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Crossing the Deadline 02: One Who Shoots at the Sun
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Crossing the Deadline 02: One Who Shoots at the Sun
賀川豊彦
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Nguyên bản Public Domain
Chapter 8 of 58

八

『出来るだけお助けしませう』

と云つて小秀を貧民窟の長屋から送り出した栄一は、小秀が不憫に思へてならなかつた。小秀は出来るだけ新見を頼寄にしようとして居た。栄一もたよりにされることを喜こんで居た。然しそれ以上に深く立ち入つて恋愛を構成するだけの勇気は無かつた。

栄一は小秀が来る前からそこに倒れて居るモルヒネ中毒の患者と、酔払ひを静かに眺めて物思ひに沈んだ。

第一期の恋愛の練習は鶴子で済んだのである。その甘い恋と熱い血の若々しさは、今考へて見ると自分ながら自分の若々しさを思ひ出して、ゾツとする程である。あの時にはよくもまア父に反抗してまでも恋人の処に通つたものであると思ふと、恋の道にはボスポラス海峡を泳いで渡つた人もあると云ふから、実に危いものであると考へられる。

栄一は静かに庭の柱にもたれて、モルヒネ中毒の患者を見詰めた。自分と――小秀と――モルヒネ中毒の患者の間には何等の関係も無かつたものであるが、因果の引合せとは云へ、貧民窟で一緒になつたのである。

モルヒネ患者は元は俳優であつた。両三年前に肋間神経痛にモルヒネを注射し始めてからは、もうモルヒネが無ければ一日として生きて居れなくなつたのである。

『ア、痛い、痛い、ア、痛い』

と云つて新見の内へ這入つて来出したのが、二三ヶ月前からであるが、栄一が親切に田沢のお医者さんから消毒に使ふアルコールとモルヒネを貰つて来てあげるものだから、毎日栄一にそれを貰ひに来るのである。

おそろしく大きな眼玉をギラつかせて、青ざめた、髪の毛の延びた元俳優であつた男は、紺の袢纒に猿股を穿いたまゝで、そこに倒れて、身動きもようしないで、ヂツとして居る。その側には『江州』と云ふ呑んだくれが屁理屈を云つて奴鳴り込んで来たまゝ、倒れ込んで前後も知らずに眠つて居る。

小秀はもう少し長く居りたかつたのであらうが、この様子を見て吃驚して逃げ出したのであつた。勿論小秀としては静かな落付いた女であるから、あまりいやな風をして逃げ出しはしなかつたが、それでも、

『私、こわいわ!』

と一言言つて帰つて行つたのであつた。小秀の願ひは、姉にあたる『おりん』さんが、今度或大工の所に縁付くので金を貸してくれと云ふ要求であつたのだ。その金と云ふのも僅かに三十円で善いと云ふので、勿論栄一は喜んでその金のことを心配したのであつた。

栄一としては、小秀が三十円位の金に困る筈は無いと思ふのであるが、実際事情を聞いて見ると、小秀は借金に困つて居るらしいのである。何でも最初に玉の家に始めてつとめに出た時に衣裳料として借りた三百五十円が未だに支払へないのみならず、その後正月を二つして却つて借金が倍になつたので、最初両親が借りた五百円を加へると、かれこれ千二三百円の借金になつて居つて、とても此上借金をさせてくれないから困ると云ふのであつた。

小秀はその他色々と内間話をして居た。おてかけになれば毎月百円は取れる口はあるのだけれどもと口籠つて云うて居たことも栄一は覚えて居る。そして、

『あなたは今迄におてかけになつたことがあるの?』

と聞くと、小秀は黙つて答へ無かつた。それで、聞くだけ野暮だとわかつたので尋ねただけ気の毒な気がした。

『しかし、こんなことをして、ぐづ/\して居れば一生つまらぬものになつてしまひますからね――』

と小秀が真面目腐つて、云ひ直つて居たことを見ると、小秀は頗る煩悶して居るらしかつた。

栄一の推測する処により、小秀の老母の口振りによると、小秀が現在関係して居る旦那と云ふのは元町の質屋の大将であつて、子供が五人もあり、とても長くは関係して居れ無いので、最近その旦那と、小秀との関係が切れたらしいのである。その為めに、小秀は老いた両親の処へ多少なりとも、之れまで小遣を仕送りして居たものが、もう出来なくなつたので、新見にその世話を頼みに度々来るものらしい。

然し新見としては、どれだけの程度で深入して善いものかわからないし、何だかそんな関係に自分が置かれることによつて、小秀を金で買ふやうな気になつてならないので、新見は深く立ち入つて世話をしようとは、之れまで一度も云うたことは無いのである。たゞ、今度は姉が結婚するのに僅かな金が無いと云ふものだから、御用立てしようと云つたまでゝあつた。

小秀は栄一の確たる答を聞いて喜んで帰つて行つた。それを栄一は必しも憎いとは思は無かつた。然し何とはなしに小秀と自分の間に益々遠い遠い距離が出来て行くやうに考へた。

モルヒネ中毒の男は死んだやうにヂツとして居る。江州だけは足を動かしてみたり手を動かしてみたりして居る。

モルヒネ中毒の患者――江州――小秀――自分――貧民窟――恋愛――に栄一は人物に事件とをとり/″\に並べて考へてみた。そしてたゞ妙な世界に住んで居ると云ふことだけは間違ひではなかつた。

小秀は栄一でなければならぬと云つたことは一度も無い、たゞ近い中に大阪の新町にでも鞍換へをせねば今の処ではやつて行けぬと云ふことを繰返して居た。それかと云つて栄一を誘惑しないでも無い。小秀は芸者屋に居ることが永くなればなる程、男を操ること手が上になるやうに、栄一には見える。

折々は栄一も小秀と自分の関係を聖アントニイの弟子のパプナチユウスと美女タイスの関係に等しいとも考へた。

何しろ、現在栄一が関係を持つて居る女の中では小秀が最も美しい女である。それを取り逃がすことは惜しくないことも無い。然し日一日すさんで行く小秀の姿を見ると、あれで貧民窟の生活に堪えて自分と偕老同穴の苦労が出来ると少しも考へられない。

何となく若いだけに、うぶ/\した処はあるが宴会の席上で男にからかわれるだけあつて、一体に締りが無いやうな気がする。そしてその恋愛が早や営業的に崩されて居る。

殊に小秀の家庭が救済させられることになると、相互的関係の恋愛は全く失はれて了つて、救済者の立場から小秀を眺めることになるのである。

つまり小秀は自分の位置まで登つて来てくれ無いのである。小秀は自分を玩弄物として甘じる覚悟はあるらしいが、労働者の解放を語り、世界の改造を夢みるやうな女ではないのである。勿論自分が引取つて教育する段になると、賢い女であるから多少の進歩はしようが、既に生理的に色慾には疲れて居る彼女に一番奮励して、真理の奥の院を探求する大きな慾求が起るか否かは実際、問題である。

さう思ふと、新見は自分の立場を小秀に明白にしないことによつて、小秀自身を欺いて居るやうにも思はれた。

小秀としては、もしや、新見が自分を落籍してくれるなら万更いやでも無い気で居ることは今迄度々謎をかけることによつて知れるのである。

それを栄一は知らぬでも無い。然し栄一はそれを真正面から受取るわけには行かないし、さればとて、全然小秀に『貧民窟に訪ねてくるな』と云ふやうなこともよう云はない。然し、栄一は小秀を性慾の対照にするだけの勇気もなし、ただ、今迄の惰力をそのまゝ引張つて居ると云ふだけで、自分の至聖所の中へ、小秀だけを引張り入れて居るやうな気がしないでもないのである。

然し栄一は今でも鶴子から何とか明確な答が無ければ、他の女には決して云ひ寄らないと云ふ堅き決心はして居るのである。

騎士のやうな堅い決心――そして恋愛に対する神聖な尊敬――それを栄一は自分ひとりできめて居つた。それで自分は今健康もまだほんものでは無いが、いよ/\健康が回復して、自分のやうなものにでも結婚してくれる女があるとしても栄一としては先づ鶴子に一度約束した自分であるから、決して他の女には見向きもし無いで、自分だけは永遠に、男子としての童貞を守りたいなどとも考へた。

何にしても新見は救済者として貧民窟の中に据ゑられた。タイスの誘惑が強く無いこともない。然しどう云ふわけであるか、自分の性慾は制御の出来ない程強いものでは無いことを知つて、信仰の勝利を心の中にいつでも勝ち誇つて居た。

それで、小秀に会ふ度毎に、彼は一段上から小秀を見下すやうになつた。何だか小秀には気の毒ではあつたが、聖人になりたいと云ふ妙な野心が、進んで小秀の誘惑にかゝることを堅く禁じた。

冷たい男と云へば冷たい男である。然し栄一は貧民窟の幾十人の淫売婦と接触して、性慾のドン底を知つて居るものだから、気の毒ではあるが、小秀を取扱ふ時に一人の比較的純潔な淫売婦を救済する気持ちより以上に愛着が湧かなくなつた。

今の気分と、たゞ性慾にのみ支配せられて脆くも、自己の童貞を破らうとした兵庫の店に居た時の危機と較べて、自分にも少し計り意志が強くなつたと云ふのか、硬くなつたと云ふのか、禁止的の意志を頑強に使用し得るやうになつたことを自覚する。

それで艶つぽい、小秀を見送つて、モルヒネ患者に眼を移すと、栄一は早や女のことは全く忘れて、モルヒネ患者の運命を考へ、他念も無く心も取乱さずに居れるやうになつたのである。

雨上りの泥濘の深い貧民窟の路次に秋の夕日が早く移る。

栄一は銀行が閉ぢない中に、早くおりんさんに渡す為めに三十円の金を取り出して来ようと預金帳を淋しさうに眺め乍ら、路次を西に出て行つた。

モルヒネ中毒の患者と、酔払ひの江州は相変らず頭をならべて上り口に死人のやうに倒れて居る。

Chapter 8 of 58
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