一
検事審問室は静かであつた。
その室は白壁を塗つた、無風流なものであつたが、栄一はそれをあまり気にもしなかつた。彼は一時間以上そこで待たされた。生憎、書物も何にも持たずに来たものだから、その間彼は冥想と祈りに費した。
東向の窓は大きな硝子張のものであるが、日あたりの悪い故か、何となしに陰気であつた。窓の向うに赤煉瓦三階立の検事詰所が見える。
何人かの検事や書記が繁く出入をして居る。そこには、人を罰することを専門にして居る検事が毎日詰めて居るのだと思ふと淋しい感じがする。
呼び出しの小使が一寸覗いて通る。栄一は天井の煤けた斑点や、蜘蛛の巣のかゝつた四隅、窓硝子の屈曲して居る為めに、外側にある樹木が伸縮して見える工合、机の上の墨やインキで染め出された色々な模様を次から次へ見て居た。
凡てが静かである。
時々、もし治安警察法にでも触れて居たなら、どうなるであらうと云ふ不安な念も湧いて来るが、栄一はすぐそれを打消した。
彼の胸中には正義の外何物も恐れるものは無かつた。
『汝、審判者の前に立ちて、何事を云はんと思ひ患ふ勿れ、その時聖霊汝に示すべし』
彼は聖書の中にこんな文句のあることを思ひ出して、別に恐れなかつた。
彼は英国のお伽噺『アリス・イン・ザ・ウオンダー・ランド』に出てくる、トランプ・カルタの女王がお台所にあつたお饅頭を一つ、少女アリスが盗んだと云つて、法廷に引き出し、大審判を開いた話を思ひ出し乍ら、くすくすひとりで苦笑した。
そこへ、検事が出て来た。
栄一は敬意を示して、起立した。
検事は栄一を椅子に坐らせて『波瀾録』と上に書いたノート・ブツクを机の上に置いて栄一と正反対に坐つた。
『君は新見栄一と云ふのか?』
『ハイ』
『何を職業にして居るのか?』
『キリスト教の伝道を致して居ります』
『学校はどこまで行つたのか?』
『中学校を卒業して四五年あちらこちらの学校で勉強して居りました。』
『君には両親があるか?』
『いゝえ、ありません』
『君は年齢は幾つぢや?』
『二十三歳で御座ります』
検事は頬の筋肉をちつとも緩めないで、怒つたやうな面付をして聞く。栄一は気の毒な職業だと思つた。もう少し人間味があつても善ささうなものだと思ふ。
『現住所は何処だ?』
『神戸市北本町六丁目二二〇で御座ります』
『そこには何年前から住んで居るのか?』
『足懸け三年住んで居ります』
『そこで、君は何をして居るのぢや』
寒い空気が足に沁みるやうに感じる。検事は火鉢に手をあぶり乍ら、栄一の顔を凝視して居る。栄一も検事の顔を見詰める。
『困つた者を助けて居るのです』
『君が、社会主義の宣伝をやつて居ると云ふ評判があるが、それはほんとうか?』
『……………………』
『君は「勝」と云ふ男とはどんな関係があるのか?』
『勝と云ふのは山内勝之助のことですか、私の隣りに住んで居るので極く眤懇にして居ります』
『君は、何故、その青年にストライキをするやうに勧めたのか?』
『私はストライキを勧めた覚えはありません』
『だつて、「勝」はさう云うて居るが……』
『それは明かに誤謬です……ストライキになつた後に、私の処に相談に来たのです』
『然し、君が要求書を書けと云つたと、勝は云うて居るよ』
『それは、違ひます。思つた通り書けば善いと云つたのです』
『それでは、君に聞くがね、君は何故神戸燐寸会社へ秋山や勝と一緒になつて重役に面会を求めに行つたか?』
『勝が附いて行つてくれと云ひましたから参りました』
『君は平生から頗る過激な議論をするさうぢやが、君の主義と云ふのは一体何主義か?』
『私の主義は基督教社会主義です』
『さうすると、××はいらないと云ふのか?』
『いゝえ、そんなことを云ふのではありませぬ。貧しい人々や、虐げられた労働者が、正当な取扱を受けることを要求するのです』
検事は静かに何かノート・ブツクに書いて居たが、暫くしてまた尋ねた。
『その正当な取扱と云ふのは、どんなことを意味するんだね、それは財産を平等に分配すると云ふことを意味するのかね?』
『いゝえ、働いたものが正当な報酬を与へられ、遊んで居ても配当金が懐の中にころげ込んで来るやうな事の無いやうにすることなのです』
『そんな時代が来ると君は思ふか?』
『来ると思ひます』
『さうすると君は、革命を希望するのだね』
検事は、栄一を睨み付けるやうにして尋ねた。
『いゝえ、私は必ずしも革命を希望するものではありませぬ』
『ぢや、どうして、そんな空想が実現せられるか? 革命なくして来る方法があるかね』
『私は人心の更改と労働組合の発達によつて来ると思うて居るのです』
『さうぢやないんだらう。矢張り革命を希望して居るのだらう。君は貧民や労働者を煽動して、日本の国を顛覆する積りなんだらう。どうも君の平生の言動から見て、さう見えるなア! 違ふかね?』
『さうお取りになるならば、御勝手です……』
『勝手とは何だ?』
検事は眉をつりあげて大声でさう叫んだ。栄一は検事の大声に吃驚したので、伏目勝で居たが、検事の顔を熟視する為めに、眼をあげた。
検事は栄一を馬鹿にして居るのか、
『何だ? その眼付は?』
と、呶鳴る。栄一は此検事は余程ひとりで昂奮して居ると思つたから黙つて居た。否、栄一は寧ろ、心理的に考へて、検事の顔の上を過ぎる感情の雲行が刻一刻に変化するのが如何にも面白いので、実験心理の教室で精神病者の対物実験をやつて居る心持で、こちらは平気で、少しも心を乱さずに、被実験者の即ち検事の心理的過程を読まんと努力して居た。考へて見れば、検事と云ふ職業もいやな職業である。職業的に怒らねばならず、職業的に義人の積りで居らねばならず、人間の審判を職業的にせねばならない。
それよりいやなことは、凡ての人間を必ず罪人だと思つて審判せねばならぬ悲哀である。それで栄一は寧ろ検事に同情して居た。いつも過去のことのみに生きて、現在のことと将来のことに生き得ない――古い事件になると五年も六年も昔の犯罪を――然も中には腰巻一枚を盗んだ貧民窟のおかみさんの事件もあるだらうし、樽一挺を盗んで一年半の懲役にやられる事件もある――そんなつまらないことばかりに、一生を棒に振つて居るのだと思ふと、全く検事そのものに同情したくなるのであつた。
『生意気な、我輩を睨むと云ふのは何だ!』
検事はひとりぶり/\怒つて居る。顳顱の上の筋肉が激しく震へ唇が青くなつて居る。
『革命なくして、今日の社会は顛覆出来ないぢやないか? その点をもう少し明瞭に教へて貰ひたい――』
『……………………』
一分、二分、時間が経つ。雀が五六匹、裁判所の庭の樟の木の枝から枝に飛び廻つて、嬉しさうに遊んで居る。雀の世界にも検事さんが居るのだらうかと栄一は考へてみた。
栄一は判らない検事の前で、何を云つたつて仕方がないから、別に何にも云はないことにして居た。
三分、四分、五分と時間が経つ。検事は眼を伏せて『波瀾録』を意味も無く、見詰めて居る。指先がぶるぶる震へて居る。どちらが裁判官だか薩張りわからない。被告の方が落付いて居て、裁判官の方が慌てゝ居るのである。
栄一は検事のつまらぬ繰返した質問には答へ無いと考へたので、眼を大きく見張つたまゝ机の上を凝視して居た。
沈黙せる間だけは、人間は凡て黙せる万物の一部分として、優しい形を持つている。
然し、検事の職業は、沈黙の出来ない職業である。
『君は、答へないのか?』
『……………………』
『答へなければ、答へないでこちらには考へがあるのだ』
かう検事が云ふので、栄一は初めて口を開いた。
『検事さん、あなたは、私を昂奮させるお積りなんですか? あなたが、いくら私を昂奮させようとせられても、私は決して昂奮しませんから、私はあなたがそんなに昂奮して居らつしやる時にいくら答へても駄目だと思ひますから、私は答へませぬ』
かう云つたことが、少しは検事を反省させたと見えて、検事は黙つて了つた。そんなにしてまた三四分二人の間に沈黙が続いた後に、検事は警察からの調書も、『波瀾録』も、何にもかも凡てそのまゝにして、審問室から出て行つた。
それで栄一は、またひとり審問室に残されて、冥想に耽つて居た。十分以上も経つのに検事が帰つて来ないので、頸をのばして、机の上にひろげてある警察署の調書を逆倒に読むと、栄一の素行調査が書いてある。
『本人は温順と見ゆれども陰険にして、過激の言論を弄するが故に革命思想を抱けるかの感を与へしむることあり』
こんな文句が第一行から二行半に渡つて書いてある。それで革命のことに就いて激しく聞かれたことが了解せられたのである。
検事はコンクリートの廊下を歩いてまた帰つて来た。何だか審問するのが面倒臭いと云つた態度が見える。
検事が這入つて来て間もなく検事局書記が硯箱を片手に持つて這入つて来た。そして検事はまた繰返して栄一の審問を始めた。
『君の云ふ労働組合とは何か?』
栄一はこんな質問に答へなくてはならぬかと思つた時に、ガツカリした。
『労働組合は資本主義の圧制を脱れる為めの労働者の組合であります』
『つまり社会主義と同じことか?』
『社会主義は主義ですが、労働組合は生きた労働者の団体であります』
『それぢやストライキをする為めの組合か?』
『いゝえ、ストライキするのが目的ではありませぬ、労働者の地位を向上せしめるのが目的であります』
検事はそれからまた燐寸会社のストライキのことに就いて色々尋ねた。検事も余程落付いて来たので、栄一はそれに対して静かに答へた。そして書記はそれを一々書きとめた。
栄一は牢屋に行くことを覚悟して居た。然し栄一自ら考へてみても別に犯罪とも見えるものはなかつた。
灯がとぼる頃になつて、全部の聴取書が出来上つて、栄一は一先づ帰宅を許されることになつた。それで栄一は賑かな元町筋を、とぼとぼと、ひとり考へ乍ら歩いて帰つて来た。
今日の社会組織なるものが存外つまらぬ、薄弱な基礎の上に載つかつて居ることを、ひとり笑ひ乍ら、葺合新川の貧民窟に帰つて来た。
路次に栄一の姿が見えるや否や、子供等は群がり来つて、栄一の両手、袖、裾、帯の端―凡そ掴み得る所をみな掴んで、栄一を家まで送り届けてくれた。
栄一はその中でも今年五つになる美しい『絹ちやん』と云ふ糞尿汲取人夫の娘の頬ぺたを撫でて、検事の顔と思ひ較べて見た。矢張り、絹ちやんの顔に較べると検事の顔は明かに変質して居る。
『矢張り貧民窟が善い! 貧民窟が善い! こんなに子供等に愛せられ慕はれては、とても貧民窟の外側に出る気はしない』と栄一は自分に云うた。
栄一は冷たい資本主義国家を呪うても、貧しい乍らも、美しい子供等の世界の執着から逃れることは出来なかつた。
今日は裁判所から何かの沙汰があるか、明日は警察署から何とか云つて来るかと思つたが、別に何の沙汰もなかつた。不安な中にも栄一は、貧民生活を享楽して、月を送り、月を迎へた。
そして、栄一はゆつくりした心持ちで貧しい人々に仕へてゐた。