一
「畏くも天の下しろしめす皇帝、ピョートル一世陛下の御名代として、余は本癲狂院の査閲を宣す!」
甲高い、耳がびんびんするような大音声で、そんな文句が述べ立てられた。インクの汚点だらけの机に向かって、ぼろぼろの大きな帳簿にその患者の名を書き込んでいた病院の書記は、思わず微笑を浮かべてしまった。だが患者を護送して来た二人の若者は、にこりともしなかった。二昼夜というものまんじりともせずに、この狂人と面と向かい合って汽車に揺られた挙句に、ここまで連れて来たのだから、立っているのもやっとなのである。降りる一つ手前の駅で狂気の発作がひどくなったので、何処やらで狭窄衣を手に入れて、車掌や憲兵に手伝って貰って患者に着せたのだった。そのまま彼をこの町まで運び、いまこの病院に送りとどけたところである。
見るも怖ろしい姿だった。発作の時ずたずたに裂いてしまった鼠色の服のうえから、刳り込みの大きいごわごわのズックの狭窄衣が、ぴっちりと胴体を緊めつけている。長い袖が、両腕をぎゅっと胸の上に十文字に組ませ、背中でくくり上げてある。真っ赤に充血した両眼は大きく見ひらかれ(これで十日のあいだ一睡もしないのだ)、じっと動かぬ燠火のように燃えている。神経性の痙攣が下唇の端をぴくぴくと引っ攣らせ、くしゃくしゃになった縮れ髪が、まるで鬣のように額に垂れかかっている。そうして事務室の隅から隅へずしずしと足早に歩き廻って、探るような眼つきで書類のはいった古戸棚や油布張りの椅子をじろじろ眺めたり、時には護送人の方をちらりと見たりする。
「病棟の方へ御案内して。右の方です。」
「僕は知っている、知っているよ。去年も君たちと一緒に来たことがあるからな。僕らはこの病院を検閲したんだよ。僕は何もかもすっかり知ってるんだから、そう易々とは騙されんぞ。」
患者はそう言うと、扉口の方へくるりと向き直った。看視人がその前の扉をあけてやると、相変らずずしずしと足早に、しかも決然たる足どりで、狂った頭を高々と反らしながら事務室を出て行ったが、右へ折れると今度は殆ど駈足で、精神病患者の病棟の入口までやって来た。護送人たちもやっと追いついて行ったほどだった。
「ベルを押して呉れ。僕には押せん。君たちに両手を縛り上げられちまったからな。」
番人が扉をあけると、一行はそのまま病棟へ歩み入った。
それは昔の役所風の建て方をした、大きな石造りの建物であった。大広間が二つあって、一つは食堂に、もう一つは穏やかな患者の共同病房になっている。広い廊下が走っていて、庭の花壇へ下りる玻璃扉がついている。それから患者の入れてある単独病房が二十ばかり――ざっとこうした間どりが一階を占めている。一階にはまだそのほかに暗い部屋が二つあって、一つは毛蒲団をいちめんに張り廻らし、もう一つは板張りだが、いずれも兇暴性の患者を収容するのである。それから円天井のついた巨きな陰気な部屋――これは浴室である。二階は婦人患者が占領している。そこからは調子の外れた噪音が、唸り声や苦痛の叫びで引き裂かれながら、階下まで伝わって来るのだった。この病院の定員はもともと八十名なのだけれど、近隣の数県をここ一つで掛け持ちしているので、患者の収容数は三百人にも及んでいた。手狭な病室ごとに寝台が四つか五つは入れてある。冬は患者を庭へは出さないし、鉄格子の外の窓はみんなぴったりと閉ざしてしまうので、病院の中はたまらない息苦しさであった。
新来の患者は浴槽のある部屋へ連れて行かれた。健康な人間にさえ、この部屋の空気は重苦しい印象を与えまいものでもないのに、ましてや常軌を逸し興奮しきった想像力の持主には、尚更その作用はひどかった。それは円天井のついた大きな部屋で、石を畳んだ床はべとべとしていて、明りは片隅にあるたった一つの窓からしか射し込まない。壁と円天井とは赤黒い塗料で塗り上げられ、垢と埃で黒ずんでいる床には、まるで二つの橢円形の穴に水を張りでもしたように、石の浴槽が二つ、床面とすれすれに嵌め込んである。途方もなく大きな銅製の炉が、湯沸かし用の円筒形の鑵や、そのほか銅管だの活栓だのの一切の装置を具えて、窓と反対側の一隅を占めていた。そうしたものが皆んな、病的な頭脳にとっては異常に陰惨で幻想的な性質を帯びているところへ、湯番をしている肥ったウクライナ人がまた、ついぞ口を利いた例しのないむっつり屋と来ているので、その陰気な顔つきが弥がうえにも部屋の印象を暗くするのであった。
この怖ろしい部屋に連れて来たのは、患者を入浴させて、この病院の医長の療法にしたがって頸筋に発泡膏を塗布するためであったが、部屋の様子を一目みると、彼は恐怖と忿怒に取っ憑かれてしまった。途方もない想念が、次第に怪奇の度を増しながら、あとからあとからと頭の中で渦を巻いた。一体これは何だろう? むごたらしい邪宗改めの法廷か? 仇敵どもが彼を亡きものにしようと思い定めた秘密の刑場か? ひょっとしたらこれが地獄じゃあるまいか? しまいには、これは何かの拷問なのだという想念が浮かんだ。必死になって抵抗する彼を、寄ってたかって裸にした。ところが病気のせいで二人力になっていた患者は、幾人かの看視人の手を苦もなく振りほどいてしまい、相手は勢い余って床べたへつんのめってしまった。やっと四人がかりで押し倒して、手とり足とり温湯の中へつっ込んだ。それが患者にはくらくらに煮え返った熱湯と思われ、その狂った脳裡を、煮え湯や灼熱した鉄棒を使う拷問についての脈絡のないきれぎれの考えが、稲妻のように閃き過ぎた。湯にむせ返って、看視人たちにしっかり抑えつけられた手足を痙攣的にもがきながら、喘ぎ喘ぎ、何やら取留めのないことを喚き立てるのだった。それは、自分の耳で実際に聞いた人でない限り、想像もつかぬような叫喚であった。祈りの文句もあったし、呪詛の叫びもあった。精根つきるまで喚きつづけていたが、やがてしまいには熱い涙をぼろぼろ零しながら、それまで喚き立てていた言葉とは何の脈絡もない文句を、小さな声で唱えるのだった。「聖なる大殉教者ゲオルギイ。この肉体はあなたの御手にお任せします。だが魂は――いいや、厭です、厭です。」
看視人たちはまだ抑えている手をゆるめなかったけれど、患者はそのうちにすっかり鎮まっていた。温浴と頭に当てがった氷嚢が、利き目をあらわしたのだった。ところが殆ど気を失っている彼を湯の中から引き上げて、発泡膏を塗布するため腰掛に掛けさせる段になって、残っていた力と狂った想念とが、またしても文字どおり堰を切って迸った。
「何故そんな、何故そんなことをする」と彼は喚いた、「俺は誰にも悪いことをした覚えはないぞ。何の罪でこの俺を殺すんだ。おおお、おお、主よ! おお、我に先んじて十字架を負い給える主よ。お願いです、お救い下さい。……」
頸筋へ来た焼けつくような感じが、彼を必死にもがき狂わせた。看視人たちは手の附けようがないので、途方に暮れてしまった。
「仕方がない」と施術にかかっていた看護卒が言った、「摩擦せにゃならん。」
この何でもない言葉に、患者は慄え上がってしまった。『摩擦だと……何をこする、誰をこする? この俺をだ!』と彼は考え、死なんばかりの怖ろしさに両眼をつぶった。看護卒はごわごわのタオルの両端を握ると、力いっぱいに圧しつけながら、勢いよくごしごしと頸筋をこすった。発泡膏が剥げ落ち、頸の上皮がすりきれて、赤剥けの擦り傷があとに残った。平静な健康人にとってさえ我慢のならぬこの施術の苦痛は、病人にはこの世の終りかと思われた。必死の力を満身にこめてぐいと一と踏張り、看視人たちの手を振りもぎった途端に、赤裸のからだは石畳のうえにころころと転がった。彼は首を斬り落とされたかと思った。喚こうとしたが声が出ない。彼は失神したまま病床に運ばれ、そのまま死んだような深い長い睡りに落ちた。