ひない。第一集の初め少しは、製作順かと思はれるふしがある。其と最後に近いものに、慶応三・四年のものが多いと言ふまでゞ、年代順に排列したものとは、どうしても考へられない。さうして国事に関係あるものは、四集・五集に纏つてゐるやうだが、尚他の巻にもちらばつてゐる。よつて思ふ。激越した勤皇の作物も、此作風からは、必多かつたものと思ふ。だが世態の推移が、予め測り難かつた時である。若し亦、何時人の目に触れて、禍を蒙ることがないとも限らない。だから、多くさし支へないものを列ねて、歌集・文集を編んだものと見る考へもなり立つ。此想像が当つて居たとすれば、彼の持つ古風の諷詠が、其間に湮滅したことになるのである。此感は、歌集よりも、文集において更に深まるのである。
何しろ、雲脚の変幻極りなく、所謂端倪すべからざる時代の相であつた。かの天日を直に仰ぐ喜びに咽びながら、息を引きとる寸前までも事態は、如何やうに推移するかは、彼等の知識からは、予断出来なかつたのである。さうして其転変から醸し出される苦汁は、春嶽と、其から中根雪江等、知己の大身も、舐め尽して来たのである。曙覧は、その黒い目にも其を見、苔の下に目をつぶつてからも、幾度かくり返されて行くのであつた。かうした境遇の多くは、彼の与り難いことでもあり、一町人であつた彼には感じも出来ないことだつたに違ひない。其でも、さうした細かな気のつかぬ雪江等ではない。又目前に橋本左内等の事を見聞きして来てゐるのである。たとひ之を町人の感情に飜して見ても、相応な衝動であつたに違ひない。武士に接して、武家魂に触れたでもあらうが、根は久しい町人の家の子である。感じきれないものがあつたに違ひない。此点では、福井藩の人々と、悲しみを頒つことは出来なかつたであらうし、又さうした事をうち明けて、一町人に謀らふ程、福井藩も、小くはなかつたのである。
だがともかくも、彼個人としては此激しい動乱の間にあつて、処理すべきものは処理する必要を覚えたに違ひない。慷慨あまつて忌諱に触れさうな作物には、序詞を書き潜めて、題意を仄かにする事に努めたであらうし、又作物自らあまり露はに意趣を示してゐるのは、省き隠したこともないとは限らない。其故にこそ、今ある曙覧自撰の「志濃夫廼舎歌集」が、一面あまりに文学式な、又享楽態度に見える側が、目立つのかも知れない。
元来、国学者の思想にも、時代の推移があつたので、賀茂・本居両翁並びに其息の濃くかゝつた人たちの間には、尊皇から、引いては攘夷に到る情熱は見えても、討幕の気はわりに薄く、却て、江戸讃美に傾くものすらあつたのである。此がすつかり面目を改めたのは、平田門の人々に初まると見てもよいのである。勿論此には、例外とも言ふべき人々もあつたことは否まれない。曙覧は、伝統から言へば、伴蒿蹊門から宣長門に入り、更に大平に学んだ田中大秀の弟子である。学風も亦自ら、平和な殿人風のものを伝へたであらう。古代は古代、現代は現代、そのいにしへの姿を正しく伸べて来たのが、今の世のありさまだとする、存在其自体を是認する一般の学風が、彼にもあつたに違ひない。だから、橋本景岳風な西洋を知り過ぎた態度には、面を背けたであらうが、大体において時代としては、温和な思想を抱いて居たに違ひない。又、其が福井藩上層の指導精神でもあつたゞらう。
かう言ふ時代では、少しの類似が相牽くと共に、瑣細な相違が亦、甚しく相撥ねる形をとるものである。慶応から明治へかけて、ともかくあれほどはたらいた春嶽・雪江等主従が、わりに幸福な風に見えぬのも、此為であり、春嶽が自ら、曙覧の藁屋を訪れ、雪江が屡世間外の誼みを彼に示したのも亦、此為であらう。単に索漠たる辺土の領国に、纔かに見出した芸の緑地として、彼を見たとばかりも考へられない。当時の福井藩は、猶他藩と同じやうに、必しも打てば響くと言ふほどには、春嶽の思想に靡く者ばかりではなかつたのである。而も、雪江の斡旋によつて、曾ては平田の門ものぞき、現に宣長の孫弟子の資格を得て、地方としては、重く見られた彼である。謂はゞ、郷土においては、一つの名物になり初めて居た彼である。さすれば、藩主が之に、恵みを垂れようとするのはあるべきことである。併し既に此頃の春嶽は、心国事に忙しく、宗家徳川の運が、長閑に見過されずなつてることは切に感じてゐた。田安から入つて、越前家を嗣いだ彼である。それに、西洋事情に通じた左内の影響の多かつた彼であつて見れば、自ら前代凡庸の諸侯が懐抱せなかつた、複雑な内容を心に持つて来て居たに違ひない。だから恐らく、曙覧の如きは、一隠士の稍抽んでたものと感じられたのであらうが、固より其以上に考へられる訣もないのである。或は思ふ。曙覧こそ、かうした春嶽主従の思想の影響を、自らの教養の上に移し育てたと言ふことになるのではないだらうか。其だけでも、世に碌々として居た和学者輩に比べれば、彼の学者として、又文学者としての優れた位置を占むることを示してゐるのだと思ふ。彼の――成績を多く遺さなかつたけれども――学は根柢のあるものであつた。さうして更に、彼の文学は、此根柢に根ざして、力強いものを表現して居たのである。かうした力強さの現れる所、或は彼自身すら、うつかり疑ひの目をる者に触れることの危険を考へねばならぬ所があつたであらう。其為にこそ、其集の作物の排列が、前後を濫りにした痕を残したのであるまいか。同時に又其が、彼にあるべくして存しないことのいぶかしい――、時勢に向けての激越した文章・和歌の整理せられてゐることを仄めかすのではあるまいか。
ある時
何ごとも時ぞと念ひ、わきまへて みれど、心にかゝる世の中
忘むと思へど、しばしわすられぬ歎きの中に、身ははてぬべし
仮りに同じ趣きの、
水車 ころも縫ふ世となりにけり。岩根 木根立 物言ひいでむ
おなじく、「ある時」と題した作物である。題は、ある時の感慨を述べたことを示したにしても、前の二首には、題として韜晦めいた口つきが現れてゐる。此だけの詞書きでは、誰にも、それの出来た境涯は、完全には察せられまい。而も「何ごとも」の方は、「……念ひわきまへて」だの「……みれど心にかゝる世の中」など言ふ句々の相関から来る語感は、相当に卑俗なものがある。かうした調子が出たのは、心が可なりくづほれ、めいりこんでゐた時に相違ない。其くどき言らしい低調が、別にある風情を見せてゐる。だが其かと言つて、其が此歌をよくして居るのでは、決してない。此低調は到底、国を憂ふるますら雄の歎きをこめたものとは感ぜられない。何か身辺雑事に対するあきらめと、執著とを言つたものと言ふ風にとられるのである。恐らく「時ぞと念ひ……」から考へると、時運の未、熟せないことを痛感した趣きである。「忘むと」の歌は、下の句が相当特殊な心を語つてゐるやうに見え、其と共に、俗臭を脱してはゐる。が、「しばし」と言ふ語を挿んだ理由が訣らぬのである。彼の練達した技術が、どうかすれば、事もなげに、併し亦、感激の乏しい、さうして又、通俗と言ふ点で人々に喜ばれる語句を形づくることもあるのである。此とても、慷慨の志の酬いられぬ間に、解決のつきさうもない大事を控へたまゝで、我が身まづ果てるだらう、と悲しんでゐるのである。が、其程痛切には来ない。
水車の方は、ある時と言うてはゐるが、「偶感」と題してもよい程のものである。併し歌自身は、ほねつぽい所を持つてゐる。機械力に対する理会なく、文化社会になり行かうとするのに反感を持つた様子が、露骨に出てゐる。岩根・木根立物言ふ時代は、日神隠れ給ひ、草木に到るまで妖言を発した。そのやうに、こんな不思議の行はれる――妖術をときめかすやうな時代には、ついで万妖悉く起るに到るだらうと言ふのであつて、もとより珍奇な物に接しての喜びを歌うたものではない。謂はゞ、新文化に対する呪ひの詞である。この西洋嫌ひは、だが決して彼一人ではなかつた。世間一般が新しくてよいものを、善しと認めるに到るまでには、まだ/\年月が、いつたのである。だが、此歌で見ると、正否はともかくとして、根柢ある物言ひらしく感じられる。それが、古典から来る力強い一種の表現論理なのである。
勿論「ある時」の題のあるものが、皆さうした傾向なのではない。「をりにふれてよめる」と謂ふ単なる偶感に過ぎないのである。
ある時
友ほしく 何おもひけむ。歌といひ、書といふ友ある 我にして
草 さひづりめぐる朝すゞめ 寝耳に聞きて、時うつすかな
ひよりぞと 思ひて出づれば、風さむし。全く好き日は、日にも得がたし
私の無き空にすら、全くよき日は乏しきを 人はいはんや
如何にも偶感による偶成らしく、おのれ自らも、おのれに囚はれることなく、極めてひろ/″\とした気持ちに、詠み出でゝゐる。
第一首は、類型でもあり、又其を幾分か抜け出た所は下句に見えるが、畢竟かうした歌は、作者を背景とし、註釈とすることで、価値に増減の感じられるものである。第二首も、全く類型はない訣ではない。が、「さひづりめぐる」だの、「寝耳に聞きて」などが、懶さを見せて新味を覚えさせる。其よりも、第五句自身と、其配置が、此歌を出色なものとしてゐる。第三首は、下句が全く抽象になつた上に、如何にも物言ひが常識を出でないものを感じさせる。が、歌として見る上は、上句もよく、下句は今少し勝れてゐる。たゞ其が離れ過ぎてゐるので、――之を接触させて感じようとすると、道歌めいた印象を受けないでは居られない。此歌に曙覧としてのよさを保たせようとするなら、上下句の繁りの緊密を緩めて感じる必要があると思ふ。「私の無き」と言ひ出した第四首は、まづ概念めいたものを感じるのだが、此とて曙覧の語感や、語勢を考へにおいて見れば、棄てられぬよさは、持つて居る。殊に「人はいはんや」の様な、無成算な、技工の隙き間から、突如として出て来た、半成の新技法を見ると、さすがだとは思ふ。此漢文くづしと国文脈との間に醸されるある混成感、前の「……日は、日にも得がたし」も、其から来る好感が人を牽くのである。之を又、曙覧全体におしひろげても、彼の作品のよさは、此点が余程与つてゐるやうである。尚此歌に託けて言ひたいのは、曙覧の格調の一種の流動性である。「……全くよき日は乏しきを……」、かうしたある人々には快い流暢な、近代の散文質を実に多く含んでゐるのである。「今も世にいまされざらむよはひにもあらざるものを」「髪白くなりても親のある人も多かるものを……」此一例をとつても知れるやうに、曙覧の親しみ易さ、又曙覧の自由暢達を思はせるものだが、どうもやはり、此人の歌の質における大きな弱点にもなつてゐるのだと思ふ。
其等は閑話として措くであらう。「ある時」の傾向の詞書きは、色々ある。
ひとりごとに
幽世に入るとも、吾は 現世に在るとひとしく 歌をよむのみ
歌よみて遊ぶ外なし。吾はたゞ 天にありとも 地にありとも
文学における自然主義を通過した後の今人は、寧、ある点素朴である。其より前の人は、やはり文学の為の擬態といふべきものがあつた。昔ほど、其が見られる。漢文学によつて導かれた文人には、何としても、高士と謂つた気位の、作物の上に誇示せられる事が避けられなかつた。曙覧ほどの人であり、又歌その物を見ても、さして其があるとも思へぬが、尚此歌を直に心に移して、曙覧の印象を作つてはならぬ気がする。勿論此だけの覚悟もあり、又其よりも更に執著があり、もつと/\気稟の高さはあつたに違ひない。併し、彼の友常見野梅との交際などを中心にして見ると、極めて安易な気持ちも多かつたものと思はれる。だが、彼の生活及び性格が、記録・伝聞によつて考へられるよりも、彼の残した作物によつて組み立てる外のない今からは、作物に現れた彼を、凡彼其人と見て行くより外はないのである。だから、文学を通して見る曙覧は、此がその真の声、と言ふべきであらう。第一首は、語り過ぎて、散文より先の深さに入ることが少い。第二首は、やはり下の句になつて放散し過ぎた嫌ひはあるが、其だけにある旧風ながら深い文学味の、其句に感じられる点が優れてゐる。次の世を語るにしては、「遊ぶ外なし」が、空想を欠いた表現である。どうしても現世に持つて来ねば、思惟も出来ぬ現実派の文人だつたことを示してゐる。兼ねては又、写生主義以前に夙く、彼のある点まで写実態度を持つてゐた原因でもあるのだらう。彼は町人である。さうして隠士として、広い世間の事にかけては、春嶽・雪江の持つだけの知識はなかつた筈である。だから切迫した時代のとよみの中に、かうした「ひとりごと」も嘯いてゐたのである。此歌の前にある連作が七首。
赤心報国
真荒男が朝廷思ひの忠実心 眼を血に染めて、焼刃見澄ます
国のため念ひ痩せつる腸を 筆にそむとて、吾が世ふかしつ
仇に向き たゝきけむ古人に ならひてこそは、国に仕へめ
正宗の大刀の刃よりも、国のため するどき筆の鉾揮ひみむ
国を思ひ寝られざる夜の 霜の色。月さす窓に見る 剣かな
国汚す奴あらばと 大刀抜きて 仇にもあらぬ壁に物いふ
松の葉の夜おつるにも 耳たてつ。枝ならさゞる世とは、おもへど
曙覧には、かうした態度が、常に見られるのである。其は、題材が現実であるか、類型式な知識とも言ふべき空想であるか、どちらにしても一往絵様に構図して見て歌ふと謂つた風である。――此は一つは、彼のこくめいな言語技術が、さうした感じを深くもさせるのだらうが――さう考へて見るが、よい様である。此なども、自分から出て絵になり、絵が再戻つて自身に入つて来ると謂つた形をとつてゐるので、一々が絵様見た様になつて、心に反芻せられて来る訣なのだ。そこに、内容とは又別な、ある悠揚として、信頼の出来るものを感じさせてるのである。「眼を血に染めて」などは、上乗の技法であつて、平凡な第五句を力強いものにしてゐる。と同時に、二三句殊に第三句が、中心から跳ね出してしまうた嫌ひもある。「国のため」も、三句と四句との離れが感じられるが、其も五句が、すつかり方角を換へてゐる為に、欠陥はそちらへ移つてしまつたやうに見える。が、やはり欠点は、毛ほどのものでも感覚に残る。ともかく「吾が世ふかしつ」は、夜更けまで起きて居たことなのではない。老いを覚えるまで、憂国の磊嵬を紙の上に書き苦しんだ、といふ境遇を空想してゐるのである。わが齢老けたるを、夜深く覚ゆると言ふ懸け詞でもなくて、而も気分だけはやはりそれに這入つてゐる。言語の効果多い技術の対立してゐるのが、此歌の不統一感をなしてゐるのは、事実である。「国のため念ひ痩せつる」も「……痩せつる腸を筆にそむとて」も「吾が世ふかしつ」も、皆独立させて見れば、心牽かれる句には違ひない。だが其だけに、一首の格調の上に擾乱が起るのである。「仇に向き」、此は、古人伊企儺を、心の上に活して来る熱情が足らなかつたのである。語だけは、「仇に向き」と言ひ「たゝきけむ古人に……」と言ひ、きつぱりした古朴を持つて居るのだが、語だけでは、どうにもならぬものゝあることを教へてゐるやうだ。「正宗の」、根岸派発足時代の低徊した表現が、既にこゝに出てゐる。「国を思ひ」は、彼の剣歌の中の最平明なものであるが、同時に興味が外に向ひ過ぎて、浅くなつてゐる。でも、新派短歌発生時代には、こゝまでも、行つて居なかつたのである。「国汚す」、曙覧の一つの重要な特殊形式なのだが、其に必伴ふ、顧みて他を言ふと謂つた所も、はつきり出て居る。慷慨を主題とする叙事詩で、決してその抒情詩ではない。以上六首は、彼が客観質を深く持つた人なる事を示すのであるが、同時にかうした題材を、叙事式にでも、こゝまで糶り上げて来る感激の、彼の胸中に潜むことを窺はしてゐる。だから、単なる慨世の詠と見るのは足らぬが、同時に全く情熱のないものと見るのも正しくない。其は他の方面から、一言にして説明することが出来る。叙事詩などを興味の外に置いた此代の人であり乍ら、かう言ふ題材を選ぶことの多かつたのは、彼の傾向ばかりでなく、其道義感と、文学との結びつき方の、特殊性を示してゐるのである。さうでも言へば、足るだらうか。最後の「松の葉の」は、彼の日常の平和な安住生活に還つた直後の正直な心であるが、其だけに何やら、背越しに擲げ出された気がする。「……夜おつるにも」には、一つの力を感じるが、一首全く常人常時のもの言ひである。だが或は思ふ。さうした歌ならば、こゝに列ねる訣はない。何かの意味で、連作から放すことが出来なかつたのであらう。其で、今一往反省して見る。此歌の持つてゐる類型風の物言ひの間に、何やら潜む不安な、人を窺ふ様な所に心づくものはないか。さうして考へると、此長く治平を保つて来た世であり、又さう願つてゐるのだけれど、耳は、ある擾乱の響きを期待してゐる。ふとの音にも、かの音かと思ふ、と言ふ彼の衷心の仰望とも言ふべきものを、蔵した一首だ、と見るべきかといふことである。故らに調子をしづめ、声をおとした為に、かうした凡庸な外見の作物となつたのであると思ふ。詞書きと、即かず離れずのやうな形でよまれた剣の歌が、最後になつて、ぴつたり赤心報国の意を暗示してゐるのである。唯外夷を悪むと謂つた風に解釈の出来る外貌の中にも、長く続いた苟安の世の転変を思うてゐるものが、一つ/\寓せられてゐるのではないか。彼は町人である。隠士である。同時に、平田派の灌頂を受けたかも知れぬが、素質からして、本居派の学風を遵奉する人である。事実亦、当時の本居派の地方学者の傾向を著しく見せてゐる一人である。だから常の思想は、極めて平穏であつて、而も時としては、独り潜かに燃える所を持つて居たに相違ない。だから、生活と文学とは、並行しないこともあり、多くの場合並行し乍ら、内に潜む熱となつて蔵せられてゐる。さういふ形になつてゐたのであらう。
失題
何わざも、我が国体にあひあはず 痛く重みし物すべきなり
まのあたり たよりよげなる事がらも、後に到りて さあらぬが多し
恐るべし。末世かけて 国体に 兎毫ばかりも、疵のこさじと
事により、彼が善き事もちふとも、こゝろさへには、うちかたぶくな
其のわざを取り用ふれば、自ら 心もそれにうつる恐れあり
目のまへの事いふならず。禍の遺らむ末の世を 思ふなり
潔き神国の風 けがさじと こゝろくだくか。神国の人
此も失題といふ程のものではない。唯序を書けば、長くなり過ぎさうだといふだけのことのやうにも見える。歌には攘夷の情熱といふより、西洋文化の、武器といひ、機械工業といひ、段々入り込んで来るのに憂ひを持つて、末はどうなつて行くことか、と御国の後の姿を観じたのであらう。古典を生活の指標とし、古典を内生活に宿さうと努めた国学者の一人であつて見れば、当然深くさうした憂ひを抱いたに違ひない。此が、明治の御代になつても、尚長く続いて、
橿原の宮に還ると思ひしは、あらぬ夢にて ありけるものを――矢野玄道
一層深刻な叫びになつたのであるが、新旧の交替ほど目眩はしいものはない。其復古の情熱と共に、更に新しい文芸復興の時代が来ることを、明治二十年代の国学者は夢想もしなかつたであらうし、明治聖朝の稜威に浴するかせぬかに、此世を去つた曙覧の、まだ旧時代の夢深かつた此歌製作時代には、固より空想もしなかつたことであらう。唯、かうした文物が輸入せられ初めて、やがて此国は悉く、其に風化せられて行きさうに見えたゞけに、深い杞憂を感じたに違ひない。さればこそ、かうした新文化をとり入れたのも、政権を申した江戸将軍の責任としか、世間は考へなかつた。かうした状態は、国を売るものと謂つた誤解までも、江戸に集注した。だから攘夷の事を遂げようとすれば、王朝の昔に還る外はないと考へたのである。宮廷は、神のいます所であり、さうした外来文化を却ける御威力のおはすことゝ想察し奉つたのである。かう言ふ点において、静かに皇道を思ひ奉つた曙覧などの思想にこそ、其を正しく窺はせるものがあるやうに思ふ。「潔き神国の風」には、外夷文化を却けるには、この道による外はないといふ考へを示してゐる。だが此歌、「こゝろくだくか」といふのは、さうした事に尽瘁する人々の労を謝する意で、「心を砕き給ふことよ」と言つたのだとは思はれるが、「か」の力点不明の為に、「心砕く人ありや」と立つても居ても居られぬ思ひを陳べてゐるやうにもとれる。七首の中、六首までが呪ふべき現状を歌つてゐる。だから、此一首では、意義の転換がしきれないのであらう。併し「こゝろくだくか」をさうした皮肉な用法に据ゑる訣もあるまいから、やはり古風に従つて、「心砕く」人あり、其人こそ神国の人なれ、と謂つた感激を表したものと見るべきである。恐らく此は空に作つたものでなく、「示レ人」など題すべきものではあるまいか。謂はゞ、中根雪江の如き人に寄せて、更に春嶽にも伝達して貰はうといふ考へなどがあつたのではないか。或は其心は果たさないまでも、さうした心動きに堪へずして作つたものと思ふことは出来ないだらうか。直接にかうした心を寄すべき人は、福井藩に関係深い人に違ひない。さうして、神国の業を汚すまじと努力すか労を、気安く犒ふ事の出来る親しみが、「こゝろくだくか」といふやうな安易な表現を採らせ、其為に意義の不安定をすら起したものと見られよう。さう見ると、此歌、極めてとほりのよいものとなつて来る。併しこゝに、考へねばならぬ事がある。一体、江戸将軍親藩の主或は公子で、凡愚でない人は、凡新文化の意義を解して居たものが多かつた様である。其中でもとりわけ、田安家から福井に入つた慶永――春嶽は、それの目につく人である。さればこそ、様々新しい文化を移植しようとした。殊に福井の蘭医笠原良策――白翁の建白によつて種痘法を初めて採用し、遂には幕府にも献策して牛種痘を実施せしめた人である。而も此良策は、曙覧には、極めて親しい間がらで、友人であり、擁護者であり、兼ねて、彼からは歌文の指導を受けたと言ふほどであり、其子元直、其弟健蔵等は、曙覧の弟子であつた。而も、其「牛痘問答」を添刪し、又其除痘館の祀りの為「拝除痘神詞」を代作してゐる(藁屋文集)。此外、歌文及び書牘の上に、其親しみが著しく見えてゐる。
春嶽は、かうした新文化には、著々と手を染め、而も新知識橋本左内を重用した春嶽である。武備についても、鉄砲隊を組織して、弓・長柄組を廃め、福井でゑんぴいる銃を製造し、大砲を鋳て、蘭法砲術師範を置いた。又洋学を奨励して、藩の明道館において、講義せしめた。かうした一方、米国の要求を拒絶すべきことの献策をして、開国論を否定してゐる。これは皆当時として、最正しい策ではあつたが、順調には進まなかつた。而も、春嶽の計画は恐らく、纔かに側近の者の外は、藩中の人々にも徹しなかつたであらう。又彼自身の内にすら、当時の人の持つて居た新旧、内外の矛盾があつたに違ひなかつたであらう。勿論さうした新しい世間を夢想だもしなかつた筈の曙覧などには、見当もつかぬことであつたらう。ある部分は心を喜ばし、他の部分では憂へさせられる、と謂つたことが多かつたらう。其に、刻々に迫つて来る新時代に持つたとりとめぬ脅迫感、さう言ふ風に、彼には、救ひなき前途を思ひ悩むことが多かつたらう。此連作も、さうした時代の苦悩が、表現せられてゐるのである。
「何わざも」の歌には、国体との合不合を見定めるやう、慎重な態度を要求してゐる――対談めいた気分が出てゐる。「まのあたり」には、便宜さうな面に囚はれて、後患を顧みないことをおつとりとだが、反省させようとしてゐる。一時の事にかまけて、天下後世に恨事を残さぬやうにと言ふのが、「恐るべし」の歌である。今を糊塗する為に、永い憂ひを思はぬ事を戒めてゐるのである。此二首も、濫りに憤つてゐるのでなく、「人に示す」態度である。外国文化をとり入れる時に、何時も与へられる非難は、曙覧も之をしてゐたのだ。「事により」が、其である。つまり、蘭方医術や、兵術のよさを彼は認めてゐるのだが、心酔して行く当路の人を見てゐると、不安に堪へられないのである。人に与へる為に作られたもので、独り言でないことは、感激よりも、寧、理論風に出てゐる所でも察せられる。「こゝろさへにはうちかたぶくな」というたのは、忠言であつて、叱してゐるとは考へられない。「其のわざを」を見ると、もの柔らかに注意を与へてゐる気味は、前の歌よりも、一段である。連作とは言へ、此歌少し独立性が欠けてゐる。互に理会しあつてゐる人に言うてゐる趣きの明らかなのは、「目のまへの」である。あなたは、私が目前の憂ひに囚はれて居る。児孫の世を思へと言ふが、その末の世を思へばこそ、かうして忠告もするのだ。今目前の事にかゝづらうて、禍を児孫の代に残すことを虞れゝばこそ、かうも言ふのだ、と人に思ひ返させようとして居る風が見える。唯、適切にはどんな事件に関つてゐるのか、考へつかない、ちと雲を掴む様な処がないでもない。此一聯、恐らく夷狄の風に泥み行く世態を憤つたものと言ふ風に見られさうだが、さうは見られないのである。
ある時作る
利のみむさぼる国に、正しかる日嗣のゆゑを しめしたらなむ
神国の神のをしへを 千よろづの国にほどこせ。神の国人
其でも、此歌などは、凡作つた場合が想像せられるのである。どうしてかう言ふ知識を持つたのだらう。唯、抽象風に、外国人は利にのみ奔つて、主の尊厳をすら知らぬと言ふのではあるまい。上二句に特殊性を持たせてゐるのだから、やはりこゝを軽く見る訣には行くまい。彼の夷狄らは、利を貪り、利を営むことにのみ営々としてゐるが、其故にこそ、王者の興亡が常ならぬのである。正しい皇統の連綿としておはす故を、彼らに知らしめてやるがよいと言ふので、次の歌の「千よろづの国にほどこせ」といふのとおなじく、仮想した相手神の国人に言うてゐるのだ。さすれば、夷狄の、利に敏いことを聞いて、又人に諭したのだ。さう言ふ外国人などゝの通交に、わが国が、不利益の立ち場にばかり立つてゐた事を知つてゐたのである。だから、全く国情に疎い町人とのみは、見られぬのかも知れぬ。次の歌は、わが国情の美しさを、痛切に感じそめた時代の、今まで知らなかつた国民としての誇りを示してゐるのだ。だが、神の国人と言つてゐる処から見ると、唯、自分等をこめて庶民を言ふのではない。やはり上に立つ為政者に、誂へてゐるやうである。神国の神の政をとる人を、さすのである。我に、万邦に誇るべき神の道あることを、叫んでゐるのだ。だから、物質の文化の進んでゐる彼等よりも、優れた神の道あり、之を与へ施げよと言ふのであつて、当路の人を激励するものであらう。
咏剣
弱腰に なまもの著る蝦夷人。我日本の大刀 拝み見よ
七重にも手もて曲げなば、まがるらむ。蝦夷ノ国の大刀は、剣かは
弓も刀も、鉄砲に対して力ない事を知つたが、尚そこに誇りを棄てないで、ひたすら其鍛錬の技術の神異を述べたのである。此等の歌も、やはり当時としては、稍早いものであらう。なぜなら、漢土の剣戟と比較する事は既にあつても、銃・大砲に対する反撥心が、此歌には十分窺はれる所に、新味が見られるのである。此等もやはり、絵様に見なしてゐる。思ふに、長崎絵などから、浮んだ想像であらう。彼の歌の時々示す弱点は、調子が一首に一貫しないことのある事である。第一首は、強さが語や句に止つても、ともかく一首を統一する緊張力を示す下句がある。ところが、第二首の力弱さは、どうだ。蝦夷の大刀ならねども、へろ/\で、幾重にもくづほれてゐるではないか。是は、彼が歌を愛するあまり、「花廼沙久等」に示した様に、歌に持つた博い理会と、鑑賞力の円満が、却て時としては、実作の障碍をしたことも多かつたのである。万葉を愛する如く、古今集をも愛し――勿論極めて妥当な選択が行はれてゐる――文学短歌と共に、短歌様式の歌謡――神楽歌・催馬楽――のよさをも味ひ知り、六帖や、出所不明の古書引用歌までも喜んで抜いた彼である。かうした造詣と鑑賞力とが、彼に相当煩ひとなつた訣である。だが其は、知識として、又一種の装飾として、とり入れようとしたのではなかつた。どこまでも歌を愛して居たのだ。歌風はまち/\であつても、彼の鑑賞に融けこんでゐた。だから煩ひとはなつた。が、彼を歴代の勅撰集撰者や、師範家の如く、歌の枯れ木とはならしめなかつた。此が又彼をして、万葉調のみならず、広い面を持つた歌を作らしめたのである。だが、其中には、甚しいのは、狂歌その物を作つたり、堂上風の歌風までも棄てきれないで居ることである。此が、第一流の歌集たる「志濃夫廼舎歌集」の瘤となつたのである。併し瘤は、瘤としてありながら、毫も集全体の価値を破らなかつた。其ほど彼の作物は、秀歌が多く、その秀歌は新し過ぎる程新しかつた。其ほど彼は、亦よく純文学を知つてゐたのである。
剣の歌が重つて出た縁によつて、其傾向について観察して見るのも、むだではなからう。
人の刀くれけるとき
抜くからに 身をさむくする秋の霜 こゝろにしみて、うれしかりけり
間十次郎光興
血つきたる槍ひきさげて、落ちくさの柴のかくれが 我ぞさぐりし
近松勘六行重母
剣大刀 焼刃に 我と身をふれて、励ましやりつ。仇ねらふ子を
剣
水奔る白蛇なして きらめける焼大刀見れば、独ゑまれつ
竹内篤主軍人の中にある
大刀とりて いづこへ行きし。あひそめて、まだ日もあらぬ妹を 打すて
剣
福艸の 三尺に余る秋の霜。枕辺におきて、梅が香を嗅ぐ
芳賀真咲が江門へゆくに
大刀の緒にすがりこそせね。雪霙 ぬれむ旅路に やりたくはなし
河野通雄が刀佩き、氏名よぶことを公より許されける祝に
許されて 剣とり帯く民の長。民はぐゝみに、ふるへ。利ごゝろ
咏剣
肝冷す腰の白蛇 吾が魂はうづみ鎮めつ。山松の根に
狛逸也君の、其御名の心ばへを謌に詠みてくれよ、との給へるにより詠める
剣大刀壁によせおきて、胯長にいねつゝ 高き鼾かくらむ
詠大刀(長歌略)
――藁屋詠草より――
執術之鈍有丹波、目炎曜 金造之大刀毛、何将為
其道爾 意籠与。剣大刀 利毛、鈍母、術二依許曾
三種神宝――内、一首
夜のまもり ひるの守りと、日の御子のかしこみませる 草なぎの剣
(山田秋甫氏編、橘曙覧全集拾遺)剣に関する歌を、かうして並べると、何の底意もないやうに見える。だが、何となく、曙覧の生活の色々な方面が、胸に流れ込んで来るやうな気がする。彼は町人ながら、武士との立ち入り多く、早く「抜くからに」の歌などもあり、さうした作物が、藩士の間にもてはやされ、揮毫にはさうした物をと、故らに指定して頼まれる事が多かつた為に、又自ら其為の新作が生れたと言ふ事もあらう。ともかく、彼の剣の歌には、彼の一面にある様な低俗な感情は、すつかり洗ひ流されたやうになつて出るのが常である。常に狃れないだけに、剣といへば、ろまんちっくな、而も潔白な感動の催すことが、屡だつたと思はれる。此外にも既に、とり出して述べた連作にまじつて居るものが相当にある。どれも、漢文学の影響らしい澄んだ響き、爽やかな音覚が、続いて感じられるのである。其替り、変化の乏しい憾みはないでもないが、彼の持つ純な感興が、幾つ出て来ても、ふるびた感じを起させない。
曙覧の持つよさには、かうした和漢両様の古典のよい響きを、極度にとり入れて居る点があるのであつた。而も、かうした選択の行はれる為には、基礎になるものがあつたに違ひない。彼が、あらゆる当時の文学・非文学の律語で以て表現せられたもの――たとへば、俳諧・狂歌或は、小唄の類に到るまでの相応の教養が、彼の作物には見られる――をとり入れた所から来た自由な表現や豊富な語彙が、彼の作物をあゝまで、自在ならしめたのであるが、而も其にも、ある根柢があつて、核心のない声調にうかれてゐるのではなかつた。曙覧の持つ格調の本質とも見るべきものは、何であつたらう。
彼の根本教養になつた所の早期の学問、漢文学である。伝説はあるが、稍明らかでないのは、其漢学の系統である。南条郡大道村――今の南日野村、西大道の法華宗妙泰寺の明導から受けたのが、其手ほどきになつてゐる。後、京に奔つて暫らく児玉旗山の塾に居たと言ふ。ともあれ、かうした根柢が、凡出来た上に、国朝の古典に、稍、遅れて接したものと見るべきであらう。短歌の歴史を通じ、又近く江戸時代の歌人の作物を見渡しても、彼ほど漢文学の味ひ、漢詩文の格調のよさを活して来た者は少いのである。其万葉を最愛したのも、学統から見て、一往不自然ではない。が、宣長系統には、平安朝文学に対する理会が、進み過ぎたほどにあつた。彼のやうに文学なら、何物でもとり入れると謂つた素質からは、恐らく新古今などに直に趨るべき筈であつた。又、事実においても、新古今を愛した痕も見え、作風にも、新古今調の一面が、強く現れてはゐるのである。だが、彼の格調が、主として万葉を思はせるものであり、又万葉を準拠とするものであつたことは、此最夙く定つた彼の傾向だと思ふ。恐らく此方面に強い誘ひとなつたのが、平田学に触れて居た雪江中根氏の力だつたのであらう。本論にも多少此事は述べたのだが、江戸平田塾をのぞいた事などは考へられてゐるのだし、飛騨の国に大秀を訪れて門に入つたことが、愈彼の学を、国学に立たしめることになつたのであらう。だから、二十五乃至三十歳頃までの彼は、倭漢両方に、心の学を求めてゐた期間にあつたと見られぬこともなからう。学問についでは、彼の書である。彼の書が、師大秀等の影響を引かず、懐素を習うたものと仙石亮博士の認められたのは、誰しも異論のない所である。併し、此が晩年の事であつて、其に先だつ、四十歳の稍、闌けた頃の筆は、顔真卿流だといふ。其以前に師明導の俤ある時代、又宣長の書に近い時期あることも言はれてゐるが、其ほど詳しく考へることは、却てどうかと思ふから、仙石博士の説の外輪だけ借りて、明導の書に似た時代から、稍自在を生じ、又再、顔真卿を経て、張旭・懐素を喜ぶ時期が来たのだと見るべきであらう。彼がかうして書風を改めてゐるのは、人の頼みを受けて書を沽つて、生活の助けとした為の稽古から来てゐることは勿論だが、其はほんの外側の原因である。彼が倭様の字よりも、唐様を愛して、而も其が次第に移つて行つたのである。彼の字は、極めて高く評価せられることもあるが、其は少しく緩めてもよいと思ふ。だが、国学者の中では、ずばりと頭を抽き出して居ることも、事実である。此はどうしても、唐様を本格とした所にあるのだ。
春嶽の「真雪草紙」によると、鏑木(?)尚平の福井に来たのは、二度だとある。はじめは、天保七・八・九年頃で、後の一度は訣らぬ。が、凡ちようど、曙覧の家を弟に譲つた前後になるだらう。尚平から直接に習うたかどうかは訣らぬが、古風の歌の福井藩に行はれた初めを、曙覧二十五・六・七歳頃からと見れば、其影響は大きにあつたに違ひない。其から後に、三十三歳の大秀入門となるのである。
かうした彼だから、その上、学問よりも寧、創作の方に深く入り立つた彼だから、――学における創見は、可なり鋭いものを見せ乍ら、著述はさほど多く残さなかつた彼でもある――其学説も、主義も、凡彼の歌の上に出て来てゐる。だから、歌においても、他人に比類のない「議論歌」とも言ふべきものが出て来てゐるのだ。三井甲之さんの主張した議論を持つた歌に対する自覚は、やはり曙覧の作物に対する理会などが、背景になつて、之を促したものでないかとも思はれるのである。
恐らく曙覧ほど、其持つて居る素質やら、好尚やらを文学に活して来た人は、江戸時代にはほかになからうと思はれるし、其上他人の試みなかつた方面にまで手を伸べて行つたのは、其持つて生れた傾向が、時代の歌の欲したあらゆる方向と、当時においては、ぴつたり叶つて居たからであらう。
そゞろによみいでたりける
人臭き世にはおかざる 我こゝろ。すみかを問はゞ、山のしら雲
梯たてゝ いつかのぼらむ。短山 高山 神のいますいほりに
人の目に見えぬ高山 短山。神のいはりを覘くよしもが
体といふ 宅はなるれば、天地と 我の間に、垣一重なし
天地の間に 隔なき魂を しばらく 体の つゝみをるなり
物皆を 立つ雲霧と思へれば、見る目 嗅ぐ鼻 幽世と同じ
幽顕 一重の蝉の翼も支へず。人の臭もたぬ吾まなこには
美豆山の 青垣山の神樹葉の 茂みが奥に、吾魂こもる
厳凝と 神習ゆく斯吾魂。いよゝます/\ 厳凝してむ
第一首は、我が身は、此人臭に充ちた世の中にとゞまつてゐるが、心は遥かに、かの山の白雲立つあたりに到つてゐると言ふので、隠士の境涯を詠んだものである。そこに多少漢士風のものゝ感じ方が窺はれる。ところが、二首目になると、山のしら雲の聯想が、大祓詞の高山・短山のいほり――廬と雲気との間を往来してゐる――に繁つて行つて、神のいます処を希求すると謂つた豹変をしてゐる。だから、此は霊魂ばかりが、其境涯に入ることを考へてゐるのだ。三首目は、「覘くよしもが」と謂ふ風に言つてゐるのだから、自身自らせめて窺ひ見るだけでもしたい、と肉体の其境に行くことを考へてゐる。さうしてこゝで、やつと方向が定つて、霊肉の関係を思うてゐる。つまり連作らしい歩み方を踏み出したのであるが、内容としては、少し無成算な即吟の嫌ひがあり過ぎる。さうして、窺ひ難き神の世界も、霊魂が自在な境地に達すれば、直に一つに観じることが出来る。此天地と、我と一体だといふのである。天地即神と言ふ訣だが、大分の飛躍がある。其には、抽象性が非常に加つて来てゐる。此は漢学式な感じ方であり、知識が具体化を疎かにしてゐるのである。此一首、如何にも儒家の口うつしであつて、又同時にさうした成句・成語の力によつて、説明を超えて認容させようとしてゐるのである。勿論曙覧が、意識して、こんな態度をとつた訣ではないが。「天地の間に」の歌は、かうした連作の一首として、聯想の範囲の局限せられて居るのでなくば、下句の変化が相当に働いて、此歌を救ひさうに見えるのだが、「天地の間に隔なき魂」といふ句の持つ抽象性と、其句の間に行き届いてゐない観照が、どうしても邪魔をする。さうして、連作としては、姑らく肉体にこもる霊魂だから、天地と一体だと言ふやうにも感じ、さうあるべき魂が、苟めに肉体に拘束せられてゐるのだといふ風にも、とれるやうになつて居る。かうしてやつと、感興は高まつて来、其によつておし出された表現が、ぴつたりと内界に合致して来ようとしてゐる。其が「物皆を」である。「立つ雲霧」といふのは、之を無視してゐることでもなく、煩しがつて居るのでもない。神の世界に立ついほり――人界遠い世界の雲霧と観じるといふのである。「すべての現象を、直に天上界の無心の自然と観ずる時は」と言ふのである。さうすれば、常にうるさく、監視し、聴き耳を立てゝゐる人たち其ものゝ動きが、神の世界の現象なる雲霧と一つに感じられて、心を遮るものでなくなつた。かうした瞬間のある直観を詠んだのである。連作中の一首としては、佳作である。見る目・嗅ぐ鼻など言ふ皮肉味を帯びた語も、すべてさうした嫌ひを振ひ落してゐる。即、今まで「見る目嗅ぐ鼻」――地獄王庁にある。――さうして又、此が俗間の語として、さうしたうるさい人々を一挙に蔑視するやうな気分を持つて来てゐる――と感じてゐた、我が拘泥してゐた心を、軽くあしらふことになるのである。皮肉でなく、皮肉から出て、其皮肉の低卑性をも征服して、その低卑すら認めることになつた。唯、連作としての位置を放して見ると、上句が幾分曖昧になり、従つて下句も、活溌にははたらかなくなるのである。次の「一重の蝉の翼も支へず」は、微細な感動を表した点に、彼の観照力の深さを見る。だが幽顕と謂つた、生硬な語句から導かれては、其すら却ておもしろくない比喩のやうに感じられる虞れがある。殊に四句が、何と読むにしても、くどい説明――それから嫌な構へらしいものを感じさせる。さうして又、「吾まなこには」で、彼以外の人には容易でなさゝうな直観が閃くのである。仮りに、第五句を掌に掩うて、別に之に、新しい句を据ゑる試みをして見るがよい。「……翼も支へず。……吾まなこには」此以上の句が出来ようとは思はれない。結局、かうしたところには、人間にしてあまりに人間であつた曙覧の体臭が、どうしても出て来るのである。之を排除せねばならぬ歌になると、愈其が顔を顕す訣なのだ。こゝまで来て、更に自在を得て行きさうな曙覧の心も既に、国学者の心になり過ぎたのである。今少し、天界に放つておきたかつた心である。其が、其間にあつて、学説に行きふれてしまつたのである。「美豆山の」「厳凝と」が、其である。澄みきつた魂は、わが魂であると同時に、聖なる奥山に鎮る魂である。かうした一如観を持つた訣であるが、平易で、外向式な修辞が、さうした刹那の痛感を、人に持ち来さない。唯、ことわり歌に近い効果しか、あげないのである。だからかうした感激を、そのまゝ詠まれるのもよかつた。要するに、実感と表現とが、背反になつたのが、此歌製作時の感興の固定を示してゐるのだ。だから次の歌は、神道の哲学としては、此歌ほどの深さを持つたものは、さう/\はない。だがさうした概念を述べた替りに、情熱はさつと退いて行つてしまつて居る。「いよゝます/\厳凝してむ」には、曙覧自身の愈深まり、ひそまつて来た幽なる心は感じられるのだが、其は条件だけであつて、人の心を揺ぎ響かせる――響きではないのである。「斯吾魂」とまで見据ゑて居ながら、感激なく説明を列ねて行つた上二句が、とりわけ煩ひをなしたのである。
かう言ふ風に、連作の製作順を追うて辿つて行つて、彼の心の移動が極めてよく訣る。かう言ふことは、他の歌人には、まづ望まれぬことであらう。此点だけから見ても、「志濃夫廼舎歌集」の、他と撰を異にした様々のよさの出所を、思はせられるのだが、その中、第一に見るべきは、製作態度の端然たる点である。観照が、表現と叶つてゐるかどうかゞ、常に大切であるが、表現はたとひ逸れて居ても、観点の痕がはつきりと見え、而も其が極めて確かなことに於いて、彼以上の人はさう/\はないことを思はせられる。だから、之に感興が随伴すれば、どのやうな作物が出来るか、測り知れない、かう言ふ気がする。事実、曙覧の作物の優れたものは、さうした条件の整うて出来てゐることが多いのである。
所謂、議論歌といふべきものも、こゝまで、彼は進めて来てゐたのである。さうしてある場合は、ある程度まで成功してゐる。其事については、いつか述べる時が来るだらう。今は、其側の叙述は省きたい。
彼の神道観は、決して浅いものではなかつた。凡こゝまで入り立つた人は、国学者にも多くはなかつた。此は偏に、神道の論理を闢くものとして歌の表現によつたことに力があるのである。だが、同時に、多くの国学者がさうであつたやうに、彼にも彼相応の、儒学の印象が、神学観の上に出てゐることは争はれない。其とさうして其上に、其を超えて出た純粋な古代論理が、彼には見られるのである。
彼の、漢学・漢文学の影響を止めてゐ乍ら、国学者或は歌人としての自覚を示したものは、其著述に散見してゐる。こゝには、歌と詩とに関する一条を抜いて、彼の理会の博いことを告げたい。「囲炉裡譚」の末段である。
小沢蘆庵翁の歌に、「いにしへは、大根 はじかみ 韮 茄子、瓜のたぐひも、歌によみけり」といへるは、歌をむげに狭くとりなし、古き集どもに例ある物の外には、題もたやすくはものせず、なべて海月なす筋も骨もなきものに、読みそこなひ来れる悪癖を看破せられたるものにぞあるべき。……近き頃、広瀬旭荘といへる人が、享保・元禄のころほひの詩人の、琴柱に膠すと言ふやうなる風体をあざけりて、白雲明月ノ句、多シト二於魚卵ノ繁キヨリモ一といひたりしも、蘆庵翁のいきどほりにひとしき心ばへと見えたり。何れの道にも、才の活かざるばかりくちをしきものはあらざりけり。かく寐言のやうなることのみよみふける哥人の多きより、すこしも学才ある人などは、歌をたゞはかなきものに思ひうとんじ、たけきことゝは、詩にのみ赴くめり。然て世を経るほどに、歌は文盲なる者の手に落ち入りて、いよ/\狭く、心浅きものになりて、詩の人情・世態・雅俗にわたりて言ひ通るに、けおされむとさへするに到れり。哥人とあらむ者寐きたなくする目をよくさまし、此に憤りを発し、思ひを凝して、よみ口の鋒を鋭にし、其事に随ひ、其物に因り、彼方此方のきらひなく、幽玄・洒落・麗妍・澹泊・殷富・凄涼・勇壮・温柔・変化自在の臂を張りて、毛唐人の糟粕嘗むる詩人の陣を突き崩し、戎語囀りちらす舌引き抜きくれむと、国風の旗さし建て、古言の鼓うちひゞかせて、後向かじ、背見せじと、進まざらむや。勇まざらめや。